最終話 魔女の奇跡

 いくら待っても、もう青い鳥が来ないことはわかっている。


「ジュヌさん、お加減はいかがですか」


 扉が控えめに叩かれ、往診に来た主治医が妻の案内で部屋に入って来る。


「では先生、よろしくお願いします。何かありましたらお呼びくださいませ」


 と言って退室する妻はいつも、主治医に対する申し訳なさと、ジュヌに対する心配と嫉妬が入り混じった複雑な表情を、隠しきれていない。


 妻は、美しい人だった。

 今はジュヌの看病に疲れ、日に日にやつれていくのがはっきりと見て取れる。

 早かれ遅かれ、君より先に死ぬことは変えられない。今まで支えてくれたことは本当に感謝しているが、これ以上こんな自分に尽くす必要はない。君は君の人生を自由に生きてほしいと、実際に伝えたことがある。

 妻は頑なに、そばを離れないと譲らない。

 女の意地なのだろうかと、感じることもある。

 自分が発症し、母が死に、いくら心が弱っていたからといって、魔女のことを打ち明けてしまったのは間違いだった。

 話すうちに青ざめていく妻の表情、震える手、長い沈黙――。


 後に妻は行動を起こした。


 そして魔女はひっそりと別れを告げて、ジュヌから去っていった。


 寝台ベッドから外を眺める。瞬きをする今この瞬間も、青い鳥が窓のさんまるのではと期待してしまう自分が、本当に嫌になる。

 ジュヌは小さくため息をつき、ゆっくりと体を起こして主治医に向き直った。


「先生、お世話になります」

「失礼、少し診察を」


 主治医は寝台脇の椅子に座り、慣れた手つきでジュヌの体を診察する。

 彼は祖母の主治医の孫で、母の主治医の息子である。地域を支えてきた名門一族の地位と実力に、ジュヌも幾度となく助けられてきた。


「相変わらず、薬を飲んでいらっしゃらないそうですね」

「僕は自分の運命を受け入れていますから」


 幸か不幸か、子供には恵まれなかった。

 妻と、妻の両親は子供の誕生を切実に願っていた。

 ジュヌも表向きは子供がほしいていを装っていたが、年齢的に妻も周囲も諦めがつく頃になって、ようやく解放された。

 遺伝で連鎖していく難病ならば、ここで断ち切ってしまわねば悲劇が繰り返されるだけだ。

 妻には幾重もの悲しみを味わわせてしまうことになる。


「奥様が心配されていますよ。長生きしてほしいと」


 診療録に診察結果を記入しながら、主治医は言った。


 ――長生きして、ジュヌ。


 魔女が去り際にささやいた言葉が蘇り、思わず涙ぐむ。

 沈黙を続けるジュヌに、診療録から目を上げて、主治医は話し始めた。


「『魔女の奇跡』って、聞いたことはありますか?」

「魔女の!?」


 急に力を込めると体の節々が痛むのを忘れ、ジュヌは前のめりになった。


「いたた……」

「無理せずに」


 主治医はジュヌの体を支え、寝台に横たわらせる。


「薬が完成したときに、我々がたとえて言う言葉なんです。『伝説の魔女』って、ご存知ですか? 我々医療に携わる者にとっては、もはや崇拝の的とも言える存在で、昔、疫病の流行った国を一人で救ったという」

「……幼少の頃、祖母から聞いた覚えがあります」


 ジュヌは辛うじて、冷静さを保った。

 主治医は椅子に座り直し、ふっと苦笑した。


「おそらく、私の祖父がジュヌさんのお祖母ばあ様に話したんだと思います。祖父は、熱心な魔女研究家でしたから」

「魔女研究家?」

「その魔女の書物や記録が残っていれば、医術・薬術の進歩は数百年早かっただろうと言われています。残念ながら魔女が救った国は、その後の戦争に敗れて、書物も含めてすべて焼かれてしまったのです」

「そんな……ひどい」

「でも魔女は、一人で生き残っていたそうです。ふらりとどこかに現れては、難しい病気や怪我を治していたと。行商人や旅芸人を装って、その時は魔女だと誰も気づかないんですが、それが実は通常の薬ではなかったという伝承や記録が、数百年の間あちこちの国に残っているんです。祖父はその足跡そくせきを丹念に追って、どんな病気や怪我をどのように治したのかを研究していました。なんとつい数十年前にも、この近辺でそれらしい出来事があったとかで」

「そう、なんですか」

「その記録を見つけた時の騒ぎぶりときたら、普段の温厚な祖父からは想像もつかないほどで、幼心ながら鮮明に記憶に残っています。当時は私も、『伝説の魔女』が近くにいるかもしれないと思うだけで、興奮しました」


