第五幕『花街の魔女』

第1話

 普段は賑やかな社屋の居間が、今はいやに静かだった。時刻は午前五時。明け方という時間も相俟って、嵐の前の凪みたいな、風も波もない静寂しじまが広がっている。

 その中心で悠雅は正座し、アナスタシアと瑞乃の二人は腕を組んで彼を睥睨している。ピクリとも笑うことなく。


『これは時化しけるな』


 天之尾羽張アメノオハバリが小声で冗談めかして呻いた。そんなことはわかっている。悠雅は内心そう返し、改めてアナスタシアと瑞乃に向き直る。


「申し訳ありませんでした」


 口火を切った彼は手を付き、額を畳に擦り付けた。


「どうして謝るんですか?」

「自覚も無く頭を下げるなんて、随分軽い頭ね」


 対する瑞乃とアナスタシアは酷く冷淡だった。

 彼女たちは感情豊かだ。よく笑い、よく泣き、よく怒る。いわゆる激情家だ。だからこそ、冷淡さに身を隠した激情が、悠雅をどうしようもなく震え上がらせる。


「いつまで頭を下げてるの? なんの為に謝っているのよ?」

「教授から荒事は止められていたことと、お目付け役のお嬢とアーシャに黙って荒事に臨んだから」

「理由はわかりました。それで? 何故謝るんです? 貴方は反省する気などそもそも無いでしょう?」

「そんなことはありません」

「でも、止まっていられないのも事実じゃない」

「それは……」

「貴方はいつだってそう。周りのことなんか視界に入れてくれない」

「そんなことは……!!」

「あるでしょう? あるから何も言わないで行ってしまった。貴方はずっと目を閉じている。私のことも、アーシャさんのことも、自分のことすら見ていない。ただ、目蓋の裏に映る――だけを見つめている」


 瑞乃の言葉に悠雅はギョッとする。得体の知れない何かに、胸の内を鷲掴みにされたような気分にすらなる。


「私がどんな想いで貴方を探したかわかりますか? 怪我をしたばかりで本調子でない貴方の身に、もしものことがあったらと考えただけで気が狂いそうだったのですよ?」


 悠雅は咄嗟に返せなかった。ありとあらゆる言葉が喉を駆け上がろうとして、滑り落ちていった。


 自分が傷つけば、誰かが悲しむ。


 悠雅も頭では理解している。だが、自分を的にしなければ誰かを救えぬ彼にとって、それを回避するのは不可能だ。

 彼は英雄になりたい。この国と人々を守る剣でありたい。常に災厄の矢面に立ちたい。そんな風に考える男が、片倉という巨悪を許せるはずがなかった。

 反省しなければならないのは重々承知している。だが、それを呑む訳にはいかなかった。


 あの日、自分をかばって殴り殺された姉の姿が脳裏に焼き付いている。

 あの日、血の海に沈んだ朋友たちの顔が心に焼き付いている。

 あの日、悠雅を救いに現れた老剣士の背中が魂に焼き付いている。


 悠雅は英雄にならなければならない。でなければ、自分の代わりに死んで逝った姉と朋友たちに申し訳が立たない。救ってくれた恩師に報いることが出来ない。

 その決意と信念が有する重量をアナスタシアも、瑞乃も、また知っている。己ならば潰れて塵になってしまいそうな重量だと、彼女たちは思う。


 彼女たちとしても悠雅の道の妨げになどなりたくない。同時に彼に傷付いて欲しくもない。このまま放っておけば彼はいずれ、折れて砕けてしまう気がするから。

 それだけは阻止したい。しなければならない。絶対に。


「バカ」


 小さな罵倒があった。


「アンタが器用に生きられるなんて微塵も思わないけどさ、やっぱりアンタが考えてること、したいこと、言って欲しいよ。私は」


 だけど、なぜかアナスタシアは笑っていて。悠雅は胸が痛くなる。その笑顔が痛くて、それでいてどうしようもなく美しかったから。


「やっぱりだめだ。俺の道にあんた方を連れて行くことはできない」

「……あの時、病院で約束してくれたのに?」

「ああ、そうだ。俺の進む道は修羅道。英雄とは国と民の守り手で、敵対者を鏖殺おうさつする鬼。俺に着いて行こうとすれば、きっと地獄に落ちる」


 ずっと昔。永倉新八に弟子入りした時、悠雅は面と向かってそう言われたことがある。


 英雄になるということは即ち、地獄に落ちることを覚悟すること。悠雅は既に覚悟している。そもそも、朋友たちを斬り殺した時点で地獄行きの切符を持ってしまっている。だから、英雄になるということに躊躇はなかった。


 されど、彼女たちは違う。ただ、一緒に行く、とそう言ってくれているだけ。そんな慈悲深い彼女たちを、地獄に連れて行くことはできない。だけど、


「一緒に地獄に落ちる覚悟なんか、とっくに出来上がってるわよ」


 アナスタシアは鼻で笑う。対する悠雅の、なんと間抜けな面。これまで手前勝手に独走してきたせいか、どこか小気味が良い。


「っ……」


 その様子を見ながら、瑞乃は唇を噛んだ。やはり、アナスタシアは悠雅のことをよく理解している。

 本来なら喜ばしいことなのに、瑞乃の胸の内はキリキリと痛む。


(浅ましいですね、本当に……)


