J.Fujino 2054

 振り下ろされた腕は、「私」の体を穿たなかった。

 目を開けると、父の――ショウタ・フジノの背中から生える巨人の右腕は私のすぐ左に突き刺さっていた。恐る恐るそちらに目をやると、巨人の右腕はガラス窓に突き刺さり、その手首は窓の外の真空に飛び出していた。

 ガラス窓に亀裂が入っていた。巨人の腕はそこから抜かれようとしていて、亀裂は広がっていく。

「やめて。お願いだから、やめて――」

 私は目を強く閉じた。

 ガラスが弾ける音がして、私の体が地球の空へと吸い込まれていくのを感じた。音が急速に世界から失われた。耳蓋を閉じたからか、真空に飲まれたかは分からない。

 ブラックアウト。


 じたばたさせた四肢はバンドに固定されて動かなかった。反射的に息を止めていた反動で横隔膜が大きくしなり、空気が一気に肺に入り込んだ。

 五感VRカプセルの中にいると気づくのに数秒を要した。四肢と体を固定するバンドが自動的に外れ、カプセルの蓋が開く。カプセルから降り立つとふらついて思わず手を壁についた。

 吐き気と頭痛と共に、私の中に一つの疑問が沸き上がった。

(一体、どこからVRだった……?)

 周囲を見るに、渋谷の自宅マンションのVRルームだ。記憶では、父がやってきて、アメリカに出発し、国際宇宙港でトレーニングをしてから、軌道基地へ飛び立ち……。

 父も一緒かと思ったが、隣のVRカプセルは空だった。

 リビングに向かうと、窓が開いていて、カーテン揺れているのが見えた。窓を閉めてリビングを一瞥すると、ダイニングの食卓の上に一枚の紙が二つ折りで置かれていた。嫌な予感が私の中を突き抜けた。汗ばむ手を伸ばし、そっと開いた。


 愛するジュリアへ


 父さんは君に謝らなければならないことがある。

 君が十歳の時、〈プロテウスの祝福〉の実証実験の被験者になったことを覚えているだろうか。当時は教育用VRや治療用VRへの反発も根強く、ただ良いVRを開発するのみならず、開発したVRをいかに多くの人に使ってもらうか、というのも我々が抱える問題だった。そこで開発した教育用VR〈プロテウスの祝福〉はVRの利用が驚異的な効果を得られるという経験を一連のストーリーで体感することで、VRの使用に対する不信感を拭い去り、その人物を好VR的にさせるコンテンツだった。

 確かに、VRに対してニュートラルな立場の子供たちには効果的だった。ジュリア、君も含めてだ。けれども、新技術の人間心理への影響というものは、技術が生まれた直後は分からない。長い年月が過ぎて初めて分かるもの。だからこそ、我々技術者はその行く末を注意深く観察しなければならない。

 だから、こういうことは言いたくないけれど、君は私にとって、一人のサンプルだった。理想的な父親ではなかったかもしれないけれど、私自身できることはしてきたつもりだった。〈プロテウスの祝福〉が君の人生に幸せを運んできてくれるものと信じていた。

 仮想サバンナでホワイトライオンに〈視点交換パースペクティブ・テイキング〉したときのことを覚えているかい? 君が私みたいなVRエンジニアになりたいと言ってくれるのは嬉しかった。でも、〈プロテウスの祝福〉で博愛主義に背くすべての信念を、イデオロギーを、〈治療〉するための下地を整える――君がそう言ったとき、私は私の失敗を確信した。

 君の中にあるVRに対する考え。それは好VR的なんて生易しいものじゃない。ただのVR狂信だ。君がやろうとしていることが何か分かるか。ただの洗脳だ!

 ジュリア。本当に申し訳ないことをした。私は幼い君の脳の奥深くに、魔の種を植え付けてしまった。君の純粋無垢な心は少しずつ蝕まれ、君がそうであると気づかないうちに、蝕まれた価値観の持ち主へと君を育ててしまった。幸いなことに、その価値観そのものは人を直ちに傷つけるものではない。だから、私の最後の願いは、君がVRに関わらずに生きることだ。そうである限り、君はきっと、社会に適合した人間として、人生を全うできることだろうと思う。

 どうか幸せに。愛してる。さようなら。

 藤野翔太


 しばらく、私はその場を動けなかった。まだ五感VRの世界の中にいるような浮遊感が私を包んで、手紙の主旨というゲシュタルトが融解し、手のひらからぼろぼろと崩れ落ちていく。

 何度か読み返し、ようやく私はどこまでがVRだったのかを悟った。父が自宅にやってきて、酒を共に飲んだ後。その翌朝から、私はVRの世界にいたんだ、と悟った。そして仮想現実の中で彼は私に何かを仕込もうとした。

 彼は言った。私は人類を洗脳しようとしていると。その悲願を打ち砕くため、私の価値観を壊すためのVRを用意してきていたのだ。

 私は手紙を食卓に戻した。でも、それなら父はどこに?