 と、主治医は微笑んだ。

 主治医に言ったとしても信じてもらえないだろう。その話を祖母から聞いて居ても立ってもいられなくなり、森へ飛び出して本当に奇跡的に魔女に出会えたことが、ジュヌのすべての始まりであった。


「現実主義の父は、話半分に聞いていましたけどね」


 と言いながら、主治医は、往診鞄の中からもう一回り小さい鞄を取り出した。


「でもですね、我々とて、いつまでも難病を難病のままにしているわけではない。近年の、医学、薬学の進歩は目覚ましいんですよ。さてそこで、ジュヌさんの、お祖母様とお母様です」


 ジュヌは息を呑み、目を大きく見開いて主治医の次の言葉を待った。


「この遺伝性難病は確かに珍しい奇病ですが、他の症例は皆無ではありません。原因は不明、治療法も確立されておらず、せいぜい痛み止めと血流促進剤を処方するくらいしか対処のしようがなかった。そんな中、ジュヌさんのお祖母様は奇跡的に完治し、お母様は悪化せずにいた期間が長かった」

「先生の薬が効いたからでは?」

「いいえ、同じように処方した他の患者さんは、力及ばず早くにお亡くなりになったという記録があります。父は、小康状態が長く続いたジュヌさんのお母様から定期的に血液を採取し、徹底的に調べて病気の解明に努めました」

「何か、わかったんですか?」

「ええ」


 主治医は小さな鞄を開け、小分けにされた薬瓶と注射器を取り出す。


「お母様の血液からは、処方した薬にはない成分が検出されました。ある植物から採れる特殊なもので、その特定に至るまでに相当な時間を費やしました」

「……それはつまり?」

「ジュヌさんのお母様がどうやって、どうしてそれを口にしていたかまでは不明ですが、我々の研究は実を結び、ついに『魔女の奇跡』を起こしました」

「え?」

「この、特効薬が完成したんです」


 主治医はジュヌの目の前に、透明な液体の入った小さな薬瓶を差し出した。


「これで、世界中の似たような難病で苦しむ方々を、全員救うことができる。医療に携わる者として、これほどの喜びはありませんよ。さあジュヌさん、腕を」


 主治医はジュヌの腕を掴み、消毒液を染み込ませた脱脂綿で肘の内側を撫でる。


「ま、待ってください。副作用は?」

「多少体がだるくなったり、場合によっては発熱しますが、数回注射すれば、ほぼ日常生活が送れる程度には回復します」

「それだけ、ですか、副作用は」

「ええ。医学の進歩は素晴らしいでしょう?」


 主治医は注射器に瓶の薬液を入れ、消毒したジュヌの腕の血管に注射針を刺す。

 ぎゅうっと、薬液が体内に注入される。と同時に、息が止まるほどの激痛がジュヌの体を駆け抜ける。


「終わりましたよ」


 主治医は注射器を抜き、ジュヌの腕に包帯を巻いた。


「しばらくぼうっとするかもしれませんが、大丈夫、治りますよ。明日、また診察に来ます」


 主治医は注射器等を往診鞄に片付け、立ち上がった。


「『魔女の奇跡』が間に合ってよかった。ジュヌさん、あなたはこの国の英雄です。どうか、今後も平和を見届けてください」

「……本当に、この病気が治りますか」

「ええ」


 主治医は鞄を大事に持ち上げた。


「では、私は奥様と少しお話していきますので、ジュヌさんはお休みください」

「ありがとう、ございました」


 朦朧もうろうとし始める意識の中、なんとか声を絞り出したが、退室する主治医の耳に届いたかはわからない。

 ジュヌは大きく息を吐き、目を閉じた。


(ああ、魔女さん――あなたの薬が、巡り巡って僕を救うかもしれません)


 つ、と涙が目尻からこぼれ、耳を伝って枕に落ちた。


(世界中で、これから何度も、『魔女の奇跡』がきっと起こるんですよ。ああ、ローエ、あなたの奇跡が……)


 ――あのねジュヌ、わたしは自分がやりたいことをやっているだけさね。


 眠りに落ちる直前、ローエの微笑みが見えた気がした。



❃ ❃ ❃



 人知れぬ小さな沢のほとりで、七彩に移ろう芽が地上に顔を出す。

 いずれ、世にも美しい花を咲かせるのだろう。いつか結界を破る魔女が現れるのを待ちながら――。

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魔女の病 小豆沢さくた @astext_story

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