 瑞乃は不快な思考を吐き出すように、大きく溜め息を吐いて、気持ちを入れ替える。

 彼女袖の下に隠していた金細工の首飾りを取り出して、悠雅の首に下げた。


「……これは?」

「首輪です。以前、お義姉様から頂きました。最後の手段として使うようにと」

「は、はあ……?」


 困惑する悠雅。その間に彼女の手は何故か手印しゅいんを結んでいて、


「“縛道”――」


 小さく呟かれると同時に首飾りは一気に、悠雅の首を絞めつけた。それも、首の肉に食い込むほどの力で。


「な、ん!? こ、れ…………!?」

緊箍児きんこじの力を抽出した拷問用の霊装だそうです。原典程ではありませんが、首輪としてなら十分機能するでしょう」

「きんこ、じ? 確か西遊記だっけ?」

「流石に博識ですね」

「それほどでも。西遊記は有名よ?」


 目前に窒息し掛かった男がいるにも関わらず、呑気に瑞乃へ話しかけるアナスタシア。彼女らに現在苦しみ悶える悠雅を心配する様子は一切ない。


「どうやら効果覿面こうかてきめんのようですね」


 瑞乃は薄く笑みを浮かべて手印しゅいんを解いた。と同時に首飾りは力を失い、悠雅の肺に酸素が取り込まれ始める。


「ゲホッゲホッ……お、お嬢、殺す気ですか!?」

「死にませんよ。拷問用と言ったでしょう? 死ぬほど苦しい目に死なないように遭わせる。それが拷問ですよ」

「いくらなんでも、これはやりすぎでしょう!?」

「私だって無差別に発動しませんよ。貴方が一人で無茶をしない限り、ですが」

「だからと言って、この仕打ちは――ぐえっ」


 あんまりだ、とそう続けようとした彼が首飾りを外そうとした瞬間、首飾りは悠雅の手を拒絶するように首に食い込んで気道を塞いでしまった。

 急に締め上げられたことで、意図せず蛙の断末魔によく似た呻き声をあげて彼は床に転がる。

 苦しむ悠雅を見かねた瑞乃が首飾りを指先で撫でると、するりと首飾りが絞首を止めた。


「これは自らの意思で外そうとすると自動的に締まる仕組みになっています。もちろん、切ったり、誰かに外そうとして貰ったりもです。外そうという考えがもうダメなんです。だから、諦めてください。ね?」

「お嬢、勘弁して下さい……」

「勘弁しません。こちらが貴方の意思を汲むんですから、こちらの意思を汲みなさい深凪悠雅みなぎゆうが。それが対等というものですよ」


 これ以上文句は言わせないとばかりに、彼女はいやに綺麗な微笑みを残して退室する。アナスタシアがその後を追った。


「さて、次は応接室に待たせている、お兄様と鳴滝さんを絞り上げましょうか。悠雅さんが何に巻き込まれたのか聞かなければなりません」

「それと怪我人を連れ出してくれた落とし前をつけさせてやらないとね。少なくともグーだけじゃ済まさないわよ、私は」

「殺さなければ何しても良いですよ。特にお兄様には」


 なんて、末恐ろしい会話が聞こえてきて悠雅は生きた心地がしなかった。


『女は怖いぞ』


 他人事のように語る天之尾羽張に悠雅は眉を潜める。


「そう思うなら助けろ馬鹿剣」

『その馬鹿剣に何ができる?』

「うぐっ……」

『私に言わせれば、この程度で済んで良かったと思うべきだがな』

「この程度? 大荒れな時化だっただろうが」


 ぐったり。その場で四肢を投げ出した悠雅は胸の内に沈殿した何かを吐き出しながら天井を仰ぐ。


「このままだと、二人を巻き込むことになりかねない。どうすれば良いんだ……?」

『大事にされているじゃないか』

「馬鹿言え。御当主からお嬢を巻き込まないよう言われてるんだぞ? それに、そもそもからして危ない。一號とかいう男はかなり手強かった。……あの二人は連れていけない」

『それは傲慢過ぎる考え方だ。あの少女らを舐め過ぎている。彼女らは、お前が思っている程弱くないぞ。片や反皇家派の人間が跋扈する露西亜ロシアから単身で敵国の日本に渡って来た女。もう片方は……お前の方がよく知ってるだろう?』

「だからこそ、危ないことして欲しくないんだよ」

『同じだ。あの少女らもお前と同じこと考えているのだ。先週病院で言われただろうに』


 やや呆れ気味に相棒が零すと、悠雅は痛そうに顔を歪める。


「……俺とお嬢たちは違う。俺はそうしないと生きてはいけないんだ」

『それを糧という意味で言っているなら、お前は真性だ。だがな、別の意味で言ってるならそれは胸の内にしまっておけ。今以上に縛られたくないのならな』


 天之尾羽張は咎めるような口振りで悠雅を諌める。


『悠雅よ。お前、いつかあの娘らに残った足と腕、ちょん切られるぞ』

「………………それは、困る」

『なら言われた通りにしろ。お前が、失うのが怖いと思うのもわかるが、あの娘らも怖いのだ。お前がいなくなるのが』

「……わかってるさ」


 自惚れでも何でもなく、彼女たちは素直に好意をぶつけてくる。だからこそ、悠雅の行動に目ざとく、また厳しい。

 ありがたい話であることは彼も理解している。それでも、彼は悪態を吐かずにはいられなかった。


「悠雅」


 不意に名を呼ばれた悠雅は襖に視線を向けると、襖の隙間から璃菜が顔を半分だけ覗かせていた。


「……璃菜か、どうした?」

「あのさ、あんまりあの二人を怒らせないでよ? 私の心臓がいくつあっても足りないからさあ」

「…………善処するよ」


 まるで政治家のような言葉を吐き捨て、悠雅は応接室に向かった。

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帝都斬魔夜行 ―夜叉姫編― 蜂蜜 最中 @houzukisaku0216

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