第七話 妖精の幻花
その日、もう何度遣いに出したかわからない青い鳥が戻ってきて、丘で待つローエに伝えた。
「女の人が、結界の外まで来ているって……!?」
ローエはしばらく
女性はジュヌと同年代である。背が高く、飾り気はないが一目で品がよいとわかる服を身に着け、長い髪を後頭部できつくまとめている。気の強そうな目をしている美人であるが、その表情は今、緊張と困惑で
ジュヌから聞いていた、顔や姿の特徴と一致している。間違いなく、彼の妻である。
彼女がここに来たということは、ジュヌからローエとの秘密を打ち明けられ、さらにジュヌ本人は、何らかの理由で動けないということである。
彼女は、ローエとの一定の距離を置いたところで立ち止まり、一礼した。
「初めまして。魔女さん、ですね。永らく、夫がお世話になっておりました」
ローエは彼女から、芯の強さを感じ取った。さすがは、人を導く立場で苦労ばかりだったジュヌに、長年連れ添った人物である。
動揺を悟られないよう、ローエはゆっくりと
彼女は一瞬目を見開いたがすぐさま真顔に戻り、冷たく見下ろすようにローエを見返した。
「あのね、いきなり訊くけど、あなたは、ジュヌの奥さんさね? ジュヌは?」
「ええ、妻のピティスと申します。夫は今、病気で倒れています」
「なんの、
「お
「っ!」
喉が焼け付くように熱くなり、ローエは声を失う。
「ずっと小康状態だったお義母さまは、夫が発症したのと同じ頃に急激に悪化して、亡くなりました」
薬が切れたからである。
ジュヌが、ここに来られなくなったからだ。
中年以降に発症する、遺伝性の難病――可能性は低いはずだったが、ジュヌには当て
息がうまく吸えず、ローエは自分の胸元の服を掴んだ。
「お義母さまが亡くなってから、夫はずっと自分を責めていました。その理由を聞き出すのにとても苦労しましたわ、魔女さん」
ピティスは淡々と言葉を続ける。
「夫は、主治医の先生の薬を、気休めでしかないと言って飲みません。魔女さんに会えないと、毎日泣いています。夫が毎年この時期になると、少し浮足立って外を気にしていた理由も、やっとわかりました」
ローエは気力を振り絞り、ピティスに薬の袋を見せた。
「あのね、この薬は、元はお母さん用だけど、ジュヌに飲ませても――」
「いいえ」
ピティスはローエを遮って、首を振った。
「お願いです、魔女さん。どうかもう、夫のことは忘れてください。私は『伝説の魔女』よりも、医学の進歩を信じます。そのうち特効薬が開発されるはずです。似たような症例は他にもあると、先生からお聞きしましたが、魔女さんはどうしてその薬を世間に出さないのですか? 夫だけを治そうとする理由は?」
「――」
何も言い返せなかった。
行き場を失くした薬がとても重く、ローエは袋から手を離した。
「私は、あなたが憎い」
ピティスは変わらない口調で続ける。
「夫は家族思いの、仕事熱心で立派な男性です。夫との結婚は政治的な理由でしたが、私のことをとても大事にしてくれたし、私も夫に尽くしてきました。それなのにずっと、夫はあなたのことを秘密にしていたんです。毎年必ず会う相手がいたなんて、心底裏切られた気分です。あなたの薬でお義母さまが生かされていたことにも、嫌悪感を抱きました」
「あのね、そんなつもりじゃあ」
「いいえ、そうでしょう? あなたの薬が飲めなくなって、お義母さまは亡くなったんですから。でも夫は、あなたに会えないのが悲しいと言って泣くんです。命の恩人で、心の支えで、魔女さんには何度救われたかわからないと。それを聞かされた私の気持ちが、わかりますか?」
「……」
「だから、夫が毎年会っていた魔女とやらが、どんな美人なのか見に行ってやろうと、ここに来たんです。それが、こんな――こんな、皺だらけの老婆だったなんて! 私は、こんな老婆にずっと夫を取られていたのかと思うと! 許せない!!」
話すうちにピティスの感情が一気に
「……老婆で、悪かったさ。それに、お母さんを長生きさせたかったのは、ジュヌの希望さね」
