第9話『幸せの定義と、雨の音』

いつのまにか太陽は私たちの頭上に居座って、じりじりと水分やナトリウムやその他もろもろを、白昼堂々と盗んでいた。


黒装束の百夜はさぞかし暑いだろうと訊ねてみたが、

「魂を扱える死神に体温調節なんて造作もないさ」なんて自慢げに言われてしまった。

中学校に行く坂道は汗をかいていたくせに。

……もしかしたら、私と同じ体験をしたくて汗をかいてくれたのだろうか。


そしてほんの一瞬、魂ってなんだろう…と疑問が頭を掠めたが、いまは気にしないことにした。




どうせそのうち私は死ぬのだから。

……そういう言い訳を、私は生きるうえでよく使ってきた。




「ねぇ詩織。人間の幸福ってなんだと思う?」


「むつかしいこと訊くね。うーん……三大欲求を満たすこと、とか?美味しいもの食べて、ぐっすり眠って、ついでに……えっちなことしたりして…とか…」



自分で言っておいてなんだか恥ずかしくなってしまった。保健体育の授業は涼しい顔で受けていられるのに。……なんだか不思議だ。




「なるほどなるほどー。美味しいものはさっきコンビニで食べたし、じゃあ…お昼寝しよっか!」


「死神とお昼寝するなんて一生の思い出だね。でも、どこで寝るの?」


「そりゃー詩織のお部屋だよ。一度行ってみたかったんだ。ね、いいでしょ…?」


態とらしく媚びてくる死神になんだか苦笑してしまって、「仕方ないな…」と了承した。




「何もない部屋だけど…どうぞ」


自分の部屋に他人を招くなんていつ以来だろう。もしかしたら、初めてかもしれない。それだけ私はこの世界から孤立していた。


私の部屋にはろくなものが無い。

あるものと言えばシングルベッドに読書灯と本棚と、小さなテーブルにノートPCくらいのものだ。

母親には、もうちょっと女の子らしくしたら?なんて小言を言われたりもする。


「わぁぁあーーーっ」


ぼふっ、と音を立てて百夜がベッドにダイブする。

本当に子供みたいな死神だ。


「そういえば百夜っていつもはどこで寝てるの?」


私も、もぞもぞと布団にもぐりながら尋ねてみる。

ベッドの質感を満喫した百夜が、顔だけ振り向いて答える。


「電柱の上とか…ビルの屋上とか…防波堤の上とか?」


「寝心地悪そうだね……」


「うん。だからベッドで眠れるなんて幸せだよ」


「そっか……幸せか……」



なんだか目蓋が重たくなってきた。今日は夜明けから色んなことがありすぎて、疲れているのかもしれない。


百夜が私を優しく抱き寄せる。その胸に顔をうずめる。おやすみ、と優しい死神は小さく呟いた。


そこで、私の意識は途切れた。



目を醒ますと、彼女の姿は無かった。

百夜の陽だまりみたいな匂いだけが、残されていた。


「百夜…?どこ…?……百夜…!?」



窓の外では夕立が雨音を立てていた。

西陽の射し込む部屋の隅で、私は膝を抱えて、彼女が居なくなった心の隙間を涙で埋めていた。




『いいんだよ。一度きりの人生…好きなことやるべきだ』




彼女の言葉が脳裏に蘇る。

気がつけば私は、家を飛び出していた。

あてなどない。あるわけがない。

だってこれは、人生なんだから。

私だけの、気が遠くなるほど虚しい、旅なんだから。

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