第二日
血と毒
一面の空が見えた。一瞬、地面がなくなって空に放り出されてしまったような感覚に囚われる。でも地面は僕の背中側にきちんと存在していた。
僕は重力の方向すら忘れていた。とても深い眠りに入り込んでいたようだ。何度か瞬きをして、意識して息をする。肺の奥まで冷たい空気が入ってくる。高度計の気圧調整をするように肉体と意識を擦り合わせていく。
朝だ。空は洗い古したみたいに色が抜けて、ぎりぎり青と言えるくらいの色彩しかなかった。そこに傷か皺が入ったような薄く細長い雲がいくつか浮かんでいた。雲の手前を一羽の鷲がぐるぐると回っていた。羽ばたかず風に身を任せて旋回している。獲物を狙っているのかもしれない。
獲物。
それは僕かもしれない。あるいは僕の持っている食べ物かもしれない。
まさかもう奪われてるなんてことはないよな? そう思ったので枕にしていたリュックサックに手を回そうとした。
でも上手く腕を動かすことができなかった。金縛りとは違う。ただ腕の筋肉を動かすためのエネルギーが僕の中に残っていないような感じだった。よう、僕、俺たちは死ぬほど疲れてるんだ。なあ、わかるだろ。それなのに今すぐ動けってのは、少々酷な話じゃないかい? 筋肉がそんなふうなしゃがれた声でぼやいているのが聞こえそうだった。
僕は仕方なく首を少しだけ左右に向けた。幸い首は動いた。左に龍がいて、そのほかには地平線まで何者も存在していなかった。地面と岩と砂があるだけだった。
「動けないの?」龍は体を丸めたまま訊いた。翼と手足を畳んで、しっぽの上に顎を乗せていた。目を半分くらい開けて僕を見ている。朝日を受けた龍の体は新雪のように真っ白に輝いていた。何もかもが砂埃にまみれたこの世界で、そんなに真っ白なものを見るのはとても久しぶりだった。
僕は口の中の方々を舐めて溜めた唾を飲み込んだ。そうでもしないと声が出なさそうだった。
「とても空腹なせいだと思う」僕はようやく答えた。
「何か食べた方がいいわ」龍は言った。「食べ物を持ってないの?」
「持ってるよ。ただ、あまりに動けないから食べるためのエネルギーを溜めているところなんだ」
「そう、それならよかった」
「よくはないよ。よくはない。でも、とにかく、もう少ししたら食べるよ」
僕は目を瞑って指先に力を入れた。手を握り、開く。体全体に少しずつ生気が戻っていくのを感じる。乾眠から覚めた苔がゆっくりと緑色になっていくように、ぼくもまたゆっくりと死から生の領域に近づいていく。
「あとどれくらい残っているの?」龍は訊いた。話を続けるつもりのようだ。
「食べ物?」
「そう」
「せいぜい三日分だね。かなり節約しているけど」僕はリュックサックの中に入っているパンの量を思い浮かべながら答えた。パンと水と、それから……、いや、もうそれしか残っていない。
「あと三日で目的の街に到着できるのね」と龍。
「わからない」
「わからない?」龍はちょっと驚いたように顎を持ち上げた。「持っている分がなくなったらどうするの? 人間は食べ物がなかったら活動できないでしょう。その場で手に入れるにしたって、ここには何も生えていないし、動物だっていない」
「そうだね。せいぜいあの鷲くらいだ。でも狩りをするのは現実的じゃないな。狩りはとても体力を使うんだよ。生きるために狩りをして、狩りするために生きているというようなものさ」僕は目を瞑ってゆっくりと言った。「そこに加えてできるだけ遠くまで歩いていこうというのはとても難しいことだ。それはわかってる。でも僕はとにかく行けるところまで行くだろうし、行ったところでできることをするだろうね。それだけだ」
龍は自分があまり意味のない質問をしていると思ったのか、それ以上何も訊かなかった。再びしっぽの上に顎を乗せる。
「龍は何を食べるのかな」僕は訊いた。頭が思考を取り戻しつつあった。
「食べようと思えば、なんでも。でも、あえてエネルギーを摂取しなければならないということはないわね」
「核融合のようなものかな」
「そうね。のようなもの」龍はそこを強調した。「まあ、地球に来たからには人間と同じものも食べなければいけないけど」
僕は起き上がって寝袋を開けた。冷たい空気が体を包む。あぐらをかいて膝の上に寝袋を折り返し、リュックサックを体の前に持ってきて口を開ける。
「ねえ、あなたは私の血を飲めるかしら?」
「え?」
「あなたが私の血液を飲むことはできるのか」龍はゆっくりと言い直した。
「……君にも血があるのか」
「すべての龍が人間のような血液を持っているわけじゃないわよ。ただ、私にはある。人間と同じものを見て、人間と同じ音を聞いて、人間と同じものを食す。そのための器官は人間の器官と同様の構造にしておくのが順当なのよ。それを生かしておくにはやはり同様の血液をあてがうのがいいでしょう」
「なら飲めるんじゃないかな。人間が人間や他の動物の血液を飲めるのと同じだ」
「そうともいかないのよ。たぶん。私の器官は確かに人間の器官を模している。でも完全に同じではない。私の器官にとって毒ではないものがあなたにとっては毒かもしれない。あなたの血液には含まれていない毒が私の血液には含まれているかもしれない」
「毒」
「そう、毒」
