S.Fujino 2050 - 2054

 病院で一通りの検査、カウンセリングを受けて戻ってきたジュリアはリビングのソファの上で何も言わずに膝を抱えていた。

「二年前の法律改正で、犯人は〈治療〉を受けることが義務付けられている。犯人の一番嫌いなVRを用いた、ね。もう二度と、あんな真似をすることはないだろう」

「……怒らないの?」

「今は安心の方が大きい。グレーテも早朝の飛行機で一旦返ってくるそうだ」

「ごめんなさい」

 泣きじゃくるジュリアをその時ばかりは私は優しく抱きしめた。

 ジュリアはその日、VRを二度とやらないと誓った。でも、私は首を横に振った。心に傷を負ったジュリアには治療用VRの力が必要だったし、適度なVRの利用はいい息抜きにも、知育にもなる。今まで設定していた利用時間の制限をちゃんと守る――そう取り決めをした。

 翌朝、帰宅したグレーテはまずジュリアを固く抱きしめた。そして話を聞いて、頷いて、頭を撫でた。その日の夜、ジュリアが寝静まった頃、私の前にやってきたグレーテは私の頬を叩いた。

「何故ジュリアが危険な目に遭わなければいけなかったのか、説明して、ショウタ」


 婚姻届けに使って以来、生涯使うこともないと思っていたハンコを握るときがやってくるとは思わなかった。離婚届けだ。

 お世辞ではないが、夫婦関係はうまくいっていると思っていた。共にVR社の社員だけあって、互いの仕事に理解はあったし、グレーテは生身での出張が多い関係上、同居していながら適度な距離感を保っていたことも関係性の摩耗に繋がらなかった要因かもしれない。

 けれども、五感VRカプセルが家にありながら外でレンタルさせる状況に追い込み、その上命が危険に晒された――その事実が、彼女の中にあった私への信用というものを一気に打ち砕いてしまったらしい。それだけではなかった。何故、〈プロテウスの祝福〉の実験被験者にジュリアを選んだのか。何故、私の不在の間にジュリアが二夜連続で五感VRに没頭し、学校で倒れる事態に至ったのか。

 ジュリアは泣いて懇願した。私が悪いの。だから離婚なんてやめて。

 けれども、グレーテは意志を変えなかった。ジュリアが人質になってから一か月後、私たちは離婚した。ジュリアの学校に近いからと渋谷の一軒家はグレーテとジュリアがそのまま住むことになり、日本にいる理由のなくなった私はエストニアの首都タリンに部屋を借りた。

 そんな心情の変遷と記憶の積み重ねの上に場面が変わる。私の目の前には仮想ジュリアがいる。

 ジュリアとは不定期に連絡を取っていた。会うのは専ら仮想空間だった。二人で人のいない仮想マチュピチュを歩きながら、仮想渡り鳥になって擬似磁覚を頼りに南へ飛びながら、ジュリアの進路について話し合った。二〇五二年になって、ジュリアが大学の情報工学部に合格してからは、VRの未来についても話し合った。

「特に興味を持っているのはね」

 サバンナでシマウマを仕留めたメスの仮想ホワイトライオンは――ジュリアは、シマウマの肉を咀嚼して言った。

「VRが信念一般に与える影響」

「信念?」

 オスの仮想ホワイトライオンは――私は首を傾げた。

「二十一世紀になって、どれだけ技術が進歩しても。犯罪も、戦争も、格差も、貧困もなくならない。でも、たとえば排他的で好戦的な宗教的イデオロギーをVRのもたらす強烈な原体験によって〈治療〉することができたなら、宗教戦争はなくせる。データをため込む資産家たちを貧困層に〈視点交換パースペクティブ・テイキング〉させることができれば、寄付額を増やさせたり、あるいは累進課税の勾配をより急にさせたりもできる」

 私は前足でたてがみを梳いた。

「そんな層がわざわざ自分から改宗されに来ていたら、とっくに戦争も格差も死語になってるさ」

「だからね」ジュリアは口を大きく開き、シマウマのももを噛みちぎった。

「もっと強力で、VRを無条件に容認できるようにさせる〈プロテウスの祝福〉を作り上げ、それをこれから生まれてくる子供すべてに受けさせるの。そうすれば、真の平和と平等を生み出せる博愛主義――これに背くすべての信念を、イデオロギーを、〈治療〉する下地が整うことになる」

