第4話

「……珠城さん?」

「奥さまは今もお宅でひとり、あなたのお帰りをお待ちでしょうか?」

「それは……そうですが。あの、何か?」

「いえ。ただ」

 少し間を置いてから、珠城はじらすように言った。

「今も奥さまは、その化け物と一緒にいるのではないかと思ったのです」

 化け物と?

 僕は怪訝そうに彼をみつめた。

「何を言っているんですか。化け物なんてそんなもの、いるわけが」

「そうでしょうか?」

「え?」

「本当に、部屋が荒れていたのは奥さまの自作自演でしょうか? 確信がありますか?」

「それは……だってそうとしか……」

「奥さまがひとりで出来る程度の荒れ方でしたか?」

 言われて僕は、あの時の家の様子を思い出してみた。

 確か玄関のドアは開いていた。電気は付いていなくて、真っ暗だった。だから不審に思ったんだ。

 僕は彼女の名前を呼びながら、急いで家の中に入った。

 そして、唖然として佇んでしまったんだ。

 部屋の荒れ方は、尋常ではなかった。家具は倒れ、テーブルやソファーはあらぬ方向にひっくり返り、衣類や紙類が床に散乱して足の踏み場もない。どの部屋も壊れるくらいに荒されて、家中がひどい有様だった。

 そのひどさを思うと確かに珠城が言うように、非力な友紀がひとりで出来るようなものではなかった。

「まさか……」

 不安になったその時、唐突に、顔を腫らし唇から血を流している友紀の顔が頭に浮かんだ。

「……ああ、そうだ! あの日、寝室の隅でうずくまっていた友紀は怪我をしていた……!」

 思わず、僕は立ち上がっていた。

「どうして、そのことを忘れていたんだろう。あんな怪我を自作自演で出来るはずがないのに」

 そう思い当った途端、ぞくりと寒気がした。

 彼女が恐れていた化け物は……本当にいる、というのか? そして、今も化け物は友紀の傍にいる……?

「か、帰ります!」

 支払をしようと財布を取り出す僕に、珠城は静かに言った。

「帰られますか?」

「……え」

 思わず、手が止まった。

「またそんなことを。僕は、ただ自分の家に帰るだけですよ。自分の家に帰るのに帰れますかも何も……無いじゃない……ですか」

「では、お帰りになられるのですね?」

「それは……」

 途端に不安になった。

 僕は、自分の、家に、帰れるのだろうか?

 友紀の、ところに、帰れるのだろうか?

 少し考えてから、僕は縋るように珠城に言っていた。

「僕は帰れると思いますか?」

「そもそもあなたは帰りたいのですか?」

 問い返されて返事に困った。すぐに言葉が出てこないことに、自分で驚く。

 帰りたい。当然だ。

 友紀が無事なのか、本当に心配なんだ。

 なのに、何かが引っかかる。

「た、珠城さん。僕はどうしたのでしょうか。僕は、どうして、ここにいるのでしょうか」

「それは勿論」

 すっと珠城がカウンター越しに身を乗り出すと、囁くように言った。

「あなたが帰りたくないと思っているからです」

「そんな!」

 よろけるように後ろに数歩、下がった。

「どうしてそんなことを言うのですか。僕は、友紀が心配で……帰りたいのに……」

「心配。本当に?」

「本当ですよ……!」

「それ以前に、あなたは奥さまのことを見ていないのではありませんか」

「は?」

「いえ、あなただけでなく、お互いに見えていなかったのでしょう。どうです? 今夜がいい機会としてお互いをみつめあってみられたら」

「みつめあう?」

 何を馬鹿なことを言っているのかと笑い飛ばせれば良かった。けれど、僕は凍りついたようにそこにいて、眉ひとつ、動かすことができなかった。

「あの、珠城さん……僕は」

「今夜はよい月が出ていますね」

 彼は、まるでそこから夜空が見えるとでも言うように、店の天井を仰いだ。

「少し足りない月は、あなたたちのためにあるようです」

「え?」

「あなたも見たでしょう? ほら、あの月です」

 珠城が、すっと天井を指さした。

 思わず、僕はその指の先を目で追った。

 その刹那、天井を透かして明るい月の姿が、僕には確かに見えた。満月に少し足りないびつな月だ。

 この月を、僕は確かに見ていた。

「ああ、友紀……!」

 伸ばした僕の手を、誰かが握った。しかし、その手は心が震えてしまうほどに弱く、そして冷たかった。

 ……いや、そうじゃない。

 冷たいのは僕の手の方だ。

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