「……かもしれない、か。君が予めその毒を消しておくことはできないんだろうか。つまり、自己変化によって」
「いいえ、既知の毒は消してあるのよ。でもね、人間の科学で認識できないものが人間にとって毒か毒でないかなんてことは、私にも前もって知ることはできないのよ。知らないからこそ、私がここに来て研究する意味があるの」
「次元や世界の隔たり」
「そう、多くの龍とあなたの間には次元や世界の隔たりが横たわっている」
僕はそこで龍の質問を思い出した。あなたが私の血液を飲むことはできるのか。
そして人間の体から流れる赤黒い血の色を想像した。それを口に含むのかと思うといささかおぞましい恐怖を感じたけれど、僕の空腹はそんなものを簡単に覆い隠してしまうくらいに大きく膨らんでいた。
「わかった。やってみよう」
僕がそう言うと、龍は体を伸ばして後ろ足で立ち上がり、背中を反らせて伸びをした。その姿は白い三日月のように優雅で、空が半分隠れるくらい大きかった。
「水を用意して」龍はそう言ったあと、左手の人差し指の爪で右手の中指の先を少し切った。
僕はリュックサックから水のボトルを出す。龍はそれを左手で預かって、右手を僕の前に翳した。下に向けた指先からぽつぽつと滴る血を僕は立ち上がって両手で受ける。
血の雫は雨のように落ち、朝日を受けて輝き、僕の掌で弾けた。
それは赤い鮮血だった。トマトジュースの上澄みのようにさらさらとして、生温かかった。片手の掌の窪みが浸るくらいまで血が溜まった。
「なんともない?」龍は指の傷口を舐めてから訊いた。
「うん。なんともない」僕は答えた。右手に血を溜めておいて、左手についた血の飛沫を下唇に移した。そうやって唇の上で毒味をするのだ。もし毒なら唇は炎症を起こすかもしれないが体の中には入らない。
しばらく待つ。待って右手に溜まった血に唇をつける。まだ口の中に入れない。
また待つ。
なんともない。
龍が首を傾げる。
僕は頷いて、唇についた血を舌で舐めた。
味はわからない。ただ滑らかな感触。
口の中に唾が溜まって顎の内側がきゅっと締まるのを感じた。喉も乾いていたし、腹も減っていた。一息に飲み干してしまいたい。そんな欲望が僕の抑制の壁を危うく超えようとしていた。どちらにしても早く口をつけなければ堪えられない。
手に溜めていた血に再び唇をつけて今度は少し啜った。舌の上に溜まるほどの血が流れ込んでくる。
しかしそれは苦かった。
えずくほどの苦さだった。
僕は思わず口の中のものを吐き出した。血と唾液の混じったものが舌の先から一筋の糸のように垂れて地面に落ちた。筋の先に小さな雫がついて舌の方へ戻ってこようとする。それを指で摘まんで服の裾で拭った。
「やっぱり駄目ね」龍はがっかりそうに言って水のボトルの蓋を開けた。
僕はまだ右手に龍の血を溜めていたが、龍はそれを見て「捨てていいわよ」と言った。
僕はその時やるせない罪悪感に駆られた。龍からこぼれた美しいものが、僕に触れ、僕に交じることで台無しになってしまう。僕は汚れている。僕は惨めな気分になった。
僕はボトルを受け取って少しの水で何度か口を濯いだ。吐いた水で地面が濡れていく。
「僕に中るとすれば、それは未知の毒だ。君が言ったのはそういう意味だね」
「そうね」
「じゃあなぜ僕はそれを苦いと感じたんだろう」僕はまた一度えずきながら言った。胃が空の時にやって本当によかったと思う。
「そう、苦かったのね」龍は興味深そうに答える。
「苦かったよ。とても。で、ええと、苦いと感じるってことは、人間が認識できる物質ってことなんじゃないのかな」
「そうね。それは人間にとって既知の毒にとても近いものかもしれないわね」
「さっきと言ってることが違うよ」
「それは影なのよ。この次元に存在しない、別の次元にあるものが、この次元に落とす影の性質、それが今あなたの感じたもの。私はこの次元では龍の姿をしている。でも別の次元では別の姿をしている。あなたも同じ。影の形を予想することは、さっきも言ったけど、とても難しいことなの。それこそ、ひとつの龍が一生をかけて研究しなければならないくらいね……」龍は腰を下ろして足の前に腕をまっすぐついた。翼と背中を擦り合わせて落ち着きを確かめる。
「上手く理解できないな」
「仕方ないわ。あなたはこの世界しか知らないのだもの」
「この世界のことだって、僕にはよくわからないことも多い」僕はそう言ってもう一度水を口に含んだ。もったいないけれどかなりたくさん水を飲まないと口の中の苦みが取れなかった。未開地の密造酒を飲んだあとみたいに喉の奥がひりひりしていた。
「ところで、龍は人間の血は飲めるのかな」僕は訊いた。
龍は微妙にうつろな目で僕を見つめ続けていた。僕は少し居心地が悪かった。
「それは答えられないわ」龍は言った。「だって、食べれるなんて言ったら、あなたたちは怖がるでしょう」
僕はぶるっと背中を震わせた。
「つまり、君は人間を食べれるけど、食べるつもりはないってことだね?」
「そうね」龍は鼻の先で小さく頷いた。「そういうことにしておきましょう」
静止軌道の観測者・序章 前河涼介 @R-Maekawa
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