 ジュリアの口元から血がしたたり落ちた。

 ブラックアウト。


 私はVRカプセルで仮想ラボにログインしていた。半径二メートル程の巨大半球面ディスプレイに囲まれた空間に降り立った私のアバターは下半身の代わりに六本の腕と六つの目を持っている。前も後ろも口も鼻もなく、キャスターつきの椅子の上に乗り、周囲全方向に対して同じレベルでの情報処理が可能となったアバター形態〈ペンタポッド〉だ。長い訓練の記憶がある私には、人の倍程の視野すべてに情報を表示し、人の三倍の速度で情報を処理できた。調査にはうってつけのアバターだ。おまけにタスクの一部をAIに代行させれば、擬似的なマルチタスクもできる。

 私は第一、第二の腕でVR社のデータベースにアクセスし、実験アーカイブを漁っていた。目的はプロジェクト・プロテウスの初期の実験データだった。教育用VRは世に数多出回っているが、その作成方法は概してアナログだ。

 人種による差別意識や偏見をなくすためにはこのようなVRコンテンツが望ましいだろう――そのように決め打ちしてコンテンツの作成に当たるのだ。それを作り上げ、実験し、効果が出ればリリース。出なければ作り直して実験の繰り返し。実際、商品化に至ったVRコンテンツはここVR社でも全プロジェクトの僅か十八パーセント。商品化までの平均開発時間も二年半。リリースした後に効果が確認できず、発売中止になったものも全商品の二十六パーセント程。教育用VRコンテンツの作成は途方もない時間と労力がかかっている。

 その上、逆の効果が見られることもある。AIに操作権限を譲渡した第三、第四の腕も、すぐに世紀初頭の論文を見つけ出し、視界の天頂部に表示させた。私の頭上の目が読むに、人種差別を解消するための〈視点交換パースペクティブ・テイキング〉がかえって差別を助長してしまったという事態になってしまったとの報告のようだ。私がアーカイブで探していたのは、プロジェクト・プロテウスの黎明期、〈プロテウスの祝福〉の試作版で同様に起きた、反VR思考の助長ケースだった。

 第一、第二の腕が該当データを見つけた。対象となった被験者三十六名のうち、十一名で実験後に反VR主義が強まっている。試作版〈プロテウスの祝福〉も製品版と同様、第一部でトラウマを与え、第二部でそれを克服するという構成に変わりはない。

 では、何が彼らの反VR思考を強化したのか。既に調査レポートは出来上がっていた。私はそれを読んだ。同様の助長ケースに関する報告書や論文すべてにも目を通した。そしてそれを基に、私はある〈治療〉用VRの作成に取り掛かった。


 二〇五四年二月、試験を終えて春休みに入ったジュリアを旅行に誘った。軌道基地クラークへのツアーだ。地球軌道上にあり、スペースデブリの回収拠点でもあるこの基地は一ヶ月に一度、基地内の観覧ツアーを行っている。

 最初、声をかけるとジュリアは渋っていた。

「宇宙空間なんて、何度行ったか分からないけど」

「五感だけで味わう宇宙と、全感で味わう宇宙は別物だ。VRエンジニアになりたいのなら、全感で味わうということがどういうことか、よく知っていた方がいい」

 ジュリアは納得した。グレーテには内緒だった。

 ニューメキシコ州の国際宇宙港に出立する予定日の二日前、私は渋谷のかつての自宅に向かった。ジュリアの大学進学と共に取材部に復帰したグレーテは歴史教育VR〈レッド・クリフ〉の一大プロジェクトのため、ずっと中国にいるらしく、この一軒家にジュリアは一人で生活しているようだった。

 その日、いつの間にか私の背丈よりも高くなっていた庭の木々が私を出迎えた。夜、私は若き日のグレーテのように美しく成長した娘と初めてお酒を共に飲んだ。エストニア土産のヴァナ・タリンだ。酒が入るとグレーテと同じく饒舌になるようで、私はジュリアのVR観を聞き続けた。大学で学んだことや、VRジャパンのエンジニアインターンシップの選考も通過したことを聞いた。奮発して買ったヴァナ・タリンもジュリアは気に入ったようで、やがて彼女はソファの上で眠りこけた。

 ソファに崩れるジュリアを見下ろし、私は大きく息を吐いた。ジュリアをそっと抱え、五感VRカプセルに入れる。時折呻くような声を上げたが、起きる気配はなかった。

 カプセルの蓋を閉め、私は用意していた〈治療〉用VRをインストールした。更に、VRと悟られぬよう、前頭葉の機能を一部弱める「夢モード」をオンにする。そして私自身も隣のVRカプセルに入り同じVRの〈トラッカー〉を起動する。


