第10話 『魂の在り処』
私は駆ける。
夕立のなかを、長い黒髪を振り乱し、あの無邪気な死神の名を叫びながら。
流石に息が切れてしまって、脚が震えて言うことを聞かなくなってしまう。日頃の運動不足がたたってしまったようだ。
……だって普通、死神を必死で探すことになるなんて思わないよ。そんなふうに、酸素不足の脳内は文句ばかりを産生していた。
喘鳴を零しながら、道路脇の公園にある水飲み場にふらふらと向かう。蛇口をひねって、細く吹き出す水を顔面にいっぱい浴びる。ぽたぽたと水滴を垂らしながらベンチに倒れ込む。無遠慮に射し込む西陽が鬱陶しくて、目元を腕で覆った。
「百夜……どこにいるのさ……」
「さて…どこだろうね」
「……!!」
思わず飛び起きて、声のする方を振り向いた。
「百夜……びゃくや……なんで…」
「死神協会の本部にちょっとね。怒られに行ってきたよ」
「やっぱり、私なんかと過ごしてるせい…?」
「んー、それもあるけど。……私、ろくに死神やれてないんだ。ノルマとかもあってさー、死んだあとまでこき使われるのも疲れるもんだね」
「死んだ……あと……?」
「あれ、言ってなかったっけ。……死神は、生前自殺した人がなる職業なんだ。自分の命を奪えるなら、他人の命だって奪えるだろ?って感じなのかな」
「百夜に……生前の記憶はあるの?」
「それがぼんやりとしか思い出せないんだ。でもこれだけは覚えてる。死ぬのは、死ぬほど怖かったよ」
「そっか……ねえ、百夜」
「なあに?」
「いまの私なら……殺してくれる…?」
「ああ、殺してあげられるよ」
いつの間にか夕立は止んでいた。雨雲の隙間から薄い茜色の光が、街を照らしていた。
百夜が大鎌を取り出す。
その刃先を私の首筋に当てる。
唇を噛む。ぎゅっ、とかたく目をつむる。
ようやく死ねるんだ。ようやく。
いつまで待っても死の苦痛らしきものはやってこなかった。ゆっくりと目をあける。茜色に染まった死神は、にんまりとした笑みを湛えていた。
「脚……震えてるよ…?そんなんで死にたいなんてよく言えたもんだね」
「……っ…!ひどいよ、百夜……だましたの?」
「まあまあ、落ち着いてよ。殺さないなんて言ってない」
「詩織にとってこの世界が生きづらいのはよく分かったよ。この一日でね。たった一日で、私みたいな馬鹿にでも分かるほど、つらかったんだね」
「だから……だからなんなの…?」
ぼろぼろと涙をこぼしながら私は百夜を睨む。
その悪意とは呼べない悪意を、優しい死神は困ったような笑みで受けとめる。
「生きる意味なんて始めっからないのさ。こんな愚かな人間の生に、価値なんてあるはずがない」
「じゃあ…じゃあなんで…!!?それでも…それでも…!それが神の答えだとしても、それを私は否定する!!!」
「私は、もう、生きたいんだよ…!どうしようもなく、百夜と生きて死にたいんだよ…っ!!命が尽きるまで、この生を全うしたくなっちゃったんだよ…っ!!!!!」
声が掠れる程に叫んだ。近所迷惑なんてどうでもいい。
私の人生より気にすべき事柄なんて、この世には存在しない。
……この死神を除いては。
「……お見事。よくがんばったね」
静かな声で、母親みたいなあたたかさで、彼女はわたしを抱き寄せる。
「本来死神と人間はともに生きていけない。矛盾した存在だからね。」
「……だったら、答えは決まってるよ」
覚悟を決める。覚悟とは、覚悟を決める姿勢のことを言うのかもしれない。
「……私をころして、百夜。そして私は死神になるよ」
「……いいんだね?」
「うん。死んだところで大して悲しむ人も居ないだろうし。それに…」
「百夜と夜を越えられるなら、きっとなにも怖くない。夜に潜む憂鬱も、夜窓に居座る希死念慮も。ロープを結ぶ私自身も。」
「強くなったね…詩織」
「私が強くなったんじゃないよ。百夜が支えてくれただけ」
「照れること言うなー詩織はー。……じゃあ、いくよ…?」
「……うん」
胸元から、何かが抜け落ちる感触がした。
確か死神は魂を奪うんだっけ…。
こんな空っぽな私にも、魂があったんだ……。
薄っすらと消えてゆく意識のなかで、百夜が手を振るのがぼんやりと見えた。何か言っている。
「……た……でね……」
気づけば私は、真っ白なホールに座り込んでいた。
「お、ようやく起きたね」
「百夜…っ…!」
彼女の胸元に顔を埋めたまま、私は泣いた。
涙の出る理由なんてどうでもいいか、と今は思える。
百夜が頭を撫でてくれる。そして耳元で囁く。
「ようこそ、死神の世界へ」
こうして私は、たったの一日だけだけれど、死ぬまで生きた。
生きる意味は見いだせなかったけど、死ぬ意味は見いだせた。
それでもいいか、と思えるこの思考こそが、百夜と出会って得た唯一の宝物なのかもしれない。
死神協会の屋上に出てみる。
夜空の星々は相変わらず美しくて、その儚げな瞬きになんだか、命の煌めきを見出せた。
一陣の風が吹いた。
おろしたての黒装束がぱたぱたと揺れる。
……わたしは、ここで生きていくのだ。
少女は死ぬまで生きるようです よるの @vanirain_3
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