プロテウスの祝福
瀧本無知
S.Fujino 2044
仮想ミーティングルーム一番に入室するときは決まって、アバターの身長を実際より二.三センチ短くする。相手に与える威圧感を和らげ、尚且つ自身の自尊心を謙虚な状態に保つためだ。
「
「
アバター〈ヤング〉を見上げながら私は彼と握手を交わした。体温こそ感じないが、仄かな圧力がその体験をもっともらしいものに感じさせる。
「早速だが、〈プロテウスの祝福〉の実証実験の方はうまくいかなかったみたいだね」
彼を模したアバターは部屋の下座の席に座り、切り出した。ロの字型のテーブルの反対側、ヤングの体面に私も腰かけている。
「ただ、今回の対象は皆、成人でした」
私が言うと、ヤングが眉をひそめた。
「子供に試すべきと?」
「VRの強烈な原体験がもたらす価値観再構築には対象の価値観の中立性が大きく影響します。だから〈
「子ども相手か。一理あるが、シェンチェン条約はどうする?」
「国の公認を受けた教育用VRは条約の規制対象外です」
「〈プロテウスの祝福〉を子供向け教育用として売り出すつもりか」
「WHOも危惧していました。医療目的のVR使用の一番の敵は、蔓延る反VR主義です。反VR感情を抑えることは全人類の健康と平和な社会の創生に役立ちます」
「こんな論文があります。反VR感情の根源を調査したものになっています」
私はジェスチャー言語でホログラムディスプレイを起動し、そこにある論文を表示させた。
「ほう、で、結果は?」
「ある人間が反VR感情を持つことに有意に影響を与えているのは、母親のVRに対する考えと、父親のVRリモートワーク利用率ですが、それ以上に年齢が大きいんです。どんな環境であれ、子供のうちに忌避反応を示す例は少ないんです」
「つまり?」
「子供のうちに〈プロテウスの祝福〉を受けさせることによって、反VR感情の発芽を抑制させられる可能性がある訳です」
ヤングは口角をあげる。「方向性は決まったな」
「準備はいいかい、ジュリア」
五感VRカプセルの内部に横たわる十歳の娘の頬に私は触れていた。
「大丈夫だよ、パパ」彼女は白い歯を見せて笑っている。
「これを――〈プロテウスの祝福〉を作ったのはパパでしょ?」
「いいかい、ジュリア。気分が悪くなったらすぐに――」
「――目を閉じろ。閉じた上で更にきつく瞑って、耳蓋も、鼻蓋も、舌蓋も、肌蓋も閉じて、五感をすべてシャットダウンしろ、でしょ?」
「でも、ジュリア」
「大丈夫って言ってるでしょ。パパは世界最高のVRエンジニアなんだから、もっと自分を信じて」
彼女は小さな手で私の腕を掴んでいて、気づけば私は口元を緩めていた。「行ってらっしゃい」
ジュリアが仮想世界に旅立つのを見送ると、私も横にあるもう一つのカプセルに入った。視界が黒塗りにされ、四肢と腹部、頭部とをきつく縛るバンドの触感が消え、無音の闇に飲まれ――。
爆音が耳元で爆ぜて、私は思わず身を屈めていた。四肢を縛るはずのバンドの触感はなく、確かに私は膝を曲げ、両手で頭を覆っていた。脇から突風が押し寄せ、肌には粗雑な圧力を感じた。
目を開けて、周囲に目を配る。私は世紀初頭、中東の戦場を再現した場に降り立っていた。けれども、感覚再現は視覚と聴覚、そして一部の触覚だけに制限されている。メタVRアプリケーション〈トラッカー〉は、他人が経験するVR空間に入り、それを外野から眺める代物だから、再現するのは二感+アルファで十分だ。
私はすぐに、土煙の中を這う小さな背中を見つけた。カプセルに入る前のスマートウェアではなく、汚れた麻の布を被っただけのような簡素な服を着ている。
「ジュリア!」
私は地面を蹴り、空中に浮遊した。〈トラッカー〉内では物理法則に従う必要すらない。そのまま平泳ぎの姿勢で空を滑るように移動しながら、逃げ惑うジュリアの小さな頭を追いかけていた。
遠くの空に、無人爆撃機の影が見えた。土煙の中を逃げるジュリアはまだ、それに気づく様子はない。彼女がその姿に気付いた頃には、絨毯爆撃が荒野にいくつもの大穴を穿っていた。ジュリアはすんでのところで躱した――いや、〈プロテウスの祝福〉の爆撃機AIは意図的に外していた。
しかし、爆撃の一つはジュリアのすぐ脇に着弾していた。小さな体が爆風に持ち上げられ、宙を舞った。一回、二回と跳ね、地面を転がって彼女は呻いた。私は土煙をかいくぐって傍に降り立った。