 カーテンの隙間から入り込んだ朝日がジュリアの顔を照らした。彼女が目を覚ますと、そこは渋谷にある彼女の家の、彼女の部屋のベッドの上。

「あれ、私、ベッドで寝たっけ」

「おはよう、ジュリア」

 私はそのタイミングを狙って部屋に入った。

「ソファで寝ちゃってたから運んでおいたよ」

 ジュリアはあからさまに口をゆがめた。

「父さんが一人で運んだの?」

「腰のことなら心配しないでよ。軽かった」

 サイテー、とジュリアはそっぽを向いた。

「さあ、そろそろ起きないと、飛行機の時間だ」

 羽田からアメリカへと渡り、二十四時間後には、私たちはニューメキシコ州、国際宇宙港に降り立っていた。そこで二日間程健康診断やトレーニングを行い、他の客十数名と共に私たちは宇宙船に乗り込んだ。

 高度はみるみる上がり、地平線が丸みを帯びて高さが遠さへと変容する奇妙な過程を目撃した。やがて軌道基地クラークにドッキングし、無重力の中を訓練通りに泳いでいく。

 中央管制室に着くと、そこには管理者の女性が一人いるだけだった。無数の小さなモニターで壁面が埋め尽くされている。よく見ると、モニターの一つ一つが外で躍動する無人回収機に繋がっているようで、捕まえたデブリを大気圏に投げ込む様子が写っていた。

 女性による説明を一通り聞いた後、私たちには観覧区画を自由に遊泳する時間が与えられた。床面がガラス張りになっていて、私たちは皆食い入るように丸い地球の様相に釘付けになっていた。

 ジュリアが食いついている間に、他の客を一人、また一人と消していく。

「あれ、他のお客さんは?」

 ジュリアが異変に気付き、横にいる私に訊いた。

「なあ、ジュリア、VR社のインターン、本当に行くのか?」

「突然どうしたの」ジュリアは目を細めた。

「行くに決まってるじゃん。せっかく掴んだチャンスだってのに」

 ジュリアは厚いガラス窓を指でトントン叩きながら、眼下の丸く大きな地球に向かって吐き出す。

「そうか」

 私は静かに息を漏らした。そして掌で軽くガラス窓を押す。私の体は後方に向かって宙を流れていく。ジュリアが振り返った。彼女の端正な顔立ちはすぐに歪み、中途半端に開いた口からは声にならない声が漏れた。彼女は震える腕で私の背後を指さした。

「何、それ、父さん」彼女の指さす先には、私の背中から生えた二対目の腕があった。

「どうしたの、その腕」

「ジュリア。君をVRエンジニアにさせる訳にはいかない」

 ジュリアの眉がぴくりと動いた。

「私に父さん程の才能がないから? それとも、私の育て方を間違えたと思ってる?」

 声が震えていた。うるんだ目は否定してくれることを私に訴えかけていた。私はその目を見たくなくて、目を伏せて背中に力を込めた。

 背中から生えた二対目の腕はその太さも長さもみるみるうちに成長し、浅黒い肌で流々とした筋肉に覆われた巨人の腕のような姿へと変貌した。

「やめ――」

 私は耳蓋を閉じて、ジュリアの嘆願を世界から締め出した。


〈アンチ・プロテウス〉

 それが、私がVR社でなす最後の大仕事だった。プロテウス・プロジェクトなどで得られた逆効果の事例を分析して作り上げた、「VR過信」の〈治療〉用VR。ジュリアの信じていたものを根底から覆し、それに不信感を与える代物。

 ――もっと強力で、VRを無条件に容認できるようにさせる〈プロテウスの祝福〉を作り上げ、それをこれから生まれてくる子供すべてに受けさせるの。そうすれば、博愛主義に背くすべての信念を、イデオロギーを、〈治療〉する下地が整うことになる。

 仮想サバンナで、メスのホワイトライオンに扮してジュリアはそう言った。好VR的にさせる〈プロテウスの祝福〉を子供時代に全員に受けさせておけば、好ましくない特定の考え方に至った場合に容易に〈治療〉用VRを受けてもらえる。そうジュリアが言ったとき、私は爪で大地を強く掴んだ。

 そんなもの、洗脳以外の何でもない。でも、ジュリアはそれにすら気づいていない。

 きっと、ジュリアをそうさせたのは私なのだろう。八年前、〈プロテウスの祝福〉をジュリアに与えたのは私だ。それが彼女を好VR派にせしめ、それが高じて今の彼女をつくったのなら、けじめをつけるのは私の役目だ。

 ごめんよ、ジュリア。

 その言葉を発する代わりに、私は巨人の腕を振り上げた。

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