第六話 魔女の年月
「――結婚が、決まりました」
薬を受け取った後、しばらくの沈黙を経て、ジュヌは淡々と言った。
「そうかい、おめでとう」
ローエは今日、ジュヌに会った瞬間から、左手の薬指に光る指輪を見逃していない。十歳のジュヌの姿を懐かしく思い出しながら、ローエは年月の流れを痛いほど感じていた。
しかし当のジュヌは、あまり嬉しそうではない。
「違うんです。これはつまり、政略結婚みたいなもので」
「何が違うのさ。相手は悪い子なのかい?」
「いえ、悪い人では……。お互いの立場をわきまえて、受け入れてくれる感じです」
「じゃあいいさ。大事にしてあげなさい。お母さんも喜んでいるでしょうに」
「はい、そう、ですね……」
「あのね、それじゃあ、
「その、第一歩になるはずです」
「そうかい。末永くお幸せにね。どれ、よっこいしょ」
ローエに続いて、ジュヌも立ち上がる。
「あのねジュヌ、近頃、この森の中も少し騒がしくなってきたよ」
「資源確保のために、未踏地域の調査が始まったのかもしれません。魔女さんは大丈夫ですか? その、誰かに見つかったりとか」
「心配無用さね。魔女の結界を破れるのは、同じ魔女くらいさ。わたしの
「ここも?」
「大事な、あんたとの待ち合わせ場所さね」
ローエはいつものように手を差し出そうとして、やめた。
「魔女さん?」
「あのね、こんな魔女でも、結婚が決まった男と握手をするのはどうかねえ」
その瞬間、ジュヌは強引にローエの手を掴んで握りしめた。
「魔女さんのことは誰にも秘密なんだし、彼女には関係ない」
「あのね」
手を引こうにも、ジュヌはローエを離さない。
「魔女さんは、命の恩人なんです。僕の、心の支えなんです」
「お母さんの薬を作っているからさね」
「それだけじゃない! 僕は魔女さんに会うことで、また一年がんばろうって、思えるんです! また魔女さんに会えると思えば、どんなに辛くても乗り越えられるんです! だから……!」
ジュヌは一瞬、ぎゅっと両手に力を込めた。しかしすぐ力を抜き、ローエの手を離した。
「また来年、お願いします。僕は待ってますから」
「そうさね。お幸せにね、ジュヌ」
「……はい」
ジュヌはローエに背を向けて歩き出した。
(涙声さね)
幸せになるはずの背中がなぜかとても寂しそうで、ローエはジュヌの姿が遠ざかるまで、その場で見つめていた。
❃ ❃ ❃
『ねえローエ、この頃すごくいやな風が吹くわ。この辺りにまで、戦場が広がってるの?』
外に出ないイムは、世の中の動きに敏感である。風の吹き方や水の流れで、すべてわかってしまうのだと言う。
ジュヌが終戦に向けて懸命に活動しているが、今一番難しい局面を迎えているのだそうだ。ローエはただ、ジュヌの話を聞くことしかできない。
「あのねイム、この森がどうにかなることはないと思うけれど、時々、結界の近くまで誰かが来ている気配はあるさね」
『ねえ、いやだわ』
「魔女の結界は破られないさ。イムはここにいれば大丈夫さね」
『あたしはずっとここにいるわ。でも、ねえ、ローエは戦場に出て、怪我をしている人を助けたりはしないの?』
「行かない、さ」
イムの素直な質問が、ローエの胸を突く。
『どうして? ねえ、それはローエの償いにはならないの? あの男の子は助けたのに』
「戦は、別さね」
『ねえ、なんで?』
「あのねイム、人間同士、国同士の争いに魔女が加担してはいけない。過去にそれで戦が激しくなった歴史があるのさ」
世界中の戦争がもっとも激しかった時代において、強大な魔力を持つ魔女の存在は、それだけで脅威であった。
やがて各地で、「魔女狩り」が行われ始めた。それは時に、想像を絶するほどの非人道的な方法で実行され、捕らえられた魔女たちは押し
そして魔女の排除が、戦争を収束へ向かわせるという、皮肉な結果となったのである。
その頃のローエは流行病の国を謂れのない疑いで追放され、傷心を癒す
ローエが「魔女狩り」から免れたのは、そんな理由である。
旅を続けるうち、他の魔女の話がローエの耳に入らなくなって久しい。現在、ローエの他に魔女の生き残りがいるかどうかも、定かではない。