「そんなことは聞いていません! とにかくもう夫はここに来ませんし、薬もいりません。夫は私がずっと看病しますから、どうかご心配なく。では失礼します!」
一息でそう言って
ローエの口から吐き出されたため息は、流行病の国から追放された時以上の、深い深いものだった。
❃ ❃ ❃
どのようにして帰ってきたのか、覚えていない。気づけば、ローエは部屋の
『ねえローエ、大丈夫!? 男の子に会えた?』
「あのねイム、やっぱり魔女は人間と関わってはいけなかったのさ。結局、わたしは誰も救えない。不幸を増やすだけさね」
ローエは、枕に押し付けていた顔をイムの方へ向ける。つと、涙の粒が横向きに流れ落ちた。
「もう薬は必要なくなったさ。今までありがとうね、イム」
『ねえローエ、何があったの!? 男の子のお母さんは?』
ローエは力なく、のそりと起き上がった。
ぼさぼさに乱れたローエの髪を、イムが飛び回って懸命に整える。
『ねえ、ローエったら!』
「あのねイム、――」
ローエのやりきれない気持ちが、涙となって
医学の進歩を信じると、ピティスは言った。
今は、ローエが活躍していた時代とは違うのである。
あの難病だけではなく、ローエの知らない病気が次々発見され、世の医学者たちは薬の研究に勤しんでいるのだろう。
そうして開発された薬は、奇跡的な偶然で「伝説の魔女」に会う必要もなく、医者にかかれば誰でも処方してもらえるようになる。
遺伝性の難病がジュヌも発症する可能性については、ずっとローエの頭の隅にあった。
しかし、ローエの薬は治すことはできても、予防することはできない。治すことを拒否されてしまえば、もうローエに施す
どんな病気も怪我も治せる魔女は、すべての人を治せる魔女ではないのだ。
『ねえローエ、ローエが悲しいのは、男の子ともう会えないからでしょ?』
イムは白髪の前髪に逆さまにぶら下がって、ローエの涙顔を覗き込む。
『あたし、知ってたわ。ローエは男の子と会う時は、身だしなみをちゃんとして、背筋を伸ばして、楽しそうだったもの。だから、若返ったんだわ』
イムはくるりと一回転し、ローエの前髪を引っ張った。
「いたた、やめてちょうだい」
『ねえローエ、あたし、わかってるんだから! ずっと、好きだったんでしょ、あの男の子のこと!』
「なんと……まあ……」
『魔女は嘘をつかない。でもずっと隠してたんでしょ? だってあたしは、ずっとローエと一緒にいて、ローエを見てきたもの。全部わかるのよ』
長寿の魔女は、誰も愛してはいけない。
悲しい結末しか待っていないからだ。
過去に、人間に恋をして身を滅ぼした魔女を何人も知っている。
ローエは、自分だけはそうなるまいと、決めていた。
――はずなのに。
ジュヌの結婚が決まった時は、自分の子が手から離れていくような、親にも似た気持ちもあったことは事実だ。だが本当は、内心とても落胆している自分に向き合うことが怖くて、ずっと目を逸らしていた。
ジュヌとともに生き、ともに過ごし、ともに老いていける人生の伴侶であるピティスが、ローエは心底羨ましかったのだ。
「こんな魔女が若い人間を好きになるなんて、みっともないじゃあないか」
『年齢なんて関係ないわ! あの男の子だって、ローエに会えなくて悲しいって、泣いてるんでしょう? ローエだってそうでしょう?』
「もう無理さね。ジュヌの奥さんを知ってしまったから。毎年ジュヌと会うのを楽しみにしていた自分が、今さら恥ずかしくなったさ」
『ねえローエ、もうこのまま会えないなんて、耐えられるの!?』
イムの素直でまっすぐな質問は、ローエの胸を貫いた。ローエは再び、寝台に倒れ込む。
「あのねイム、この苦しい気持ちの病は治せないのかい?」
『薬はないわ。ねえローエ、だって恋は治す病気じゃないもの』
「じゃあ、どうすればいいのさ?」
『思うとおりにすればいいのよ!』
「そうは言ってもね、イム。わたしはもう、何もできないさ。ジュヌの奥さんに、ああまで言われてしまっては……」