「目を瞑れ!」私の口から思わず声が出た。その声がジュリアに届いていないことは分かりつつも、止められなかった。
「耳も、舌も、鼻も、肌も瞑るんだ」
ジュリアは両手をしっかりと大地につけ、体を起こした。まだ目は死んでいなかった。彼女は立ち上がり、髪についた砂を払って、安全な場所を探そうと歩み始めた。
けれども、土煙の中から現れたいくつもの人影がジュリアを包囲した。軍服に身を包んだ敵国の兵士たち。そのうちの一人は、私のいる場所と重なった。彼らは皆冷たい銃口をジュリアに向けていた。
私は銃口の視点から、尻餅をつくジュリアの瞳の中で恐怖が渦巻き、火花を散るのを見た。
ブラックアウト。
白い光が視覚を焼いた。
やがて鎮火し、その正体が真っ白な壁と、磨かれた床と、清潔な白衣と純白の子供服とであることを私は認知する。病院の診察室。第一部、戦場パートは終わったのだ。
丸眼鏡をかけた優しそうな女医が話しかける相手は、綿の真っ白なワンピースを着たジュリアだった。砂塗れだったはずの金髪は丁寧に梳かれ、ポニーテールで結んでいる。しかし、右の頬には大きなガーゼが貼ってあり、ジュリアの目はここではないどこかに囚われているように見えた。
「あなたの名前は?」
女医は優しくジュリアに語り掛けた。ジュリアははっとして、目の前の女性に焦点を合わせた。そして口を開いて、彼女自信の名を――言えなかった。何度も何度も言おうとして、掠れた息だけが彼女の口から漏れ出た。〈プロテウスの祝福〉を実行している五感VRカプセルが脳の一部を選択的に麻痺させたことによる失語症――PTSDの擬似発症だ。
戦地で多大なストレスに遭った彼女は、言葉を失う――そこからの復帰が第二部、病院パートだ。女医が電子カルテに心的外傷について記すのを、ジュリアは歯噛みして見ていた。突然、彼女は頭を押さえた。制御されたフラッシュバックが彼女を襲っているのだ。しきりに口をぱくぱくさせ、声を絞り出そうとする。彼女はそのまま過呼吸に陥り、女医に抱きかかえられてベッドに寝かせられた。
場面は再び代わり、女医に連れられたジュリアはある機器の前に立っている。治療用VRカプセルだ。極度のストレス下で被った心的外傷治の療のために作られたVRを仮想ジュリアは受けさせられることになる。VRの中のVR。VRを巡る一連のストーリーを体感することで、VRがもたらす強烈な正の効果をその身に刻み込む――それがVR〈プロテウスの祝福〉の構成であり、子どもに反VR感情を育たせないための方策だった。カプセルの中に寝かせられたジュリアは体をバンドで固定された後も、眼で空中に何かを探していた。
「大丈夫だ、ジュリア」
やはり、私は聞こえるはずもない言葉を投げかけていた。
ジュリアと不可視の私はまたも、中東の荒野に降り立っていた。ジュリアにとって、今度のVRは二感+アルファと再現度を落としたVR空間だった。視覚と聴覚と、荒野を踏み出したときの地面に足が着く感触に限定した触覚。それでも、トラウマの再現には十分だった。
ジュリアの足は竦んでいた。銃声や爆音が聞こえても今度は果敢に逃げる気配がない。身を屈め、耳を塞ぎ、世界から自分を隔絶させようとしているように見えた。
ジュリアのすぐ近くで爆発が起きた。彼女は爆風に煽られて転倒したが、彼女の体を受け止めた人がいた。白衣に身を包んだ女医だった。相変わらず声は出ないが、ジュリアはその姿に気付くと涙ぐんだ。女医が指を鳴らすと、世界の時は止まり、色が失われた。色を持っているのは、女医と、ジュリアと、それからそれを〈トラッカー〉で監視する私だけだった。
しばらくして、ジュリアも落ち着いたのか、自分の足でしっかりと立てるようになった。そして周囲に目を配り、瞳の中で渦巻く恐怖の荒波と戦いながら、自分の声を奪った元凶となる光景に対面した。時間はかかったが、ジュリアはやがて女医に向き直り、大きく頷いた。
女医が再び指を鳴らすと、世界に色が戻り、世界に時が戻った。