大きな魔法も使えない落ちこぼれのローエでも、魔女として人里に下りれば、世の中の均衡が再び崩れ、さらに大きな戦争に発展してしまう可能性がないとも言い切れない。
ローエはもう、人間と一緒に暮らすことはしないと決めている。
最近のローエは、必要以上に結界の外へ出ることを避けていた。
姿を消す魔法を使えば、誰かに見つかる可能性はない。しかし、もし怪我をしている兵士などを見かけてしまったら、ローエの方が見過ごすことができないからだ。
『ねえローエは、そうしたらまた、怪我をした誰かをここに連れてきちゃうんでしょ? 犬も一緒に』
長い髪を一層揺らめかせ、意地悪な顔をしたイムにそう言われ、ローエは苦笑するしかなかった。
「もうしないさ」
『ねえ、でもそれは、ローエが優しいからって、あたしは知ってるのよ』
「あのねイム、わたしは自分がやりたいことをやっているだけさね」
『ふうん。えへへー』
イムは逆さまになって、ローエの前髪にぶら下がる。
『ねえローエ、最近はローエがあんまり外に出掛けないから、あたしはたくさんローエのお話が聞けて嬉しいわ』
「そうさね。わたしもイムがいてくれてよかったと思っているよ」
『でも、この、外のいやな感じはきらいよ。早く終わればいいのに。どうして人間は戦争なんてするのかしら』
「本当さね」
『ねえローエ、明日は、男の子が来るといいわね』
と言って、イムはローエの白髪頭の上に寝そべった。
ジュヌに渡すための薬を作ることは、ローエの譲れない約束である。
なんとか薬を仕上げて鳥を遣いに出しても、待ち合わせの丘にジュヌがしばらく姿を現さないことが、ここ何年か続いている。そんなときでもローエは毎日丘まで通い、待つしかない。
ジュヌが来ない――それは薬が切れることを意味し、母親思いのジュヌにとってそれはありえない。
今年も、鳥を飛ばしてから数日経ったが、ジュヌは丘に来ていない。
幾度も遣いを出すより、自分で直接行った方が早いのは確実だが、ローエは敢えてジュヌの住まいを知ることを避けていた。
知れば、行きたくなってしまうからである。
――!
その時、ローエのみつあみを留めていた魔法の鎖の、最後の一重が切れた。
『ローエ! ねえ、お守りが切れたわ!』
弾けたように、イムが飛び上がった。
はらはらと、ローエの長い白髪が肩に広がる。
『ねえローエ、男の子に何か起こったのね!? ねえ、大丈夫かしら!?』
「そう、さね……」
ローエは震える手で、床に落ちた魔法の鎖を拾う。手のひらに乗せた瞬間、枯れて細かく崩れ、空気に溶けるように消えてしまった。
込めた魔法の力は三回分。これ以上彼の身に何か起ころうとも、あとはジュヌ自身で危機を回避し、乗り越えなくてはいけない。
(ジュヌ……どうか無事でいて……!)
ローエは両手を胸の前で固く握りしめ、強く祈った。
❃ ❃ ❃
さらに数日が過ぎた。
ローエは今日も、いつもの丘で朝から待っていた。すぐにでも薬を飲ませないと、ジュヌの母親の症状は悪化が加速していく状況である。
雲が形を変えながら、ローエの頭上を通り過ぎていく。小鳥たちはローエの抱える焦燥感など知るよしもなく、いつものように草花や実を
青色の空に混じり始める橙色の濃さとともに、ローエの心配が重みを増していく。
もしも今日、このまま日が暮れてしまったら、これ以上ジュヌを待つことは諦めるべきだろうか。
膨れ上がった心配に押しつぶされ、ローエが不安の沼に沈み始めた、その時――。
周囲の小鳥たちが一斉に飛び立った。
「魔女さん!」
木陰から、ジュヌが姿を現した。
しかし片足には包帯が巻かれ、両手に松葉杖をついている。
「ジュヌ! ああ――あのねジュヌ、何があったのかい?」
ローエは安堵のあまり崩れ落ちそうになったが、辛うじて耐えた。
「遅くなってすみません! 青い鳥が何度も来ていたことはわかっていたのですが、どうしても来られなくて。さすがにもう、会えないかと思いましたが……魔女さんは、ずっと待っていてくれたんですか? 本当に、申し訳ない」
「あのね、それはいいのさ。それよりその怪我、わたしが治そうか」
「だめですよ魔女さん。急に治ったら、周りから変に思われる」
と、ジュヌは、ローエの隣に倒れ込むようにして座った。