『ねえローエ、あたしはローエのことはなんでもわかってるんだから。ローエが悲しいのは、あたしも悲しいの。ローエが幸せでないなら、あたしも幸せじゃないわ。今、ローエが幸せじゃないのが、あたしはすごくいやよ! ねえローエ! いやなのよ!!』
イムは叫びながら、全身を震わせた。
『ねえローエ、あたしの花の花びら、ローエに一枚あげるわ』
イムは何を言っているのか。ローエは慌てて起き上がる。
ローエを見つめるイムの
「あのねイム、今、なんて……?」
『ねえローエ、知ってた? あたしの花は、なんでも元に戻す効果があるのよ』
「『元に戻す』? 治すのではないのかい?」
触れただけでどんな病気も怪我も治してしまうという「幻の花」の伝説は、半分は正しく、半分は間違いである。「触れた者の望む姿に戻す」ことが、本来の効果なのであった。
病気のない状態が望みなら、健康な体に戻る。すなわち、老いる前が望みなら、若返りも可能なのである。
『魔女のローエを若返らせるには、触っただけじゃ足りないわ。ねえローエ、あたしの花の花びらを一枚、食べて。それで、男の子に会いに行ってくるのよ! ねえローエ!』
「あのねイム、待ってちょうだい。そんな――」
『いいのよ。あたしのために、ローエがずっとここにいてくれたのが嬉しかった。だからもう、自由になっていいわ』
「そんなことをしたら、『幻の花』が枯れてしまうでしょうに!」
『枯れたら種ができるわ。ねえローエ、種は沢のほとりに植えてちょうだい? いつかまた咲くわ』
「イム、そんな」
『ねえローエ、お願いよ、あたしの最後のわがままを聞いて』
そう言うと、イムは自ら「幻の花」の花弁を一枚掴み、もぎ取った。
「イム!!」
『ねえローエ、食べて』
イムは、押し付けるように花弁を差し出す。
ローエは震える手でそれを受け取り、目を瞑って口に入れた。
途端に全身が熱くなり、体の内側から「幻の花」と同じ色の輝きが溢れ出す。
「あ、あああ……」
『ローエ!』
輝きが消え視界が戻ると、ローエの皺だらけだった手が、白くて美しい若い頃のものに戻っていた。
顔のどこを触っても、皺が一本もない。
背筋が伸び、全身の皮膚に潤いが
『ねえ、ローエったら! やっぱりよ! きれいな銀色の髪と、大きな目も同じ色! お月様みたいよ! ねえローエ、これで男の子に会いに行けるわね!』
「あのねイム、わたしはすぐ戻ってくるから」
『だめ。戻って来ないで』
イムの輝きが徐々に薄れていく。焦るローエに、イムを止める術はない。
「イム! 待ってちょうだい!」
『ねえローエ、あたしは、ローエがきれいって、ずーっと知ってたわ。それをあの男の子に、見せられる時が来たのね』
「あのねイム!」
『ねえローエ、あたしの花の種を、ちゃんと沢のほとりに植えてね? あたしはローエと出会ってから、今までずーっと、楽しかった。幸せだったわ。あたしと一緒にいてくれて、本当にありがとう。ローエはもう自由よ』
「イム! そんな……!」
『きれいよ、ローエ。ねえローエ、あたし、ローエが大好きよ――』
「イム! イム!!」
輝きが消えるとともに、イムの姿は見えなくなってしまった。
鉢植えの中の「幻の花」も同時に消え、土の上にひとつ、手のひらほどの鈍く光る種が残っていた。
「イム……! 本当に、わたしのために消えてしまうなんて……」
ローエは若返った美しい手で、そっと種を包み込んだ。
外は夜だった。
月明かりの下で「幻の花」の種を沢のほとりに植えながら、今までのイムとの思い出が次々よみがえり、ローエは涙が止まらなかった。
「行ってくるよ、イム」
種を埋めた土を、ローエは優しく撫でた。
目的を果たしたらローエはここに戻り、再び「幻の花」が咲いてイムに出会えるまで、何十年、何百年でも待つ。
戻って来ないでと言ったイムはきっと怒るだろうが、それがローエのために花弁を分けてくれたイムへの、せめてもの償いである。
ローエは涙を拭い、杖を掲げ青い鳥を呼んだ。
❃ ❃ ❃
自分に気配を消す魔法をかけ、ローエは青い鳥の案内でジュヌの住む街まで移動した。
誰もが安心して眠れる静かで平和な夜は、ジュヌの今までの尽力の上に成り立っている。
