S.Fujino 2049 - 2050

 実験から六か月後、都内のとある公立小学校の授業のカリキュラムに〈プロテウスの祝福〉が組み込まれることになった。三年生の情報リテラシーの授業で扱われるとのことだった。地域的に情報技術関連の企業に勤める保護者が多い故の早期実現だった。

 評価は上々だった。学校はその翌週には弊社が既にリリースしている教育用VRすべてのライセンス契約を申し込んできた。反VR派が根強く巣食う教育委員会の影響で、公立の小学校では未だ教育用VRが使われていない中では異例のことで、それは反VR派御用達のテレビでも大々的に報道された。翌日には〈自由意志の砦〉の賛同者がエストニア行きの航空便を予約で埋め尽くし、VR社の本社のあるタリンの街は大騒ぎになっていたらしい。現地のアンドロイド機動隊によって暴徒化した者たちは皆逮捕されたとのことだったが、全世界にちらばるVR社の社員には注意喚起のメッセージが届いていた。

 やがて暴動も沈静化し、〈プロテウスの祝福〉のリリースから四年後の二〇四九年、娘の高校進学と共に渋谷の一軒家に引っ越した。開発そのものも部下やコーディングAIに任せることも多くなり、私の仕事そのものもプロジェクトの管理や対外発信が多くなっていた。夏からはユーラシア仮想大学の客員教授としても招かれ、学生向けのVRエンジニアリング、VR概論、仮想空間心理学などの様々な授業のコーディネートを行っていた。

 日本時間の二十時、中央アジア向けにチューニングした同時配信の多言語同時翻訳・マルチインタラクティブ講義を終えた私は五感VRカプセルから出ると、家の中が真っ暗なのに気付いた。グレーテは取材でNASAに行っているが、ジュリアはどこにいるのだろう。

「ジュリア?」

 呼びかけに答える声はない。右脇のカプセルを見ると、その中で静かに目を瞑るジュリアの姿があった。成長し、隣のグレーテとそっくりの姿になってきているが、私はそんなことに感銘を受けられる状態ではなかった。

 一日のVR使用時間の推奨値はとうに超えていた。備え付きのディスプレイにはコンテンツ名〈絶滅危惧種の世界34・カワゴンドウ〉とある。東南アジアに生息し、依然として絶滅寸前CRのイルカの一種に〈視点交換パースペクティブ・テイキング〉し、環境問題、生物多様性への意識改革を促す教育用VRだ。もちろん、発売元はVR社。強制終了もできるが、強烈な吐き気を催す強制帰還を実行できる程鬼にはなれなかった。

 娘がVRカプセルから出てきたのは夜の十二時を少し回った頃。私がソファに座って、アイラモルトのトゥワイスアップ片手にエーヤワディー川でのカワゴンドウと人間との相互共生をテーマにしたドキュメンタリーをテレビで見ているときのことだった。現地の漁師とカワゴンドウが協力して漁を行う場面に差し掛かると、ドアがそっと開く音が背後から聞こえた。

「夕飯なら冷蔵庫に入ってるぞ。グレープフルーツもある」

「いらない。メコン川で魚たらふく食べてきたから」

 グラスをテーブルに置き、私は振り返った。

「ジュリア。VRは一日二時間までと言っているだろ」

「私はただ、父さんたちが作った、政府公認で、知育に最適で、健全なる思考を促すために必要なものを体感しているだけ。仮想コミュニティに友達と入って、仮想の遊園地で遊ぶこともあるけど、それはたまに。殺人FPSとか、五感ポルノとか、非健全なコンテンツには手を出してはないから安心して」

「そうじゃない。過度な使用はは現実における現実感の喪失を招く。VR廃人になりたいのか?」

「だったらVR廃人の治療用VRでもつくったら? 自社製品で作った廃人を自社製品で治す――なかなか優れたビジネスモデルだと思うけど?」

 ジュリアは骨ばった手で髪をかき上げ、部屋を出ていった。私は残っていたウイスキーを喉に流し込んだ。焼けるような感触が喉を撫でた。


 五感VRカプセルから抽出したデータによれば、ジュリアのVR使用時間は一日平均で五時間二十一分。現実の高校に通い、現実で授業を受けているのだから、与えられた自由時間のほとんどを仮想空間で過ごしていることになる。五感VRの登場から十年。ジュリアたちは世界初の五感VRネイティブ世代であり、幼少期からの五感VRの長期間の慢性的利用が与える影響を初めて被る世代でもあった。だから、自分でVRコンテンツに関わる仕事をしておきながら、ジュリアの過度な利用は避けてほしいと願う自分がいた。VRの心理的影響について深い知見を持っているからこそ、仮想空間の心理学がいかに未熟で、未発達かを知っている。ジュリアの心理的変容の終着点は、私自身予想できないのだ。