「いやあ、疲れた……。松葉杖は不便ですね」
「お茶、飲むかい。疲れが取れるさ」
ローエが荷物から水袋を取り出すと、ジュヌは笑って首を振った。
「あの苦いやつでしょう? 遠慮しときます」
「そうかい。おいしいのに」
「魔女さんだけです」
「そりゃあ悪かったさ」
交わす会話の中、ジュヌがローエに会えて心から喜んでいることを、しかしその喜びを表に出しすぎないようにしていることを、ローエは彼の目の奥から感じ取った。
それに気づいた瞬間、ローエの心はにわかに浮き立ち始める。慌てて心に蓋をして、ローエはいつもと変わらない調子を装った。
「今日はやっと、魔女さんにいい報告ができます。大きな戦争が終わりました。もう、大丈夫です」
薬を受け取ったジュヌは、昼間の青い空と同じ色の目を細めて、実に晴れやかな笑顔で言った。
「なんとまあ! そうだったのかい」
「最後の攻防で手こずって、怪我までしちゃって。魔女さんの最後のお守りが切れないように、本当に本当に注意していたんです」
「そうさね、わたしは知っていたよ」
「でもこの怪我程度で済んだのは、魔女さんのお守りのおかげです。本当に、僕はずっと、魔女さんに助けてもらっていたんだって、痛感しました」
「あのねジュヌ、わたしは何もしていないさ」
「いえ本当に、ここまで成し遂げられたのも、魔女さんのおかげです。魔女さんがいなかったら、僕はとっくに潰れていた。見に来てください、平和になった国を。僕が案内します」
「ありがとう、ジュヌ。わたしはその事実を知れただけで嬉しいさ」
「魔女、さん」
ジュヌはそう言って、まっすぐに、ローエを見つめる。その視線に込められた熱い気持ちをローエは受け止めきれず、思わず目を逸らす。
「こちらに、下りてきませんか。戦争が終わっても、病気や怪我はなくなりません。魔女さんの力が、僕たちにはこれからも必要なんです。ここから出て、一緒に、街で暮らしませんか」
「あのねジュヌ」
ローエは振り切るように立ち上がり、ジュヌに背を向けてぐっと伸びをした。
「わたしはね、ここでの暮らしが気に入っているのさ。これからずっと、この平和の空気を吸って生きていける、これ以上の幸せはないさ。ジュヌのおかげさね」
「魔女さんは、寂しくないですか」
「一人じゃあないよ。わたしにはイムがいる。それにこうして、あんたと会えるからね」
「でも、年に一度しか」
「充分さ。魔女はこれからも、今までどおり暮らすだけさね」
ローエが振り向くと、ジュヌはうつむいていた。
「ジュヌのお母さんも、心配が尽きなかったでしょうに、これでもう安心さね。奥さんもね。ジュヌは本当によくやってくれたさ」
「……はい」
「あのねジュヌ、来年は、こんなに待たずに来てくれると嬉しいね」
「すみません」
「怪我人が長く外にいると、奥さんが心配するでしょうに。早くお戻りなさい」
ローエが差し出した手を握り、ジュヌはゆっくりと立ち上がる。目が合うと、ジュヌは寂しさを滲ませた瞳を細め、目尻の皺を深くした。
そんな背の高いジュヌを見上げ、ローエは言った。
「あのねジュヌ、あんた、いつの間にそんな皺が深くなったのかい。よく見れば白髪も混じって」
「えっ、そりゃまあ、もう中年ですし、僕」
「なんとまあ、あんなにかわいい男の子だったのに。人間は成長が早いねえ!」
笑うローエに、ジュヌは真剣な口調で言った。
「魔女さんは、出会った頃より少し若くなっていませんか」
「そりゃあ、どんな世辞さ。褒めたって苦いお茶しか出せないよ」
「いや、本当に。魔女さん、もしかして若い頃は、かなりの美人だったんじゃないですか?」
「なんとまあ、ジュヌからそんな言葉が出てくるなんてね。若い頃なんて何百年も前の話さね。もう忘れたさ」
「一度、魔女さんの若い頃を見てみたかったです」
「あのねジュヌ、ばかなことを言っていないで、ほら、もうお帰り。また来年さね」
「来年はお待たせしません。必ず、来ますから」
❃ ❃ ❃
翌年――。
ローエがいくら待っても、ついにジュヌは姿を現さなかった。
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