ふいに込み上げてくる涙を堪え、ローエはジュヌの自宅を目指す。
青い鳥に教えてもらった窓の外から部屋の様子を伺うと、
(あれがジュヌさね)
杖を掲げて小さく呪文を唱える。ローエの体は一瞬月の光に溶け、窓を透過して部屋の中に移動した。
その脇で、看病に疲れてしまったらしいピティスが、椅子に座ったまま寝台に突っ伏して眠っていた。
背もたれにかかっていた
「……ピティス?」
ジュヌが目を覚まし、体を起こそうとして、固まった。
「だ、誰だ!?」
「しっ」
ローエは窓掛から漏れる月明かりの下まで移動し、
「驚かせてごめんなさいね。あのねジュヌ、どうしても、あんたにもう一度だけ会いたかったのさ」
「ま、魔女さん? 魔女さんですか!? え、どうやって?」
ローエは皺のない手で、起き上がったジュヌの髪に触れた。
「苦しいね、ジュヌ。でももう、魔女の薬は作れない」
「あ……」
「何も言わないで聞いてちょうだい。あのねジュヌ、わたしはもうずっと、年に一度、あんたに会えることを楽しみにしていたのさ。あんたと過ごした時間は、わたしの宝物さね。今まで、本当にありがとう」
「魔女、さん……その姿は?」
「イムが、若返らせてくれたのさ。最後にせめて、わたしが一番きれいだった頃の姿を、ジュヌに見せたくてね」
「ああ……思った通り、とても美しくて、とても、魅力的です」
ジュヌは泣き笑いの顔で言った。
「僕はもっと、魔女さんと同じ時間を過ごしたかった」
「ありがとう。でもね、もういいのさ。あんたは奥さんを大事になさい。あのねジュヌ、お願いだから、一日でもいいから長生きしてちょうだい。その間にきっと、いい薬が開発されるさ」
「今までずっと助けてもらっていたのに、こんな形で終わりになるなんて……」
「泣き虫は治らないままね、ジュヌ」
頬に流れるジュヌの涙を、ローエは指で拭った。
「わたしはもう戻らないと」
「待って魔女さん」
ジュヌは、病気とは思えないほどの強い力で、離れかけたローエの手を掴んだ。
「なあに?」
「名前を、教えてください。魔女さんの、名前」
「――ローエ」
「ローエ?」
「それが魔女の名前さね」
「ああ、ローエ」
ジュヌは、愛おしそうにローエの名前を呼んだ。
そのままさらに腕を掴んで引き寄せ、ジュヌはローエの頭に手を回す。
唇同士が触れる――直前、ローエは腕を押し返し、
「ばかね、ジュヌ」
そう言って、ローエはジュヌの
「ローエ?」
「長生きなさい、ジュヌ。じゃあね」
ジュヌが止める前にローエは素早く呪文を唱え、窓の月明りに溶け消えた。
❃ ❃ ❃
戻り道、溢れる涙は風に流され消えていく。
涙を流すにつれ、体に力が入らなくなっていくことに、ローエは恐怖を覚えた。
ふと杖を持つ自分の手を見て、ローエは愕然とした。「幻の花」の花弁を口にする前よりも一層やせ細り、杖よりも節くれ立っていたのだ。
顔を触ると、骨と皮だけの感触しかない。急に外套が大きく重たく感じられ、風が入り込み裾が激しくはためく。
体が急激に老いていく。
これは、花弁の副作用――「元に戻す」効果の反動なのだ。
(イムのいる場所まで戻らないと!)
止まらない涙は、視界を
ローエは力を振り絞り、一歩一歩杖にしがみつくようにして、沢のほとりまで戻ってきた。
「イム、あのねイム! イムのおかげで、最後にジュヌに会えたよ。ありがとう、もう大丈夫さね」
最後は這いずるように、ローエは種を植えた場所にたどり着いた。
ローエの手から、杖がすり抜けて落ちる。瞬時に枯れて土に還ると、ローエの小屋も魔法が切れて跡形もなく崩れ去り、元の土と木々に戻った。
指先から、ローエの体も枯れていく。
(また会える時まで、わたしはここで待っているさ、イム――)
目を閉じたローエの、最後の一粒の涙が、イムを包む土に流れ落ちる。
そして、ローエの体は一気に風化したように崩れ、風に吹かれて月夜に消えていった。
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