 年が明けたある日、ジュリアの通う高校から連絡があった。ジュリアが授業中倒れたというのだ。保健室に運ばれ、自動診察機が過労との診断を下したために救急車を呼ぶ程の事態にはならなかったものの、私は〈プロテウスの祝福〉の効果分析の進捗管理を部下に任せ、五感VRカプセルから出ると、娘の使っていた五感VRカプセルの使用履歴を確認し、無人タクシーで高校へと向かった。

 ベッドの上でジュリアは不貞腐れていた。

「五感VRカプセルの使用履歴を見た。二夜連続で夜通しVRに興じたいたみたいだね」

 ジュリアは目で私を非難した。

「五感VRは夢を見るレム睡眠と近い状態だ。でも、睡眠負債物質はレムとノンレムの交互の訪れによって初めて除去される。寝た気になってるだけで、体は悲鳴を上げてるはずだよ」

 ジュリアは寝返りをして、頭まで布団の中に潜った。

「ジュリア、人の話を聞きなさい」

 微動だにしなかった。私は大きく息を吐いた。

「二週間、VRは一切禁止だ」

「は?」ジュリアは飛び起きて、爪をベッドに食い込ませた。

「何でそうなる訳?」

「ジュリア、君は今、この現実に、どれくらいの現実感を覚えてる?」

「現実も、五感VRも変わらないでしょ? 黎明期のおもちゃVRとは違うんだから」

「いいや、まだだ。まだ、五感VRは現実には遠く及ばない」

「は?」

 ジュリアは威圧的な目を私に向けた。目の下にはくまが出来て、肌も荒れて顔もやつれているのに、まるでそれが〈視点交換パースペクティブ・テイキング〉で移入するアバターの一つでしかないと感じているかのように、目に宿る意志だけは嘘みたいに強い。

「五感という言葉が良くないんだ。人間の主要な感覚は五つだけど、それが全てじゃない。産毛の動きが捉える風覚、皮膚の受容器が捉える温覚と冷覚、認知することは難しいけど磁覚――人間には五つでは数えられない程の無数の感覚があって、それらが五感に肉付けされることで、繊細なニュアンスに彩られた全感の現実感を作り出している。五感ですべてだと思わないことだ」

「何でなの……」ジュリアは掠れた声を絞り出した。

「何で、父さんはVRを私から遠ざけようとするの」

「五感VRが人にもたらすものについて、人がどれ程無知であるかを知っているからだ」

「何、それ」ジュリアは目を丸くした。まるで彼女の中の強い意志が剥ぎ取られたかのように表情のない表情をしていた。

「父さんは世界有数のVRエンジニア。知っているから、深く理解しているから、VRコンテンツを世に送り出してるんじゃないの? VR社ってそんなに無責任な企業なの?」

 私はゆっくりと首を横に振った。

「新しいメディアが出現するときはいつだってそうだよ。写真が生まれたときも、映像が生まれたときも、ラジオが生まれたときも、テレビが生まれたときも、それがどんな変容を人々にもたらすか、誰も分からなかった。何十年もの時を経て初めて、その影響というのは分かるものなんだ。まだ歴史の浅い五感VRについては分からないことがいっぱいある。だからこそ、使うときは慎重に、その影響を見定めながらじゃないといけない」

「そんなの、嘘」ジュリアは強く首を振った。毛先のほつれた金髪が乱雑に宙を行ったり来たりする。

「五感VRは素晴らしいものなの。新しい地平を切り開いてくれる!」

 ジュリアは掠れた声で叫んだ。皮を剥がれ、肉をも剥がれ残った骨のように角ばった意志の塊のように思えた。

「それはある意味では本当だけど、ある意味では嘘だ」

「何でよ」ジュリアは私の胸に頭を押し付けた。

「父さんでしょ。VRのすばらしさを、〈プロテウスの祝福〉で教えてくれたのは」

 ジュリアのその言葉が、私の心臓を握るのを感じた。ジュリアを優しく抱きしめながら、彼女の頭をそっと撫でながら、まるで幽体離脱したかのように、私の心はそこにはなかった。

〈プロテウスの祝福〉は、一体何を彼女にもたらした? 


 VR禁止令を出してから一週間程が経った頃、ある事件が起きた。渋谷駅近辺にあるレンタルVRスペースを、反VR主義者が襲撃し、VR体験中の客十二名を人質にとったという事件だった。幸いなことに一人の怪我人も出ずに犯人は確保されたとのことだったが、そのニュースをテレビで見ていると、腕時計端末が震えた。警察からだった。

「藤野翔太さんですね。人質になっていた娘の藤野ジュリアさんを保護致しました」

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