皓骨
安良巻祐介
ふと、目を覚ました。
彼はもう何日も病床にあった。
痩せ削がれた顔にむくんだ唇を結び、丸く出た喉仏を小さく上下させながら、綿の如くずっと眠っていた。
枕元には水差しがあった。曇ったプラスチックの中に、白っぽく濁った水が、半分くらいまで入っていた。
何の夢を見ていたのか、瞼を開けた彼の頭には、色とりどりの顔がいくつも浮かんでいた。知っている顔の気もするし、全然知らないような気もした。
顔を見分けようとしたが、そう意識した途端それぞれの顔はずるりとのっぺらぼうのようになった。
一つ一つの顔にそんな事を繰り返していくうちに、全体として顔の群れはどんどんと輪郭を溶かしていき、なんだか分からないまま瞼の裏で光の染みになってしまった。
もう何日になるだろう――顔の残滓を追いやりながら彼は、呼吸と共に伸び縮みする奇妙な時間感覚の下、どこか遠くで鳴っている時計の針の音を聞いていた。
息をするのがどうにも苦しく、身体全体が熱っぽいのに、不思議と足の先だけが冷たくて、そこから悪寒が断続的に身体の輪郭をなぞってきていた。寒い。寝床の下で、畳が少し湿っている気もする。それとも汗が冷えたのだろうか。
彼は窓の方へ目をやった。冬の硝子窓は一面に結露を孕んで泣いていた。幾筋も幾筋も、汚れた雫が曇り硝子の上に跡を残していた。
俺も。――と彼は窓に向かって呟いた。体中が苦く乾いていて、水差しに手を伸ばすのも億劫だった。
この床の中で、彼の思考は、彼としてのかたちを失って、ただ横たわった視界を眺めるだけのものになり果てていた。
しかし同時に、ここ何日か、彼は、今まで感じていた体の苦しみが、何か別のものを示し始めるのを、どことなく、うすらぼんやりと感じていた。
決して楽になっているわけではなく、ただ、なんと言い表せばいいか、自分の体の中を激しく行き来していたものが、いつの間にかだんだんとゆっくり大股になっていって、気が付けば体の外に歩き始めていたような、そんな不思議な感覚だった。
しかしそれは、捕まえて見極めようとすると、ぼやけて、意識の膜からずるりとすり抜けていってしまう。おぼろげな形がなんとなく捉えられる分、その、幽霊と行き違うような感覚はもどかしいものだった。
苦い体と、粘つく重たい思考を持て余すように、中途半端な寝返りを打った時、彼は誰かが窓を叩く音を聞いた。
一瞬はっとしたが、すぐにその顔には薄い笑みが浮かんだ。
雨が降り出したのだ。
首を窓の側へ向けると、雨音はすぐにさあさあという細い音に変わり、滲んだガラス窓に映る景色を一層霞ませ始めた。
彼は何か呟こうとしてやめ、重苦しい天井の下で、腫れぼったくなった瞼をゆるゆると閉じた。
向こうの部屋で薬缶が苛立たしげにしゅうしゅうと息を吐いている。誰かが慌てて止めに行く足音が聞こえる。薬缶は駄々をこねるようにぷしゅんぷしゅんと小さい湯気を吐いている。
目を閉じたまま、彼はため息をひとつした。そういえば、雨の音がこんなに耳に近く感じられたことは、今までになかった。いつになくはっきりとしたその音に心を寄せると、画布に描くように、瞼の裏へ、窓の向こうの風景が浮かんできた。
それは、青い景色だった。糸のような青が、見慣れた家々や山の輪郭をぼんやりと煙らせている。しとしと、でもない、さらさら、でもない、滑るように雨音が景色に流れ、地面と空の境界をあいまいにして、瞼の裏がじっとりと何かに滲む。
ぷしゅ……と遠くで薬缶の断末魔が尾を引いた。ばたばたと足音がする。ひどく眠気を催してきた。
再び鼻から長い息をした彼は、瞼の裏の青い絵の中に、ふと、人影を見た。
鉛筆で書いたような、色のない、寄る辺もなく細った背中――それは、歩いて行く彼自身のぼんやりしたシルエットだった。
苦く乾いた、さみしい彼の意識が、いつの間にか、青い世界の中にぽつねんと立って、歩いている。
彼はその姿に、そっと近づいて行った。すう、と、抵抗も齟齬もなく、目を閉じた彼の心と、シルエットが重なりあった。
久しく黒ずんだ天井しか見ていなかった眼に、痛いくらいの色彩が戻ってきた気がした。青い。なんという、青い。青い世界である。言語化できぬ雨音が、視覚にまで感ぜられる心地がする。
もう一つ、肺の腐敗と、痛ましく蠕動する呼吸をのみ聴き続けた耳にも、音が聞こえた。川の流れる音。川は、黒々とした流れを抱いて、雨の下で、しかし静かに渦巻いている。
まどろみのあわいに、五感が柔らかな夢を見ているような、そんな感覚である。
目の前にある道は――雨のイメージに寄り添うように、道の向こうは青く淡く溶けて、霞んでいる。
来た道も同じことらしく、背中のうしろで霞んでいるのがわかる。
呆けたように口を開けて、影法師のような彼は、己を包む果てしのない風景を眺めるともなく眺めながら、ゆっくりと歩いて行く。
どこから来て、それで、どこへ行くのか。思いは確かに心には湧くが、それもいわばスープの泡のようなもので、ふつふつと生まれてはすぐにはじけて消えてしまうようだった。
彼は何も考えられないまま、今までのなにもかも合点がいく気がした。
そう、そうだった、心の奥の深いところではわかっていた、来し方も行く先もない、ただ道の上を歩き続けるだけで、どこかへ辿り着くことはない。点を結ばない線の上を歩いて行く。ずっと途上を歩いて行くのである。
ひどく安らかな気持ちになった。
道の上、青い色に侵されゆく彼の姿は優しく冷えて、景色との境界を少しずつ無くしだしている。
雨が歌う。鈴の鳴るように、青い色が病み疲れたたましいを打つ。その音が、音もない音が、からだに響き行く気がする。景色と自分とが、優しく触れあい、蕩けあう音が。
冷たく淡く、芯に纏わりついていた不快な熱が、雨に洗われて削がれていく。熱とは、輪郭であり、肉である。彼の体から、皮が、肉が、静かに剥離していく。重たい、苦界の財産。それらが剥がれ、雨の中でほとほとと溶けるたびに、ひきずる体が軽くなってゆく。今まで意識していなかった。自分がいかに重苦しいものを纏っていたかを、彼は思い知る。そして、真に彼は予感した。自らの体が、白いものに変わってゆくのを。
それは、骨だった。溶けていく肉の下から、彼自身の真っ白い骨が、光のように現れた。
彼は、仄白く輝く一体の骸骨となっていた。歯肉を落とした歯が、ゆるやかな表情を作る。きし、きし、と仄白く光る骨の音が、雨の中に優しかった。
見上げれば、空に、瞼の裏で染みになった幾多の顔がぼんやりと、輝きながら笑っている。彼は目玉のない顔を上げて笑い返した。何だ、あんな顔をしていたのか……。
真っ白な体を雨に打たれながら、光る骸骨は、青く煙った道をどこまでも歩いていった。
薄暗い部屋の窓の向こう、いつの間にか雨は降りやんで、寝床の中のむくろは、目を閉じたまま、不思議な笑みを浮かべている。
皓骨 安良巻祐介 @aramaki88
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