第5話
友紀が変わった。
そう思ったのは、僕が彼女を見ていなかったから、だろうか。
最初は上手く行っていたんだ。
僕は結婚したら、妻には家にいて貰って、家の中のことをきちんとして欲しい、そう思っていた。彼女もそのことは納得してくれていたはずだったのに、なのに……化け物がやって来た。その化け物は、友紀の美しい顔で僕を責め立てるのだ。
友紀は、あなたは私の話を聞いていない、私を見ていない……と同じようなことを言っては、毎日の様に僕に詰め寄るようになっていた。そもそも自分が仕事を辞めて専業主婦になったことにも不満があるようだった。
話し合って決めたことだろう、そう言うと、彼女は更に怒った。それはあなたが、私がそうしないと結婚しないと言ったからだ、と。
『私はあなたと結婚したかったの。だから、仕方なくその条件を呑んだ。私だってやりたいことはあったのよ。仕事を辞めたくはなかったのよ。あなたは自分のことしか考えてない』
そんなこと、あの時、君は言っていなかった。
僕の言葉に、彼女は怒鳴るように言い返した。
『あなたが聞いていなかっただけよ!』
僕のせいだと言うのか?
さすがに苛立った。だから言った。
君が僕と結婚した理由は、愛情じゃないよね? だったらお互い様だ。
今思えば、その僕の言葉がすべての引きがねだった。
友紀は一瞬黙って、そしていきなり暴れ出した。ヒステリーを起こしたのだ。玄関に飾っていた花瓶を叩き割り、ダイニングテーブルをひっくり返して上に乗っていたガラスの調味料セットを粉々に壊した。
僕は唖然とした。友紀の悪意を知ったからだ。
彼女は意図的に、僕がそこに置くように指示していた花瓶や調味料セットを壊したのだ。それらは僕の好みで買って、そこに飾っていたものだから。それは僕に対しての強い否定だと思った。
『あなたこそ、私に愛情なんてないじゃない! 私はあなたの飾り物じゃないわ! 何もかもあなたの言う通りにするのはもう嫌よ! すべて壊してやる!』
今まで聞いたことのない激しい声で友紀が怒鳴った。
ぞっとした。怖かった。だから僕は……友紀を殴っていた。平手で思い切り、彼女の顔を打ったのだ。
もう何も言うな! そう祈りながら殴ると、その祈りが通じたように友紀は途端に勢いを失くし、黙り込んでその場にうずくまった。
途端に、心がざわついた。
生まれて初めて女性を殴った。そんな自分自身に呆然としたのだ。
その後、僕は友紀と同じように家の中のものを壊した。多分、今の自分をごまかしたかったのだと思う。無かったことにするために、家の中を壊して回ったのだ。家具をひっくり返し、クローゼットの中を引っぱり出し、衣類を床にぶちまけた。
ひとしきり暴れて、滅茶苦茶になった家の中で、肩で息をしながら僕はようやく我に返った。
すると途端に友紀のことが気になった。家中を、名前を呼びながらさがして、ようやく寝室に逃げ込んでいる友紀をみつけた。怯える彼女は当然のことながら僕を拒絶する。
どうしたんだ?
友紀、もう大丈夫だから。
必死に言葉を重ねる僕に、友紀はのろのろと顔を上げた。その腫れた顔を見て僕は思わずたじろぐ。その隙をついて、友紀はいきなり立ち上がると、僕の脇をすり抜け寝室を走り出て行った。
慌てて追いかける僕の目の前で、彼女はガラス戸を開けてベランダに飛び出した。嫌な予感がして僕も急いでそれに続く。暗いベランダに出て彼女の名前を呼んだその時、後ろから強く背中を押された。
……?!
声を上げる暇もなく、僕の体はベランダの柵の向こうに躍り出ていた。
「……思い出しました」
僕は相変わらず、天井を見上げながら呟いた。
「化け物は本当にいました。僕と友紀の間に見えない化け物がいて、僕たちを壊していたんです」
「その化け物はまだいますか?」
「……いいえ。もう行ってしまいました」
「では、もうあなたは帰ることができますね」
珠城の声がやけに遠くに聞こえた。
僕は一度目を閉じて、すっと息を吸ってみる。そこで背中が固く冷たいことに気が付いた。
あれ、何だろう。
目を開き改めて辺りを見渡して、そして驚く。
ここは……どこだ?
いつの間にか僕は屋外にいて、地面に仰向けに倒れていたのだ。背中は固いアスファルトの上。なるほど、冷たいはずだ。
気が付くと目の前には大きな月があった。
満月には少し足りない、いびつな月だ。
けれど、その輝きに嘘はない。
綺麗だな、と素直に思う。
そう言えば、こんなふうに月を見上げることはついぞなかった。いつぶりだろうと目を細めて考えていると、不意に声を掛けられた。
「……あなた」
顔をわずかに動かしてそちらを見ると、そこには友紀が立っていた。彼女は裸足だった。髪は乱れ、顔の化粧は落ちていて、いつもの綺麗な友紀の姿ではなかった。だけど今、僕を見下ろしている友紀の顔には本当の表情があった。いつもの化粧の上に作られたものではなく、本当の友紀の顔だ。その顔を僕は今、美しいと思った。彼女の本当の顔を、僕は初めて見たと思った。
「……友紀」
僕の声に友紀は黙って手を差し伸べてくれた。
僕はその細い手に震える自分の手をなんとか伸ばしながら、少しだけ微笑んだ。
「……冷たい手ね」
低く友紀が呟いた。
そうだな。
それでもこの冷えた手が、今度こそ君を……。
耳元で、溶けかけた氷がグラスの底で、かちりと鳴る音が聞こえたような気がした。
タイムアウト、ということか。
確かに、夜は短い。
友紀の背後にはいびつな月。その光を浴びながら、僕はゆっくりと目を閉じた。
それでもこの冷えた手が 夏村響 @nh3987y6
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