女医が空の一方を指さし、ジュリアも私もそちらに目を向ける。無人爆撃機の黒い影が徐々に大きくなっていく。ジュリアは再びそこにへたり込んだ。と同時に、「ジュリア」は駆け出した。駆け出すジュリアを、へたり込むジュリアが呆然と見ている。駆け出した方は、第一部:戦場パートで逃げているジュリアを再現した仮想の彼女だと私は結論付けた。その仮想ジュリアを、へたり込む本物のジュリアが眺めている。
爆撃機は仮想ジュリアを狙っていた。無数の爆音と共に、砂煙の柱が列をなして現れる。その行く手には仮想ジュリアがいた。おぼつかない足取りで逃げるジュリアが、砂煙の柱の一つに飲み込まれた。
ジュリアは声にならない声を上げた。気が付くと、彼女の脇にいたはずの女医はいなくなっていて、代わりに無数の銃口が彼女を取り囲んでいた。
「君は何者だ?」
銃口の一つが問いかけた。ジュリアは口をぱくぱくさせた。何かを言わないととしきりに息を吐く。けれども、もう過呼吸に陥ることはなかった。深呼吸を挟み、銃口に正対した。
「私は――私の名は、ジュリア」
ようやく、開いた彼女の口から明瞭な声が出た。
子ども向け〈プロテウスの祝福〉による、VRへのイメージの向上効果は有意に見られた。商品化に向けてプロジェクトチームが再編され、人員は倍になった。長期的効果の追跡班。副作用を専門に見る班。文化別にチューニング作業を行う班。営業班。すべてが順調に起動に乗り始めていた。
「私、将来はパパみたいなVRエンジニアになりたい」
年が明けたある日、ジュリアの十一歳の誕生日会を終えた日、二人で夕食を食べていると、ジュリアが言った。妻のグレーテはVRコンテンツの制作取材でインカ道を歩いていることだろう。
「どうしたんだ、唐突に」
「今までは娯楽用VRしかやったことなかったから、VRってただの暇つぶしだと思っていたの。でもね、〈プロテウスの祝福〉を体感して分かった。VRは、世界を変えられる。今日プレゼントにくれた〈
ジュリアが彼女の意志を私にここまで露にしてくれたのは初めてのことだった。
「ねえ、パパ。今のVR技術の限界って何。私、それを解決できるようになりたい」
彼女はマグロの刺身をぺろりと平らげて、デザートのグレープフルーツに手を伸ばした。
「できないという意味での限界はほぼなくなったよ。VR酔いを起こすフレームレートの問題も、
「じゃあ完璧ってこと?」
グレープフルーツにかじりつきながら、ジュリアは目を輝かせた。
「そうでもないだろう」
と言って私は壁面のテレビを指さした。渋谷で反VR団体〈自由意志の砦〉の抗議デモを報じたニュースが流れている。
「VRは――五感VRは没入しすぎる。現実世界に生きる以上は、テレビくらいの適度な没入度がちょうどいい場合もあるんだよ。それに、VRが人間に与える影響は五十年以上も調査が行われているけれど、正確な効果はまだ誰にも分からない」
ジュリアは眉を曇らせた。
「意外。パパくらいになれば、VRのことって全部分かってると思ったんだけど」
私は思わず吹き出していた。
「だったら、独立して、今頃世界からすべての戦争と貧困と格差と犯罪とをなくしてノーベル平和賞をもらってるよ」
「パパは正確な効果も分からないのに、教育用VRを作ってるの?」
「分かってることもある。摩擦のない滑らかな平面上で物体を滑らせるVRを使えば物理の成績は上がるし、軌道上のデブリ回収機のカメラに〈
「じゃあ、〈プロテウスの祝福〉を使えば、私はああいうVR嫌いにはならないってこと?」
ジュリアもテレビを指さした。暴徒化したデモ隊が渋谷のVRベンチャーの本社を襲撃し、アンドロイド機動隊に取り押さえられている光景が写っている。その場所はこのマンションから数キロと、ごく近所の現実の出来事のはずなのに、やはりテレビ映像はどうにもフィクション臭くて現実味に欠ける。
「たぶん、ね」
私は視線を落としていた。アンケートのスコアによれば、実験前後でジュリアの好VRに関して十三パーセントの改善が見込めていた。
「じゃあ、ああいう人たちのVR嫌いは治せるってこと?」
ジュリアの問いにぞっとした私がいた。
――VR嫌いは望ましくはないが、病気ではない。
私の中で、誰かの声が私に言う。
「無理そうだ」
「ってことは、〈プロテウスの祝福〉は特効薬というより、ワクチンだね」
「だといいんだけど」
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