 玄関に向かうと、チェーンがかかっていて、視線を落とせば男性用の靴も見えた。そこで私の中に一つのイメージが弾けた。開いた窓。それと同期して手紙の一フレーズが脳裏を過る。さようなら。

 私はあわてて踵を返し、リビングの窓へ向かった。乱雑に開け放し、十階のベランダに躍り出る。私が手すりから乗り出すのと、遥か階下から悲鳴が聞こえたのは同時だった。

 私の眼下には、丸く小さな赤い花が咲いていた。


 四人の警官と二体のアンドロイド警官とが家のリビングをうろついていた。私は父と夜に酒を共に飲んだことから今に至るまでのことを事細かく話した。不思議と、私は取り乱していなかった。ショックを受けているはずなのに、足は震えているはずなのに、父との思い出が脳内にスパークし、涙腺を決壊させるなんて事態になることはなかった。未だに五感VRの中のような現実的な非現実感が私を包み込んで、地に足をつけさせてくれなかった。

 部屋の隅っこで膝を抱えて座っていると、警察の一人が別の警察に耳打ちするのが聞こえた。聞こえる距離には思えなかったが、私の耳に耳打ちしているかのようにはっきりと聞こえた。

「パルス発生器の電圧が降下してる。夢モードは限界だ」

「だから言ったんだ。実行時間が長すぎるって。冷却が追い付かなくて回路が焼き切れるぞ」

「くそ、自己同一性誤認モジュールにもエラーが起きてる」

「外部電源を繋いでパルス発生器の電圧を上げましょう。理性的判断能力を無理やり奪います」

 その瞬間、突き刺すような頭痛が私を襲った。こめかみを指で押さえながら、警察たちのやり取りを理解しようと試みる。使われてる単語は私も知っているはずなのに、それらを統合したパターンの中から意味を見出すことが出来なかった。頭の中が霧に包まれているような感覚だった。そんな病気があったのを覚えてる。けれど、名前が出てこない。

 激しさを増す頭痛で視界が揺れる中、私は一つの可能性に辿り着いた。

「今は何年ですか?」

 アンドロイドに尋ねる。警察機動隊のアンドロイドのOSは知らないが、低級AIでもそれくらいの質問に答えられるはずだ。

「二〇五四年です」

 私はテープの張られたリビングの出窓に目をやった。その向こうに見えるのは、タワーマンションの壁面。ここは十階。四年前、藤野家はマンションから一軒家に引っ越したはずだ。疑念は確証に変わった。

 私は立ち上がり、ふらつく足でキッチンへ向かう。

「ジュリアさん?」

 警察の一人が怪訝そうに呼びかけた。何故、私の名前を知っている?

 いつの間にか頭痛は引いていた。驚く程に頭はすっきりして、理性的思考の発火を遮る霧はもう私の頭の中に立ち込めていない。冷蔵庫を開けて、私は頭を中に突っ込んだ。

 冷たくない。私の冷覚は機能していない。ここには五感しかない、全感はない。VRだ! クラーク基地からのブラックアウトはカモフラージュだ!

 振り返ると、キッチンカウンター越しに、警察もアンドロイドも皆、その瞳を私に向けていた。

「何の目的か分からないけど」

 私は息を吐く。

「精巧にうちを再現したことは認める。でも、詰めが甘かったね」

 私は強く目蓋を閉じた。耳蓋も、鼻蓋も、舌蓋も、肌蓋も――。

 しかし、世界がブラックアウトする気配はなかった。

 私は再び目を開けて、警察の一人を睨んだ。

「セーフティ離脱機能を搭載してない違法VR。目的は?」

「〈治療〉です」

 アンドロイドの一人が無機質な表情で、抑揚のない声で答えた。私が眉をひそめると、もう一体のアンドロイドが言葉を継いだ。

「フジノさん、あなたの中の、VRに対する過信を〈治療〉するためですよ」

「過信? 私が?」

「あなたはそれにすら気づいていない。哀れな子だ。すべては、〈プロテウスの祝福〉が招く悲劇」

 気付けば、私は乾いた笑みをこぼしていた。

「私という人間のアイデンティティが〈プロテウスの祝福〉によって形作られたとでも言う気?」

「そうです、フジノさん。本当のあなたはもういない。今のあなたは、〈プロテウスの祝福〉に取りつかれた怪物なのです」

 淡々とそう告げたのは、三体目のアンドロイドだった。三体目? 視界を一瞥すると、警官たちは皆アンドロイドに変容していた。六体のアンドロイドは皆、無表情の仮面を被り、瞬きもせずに、見開かれた目を向けていた。

「生憎だけど、あんたたちの遊びに付き合う暇はない。VRの強制終了方法くらい、心得てるよ。VRエンジニアだから」

 VRエンジニア? 私の中の私がそのフレーズに疑問を投げかける。私は――女子大生で、VRエンジニアで、VR社のインターンでエンジニアで……あれ?

 けれども、その疑問を詰める余裕はなかった。アンドロイドたちの包囲網をかいくぐり、私は出窓に向かって駆け出した。

 手すりを飛び越える。錐揉みしながら落下する私の視界は高速で変化していく。その計算負荷に耐えきれず、徐々に流れていく風景に破綻が混ざり始めた。手すりや空のテクスチャが剥がれ落ち、視界が鮮明な映像からポリゴンモデルへと退化していく。

 ブラックアウト。

 

 気づくと、私の体躯の各部をバンドが強く締め付けていた。頭上を覆うカプセルの蓋が開くと、いくつもの顔がこちらを覗き込んだ。

「計算負荷を起こし、強制終了させるとは恐れ入る」

 一人が息を吐いた。

「何者だ」

 私の口から絞り出された声はしわがれていた。別の一人が口を開いた。

「〈自由意志の砦〉と申します。

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