翼と靴

「ところで、先に声をかけたのは君の方だったね。すっかり別の話になってしまったけど、僕に何か訊こうとしていたのかな」僕は龍に訊いた。僕は相変わらず腕を組んで手を脇の下に差し込んで立っていた。

 龍とはどういった存在なのか、龍が言ったことを思い返しながら考えているうちに僕はいくらか冷静を取り戻しつつあった。龍はなぜ僕を呼んだのだろう。立ち止まらせるため? だとしたら僕がずけずけと近づいてくるのが嫌だったのだろうか。

 龍は右の方の稜線に顔を向けて、それから答える。

「それはね、なぜこんなところに人間がいるのかしら、と思ったの。私はあえて人間のいないところ、通りかからなそうなところを選んで静止軌道から降りてきたのよ。なぜって、私はまだ人間を観察するのに十分な支度を終えたわけではないの。これから人間の住処を見に行こうと支度を整えていたところだったのよ。人間に遭遇するのを避けるためにここへ降りてきたのに、あなたはやってきた」龍は薄く開けた口をほとんど動かさずに言った。人間の声帯や舌、唇にあたる器官は口の奥の方にあるのだろう。

 龍はそれから自分の手元に目を落とし、片手で地面の砂を軽く撫でた。地面には熊手で掻いたような波模様が残った。

「悪いことをしたね」僕は謝った。

「いいの。責めているわけではないのよ。私は、ただ、まだ完全には人間の環境に適応していないだけ。あなたと話すのにいくつか不便なところがあるかもしれないってだけよ」龍はそう言って、少し待ってから顔を傾けて僕の目を見つめた。

 僕は質問されていたことを思い出した。

 あなたはなぜここにいるの?

「僕がここにいるのはだね、この山地を越えた街に味方の軍隊の司令部があって、他の国の軍隊に見つからずにそこまで行かなければならないんだ」

「逃げているの?」

「逃げていると言うこともできるし、助けを求めていると言うこともできる」

「乗り物はないの?」

「あったよ。だけど壊れてしまって、もうずいぶん自分の足で歩いている」

「災難ね」龍は自分の翼を振り返った。「私があなたを抱えて飛ぶことができれば、その街、あなたの目指す街へ送ることもできるのでしょうね。でも、残念だけどそれはできないわね。私の翼はまだこの星の大気に順応していないの。減速することはできても、飛び上がることはできない。さっき言った『支度』というのはそういう意味。少し逸って降りてきたのも事実よ。だけど宇宙環境が求める機能と地表の環境が求める機能は違うわ。別の環境への順応には時間がかかるものなの」

「まだ馴染んでいない」僕は言った。

「そう、私の翼はこの環境にまだ馴染んでいない。形は鳥やコウモリの翼に合わせたの。見た目はもう十分でしょう? だけど実態が伴っていないの。まだ鳥やコウモリのように動かせるところまではいかないのよ。何しろ鳥やコウモリより体が大きいもの。鳥やコウモリをそのままの形で拡大した生き物がいたとしても、その筋肉の力では翼を素早く動かせない。よって飛ぶことができない。その理屈はわかるわね?」

「わかると思う。パワーが足りない」

 龍は翼をいっぱいに広げてゆったりと下へ打ち下ろした。その様子は帆船の帆が風を受けて膨らんでいく様子を思わせた。翼を形成する羽毛が空気の渦に揉まれてぶるぶると振動した。風を受けた地面の砂が舞い上がり、小さなつむじ風になって僕の後方へ走っていった。龍はそうして何度か白く半透明な翼を羽ばたかせた。それは目を開けているのがつらいほど強い風だったけれど、羽ばたいている龍の体は動じなかった。まして浮かび上がるようなことはない。

「今のが全力。今の私にはこれが限界なのよ」龍は背中の曲線に合わせて翼を畳みながら言った。「人間がイメージする龍には翼があるでしょうし、翼があるのに飛べないというのでは龍として変でしょう? そういうところを完全にしてから里へ下りようと思っていたのよ」

「龍の変化には時間がかかる」

「設計にも手間がかかるし、体の構造というのはそう簡単には変えられないもの。長い時間がかかる。長い時間が」

 僕と龍とでは時間の流れの感じ方が違うのだろう。僕の一日を龍は一時間くらいにしか感じていないのかもしれない。僕のひと月は龍にとっての一日かもしれない。

 つむじ風は止み、砂埃も地面に還る。大気は凪いでいる。

「君は静止軌道から降下してきた」僕は言った。

「そうよ。軌道の上に留まってまず何ヶ月か遠くから眺めていたの。時々少し高度を下げて場所を変えながら、点々と。地上の観察もしていたし、宇宙望遠鏡を調べて私の感覚が人間の感覚に合っているか調整もしていたわ」龍は両腕を立ててお座りの姿勢をしていた。そこから少し首を上向けて真上を見た。空に雲はない。深い紺碧に覆われている。東の空によるが差し込みつつあった。「降下の仕方は宇宙船のポッドとあまり変わらないわね。通り過ぎない程度に浅い角度で入って、成層圏で翼を開いて滑空しながら減速して、そしてここに降り立ったの。私の鱗は熱圏を通る時にこの色になったのよ」

「ああ、そうか、熱で結晶化したんだ」

「綺麗でしょう?」龍は少し得意そうに言って左の肩を前に出すように体を捻った。その動きに合わせて龍の鱗がさざ波のように次々とオレンジ色に輝いた。

 僕は組んでいた腕の上下を逆にしてまたしっかりと手を脇の下に挟み込んだ。

「君は言ったね。人間のことをとてもよく研究してきたと」僕は訊いた。

「そう。とてもよく調べてきたし、とてもよく観察していくつもりよ」龍はまた頭を下げて目の高さを僕に合わせた。

「その『調べる』の中に人間が用いるあらゆる言語の習得も含まれているのだろうか」

「含まれているでしょうね。だけど『あらゆる』とは言えないわ。人間が辞書をつくった言語だけよ」

「君はその中から僕に話しかけるために日本語を選んだ」

 龍は瞼で頷いた。瞼の動きで風が起きそうなくらいはっきりとした瞬きだった。

「僕の顔立ちが日本人なのかな?」

「それも判断材料にはなったわ。だけど、一番参考になったのはあなたが履いている靴よ」

 僕は自分の足を見下ろした。そこには砂にまみれていささか毛羽立った軍用ブーツの爪先があった。部隊で支給されたものだ。外套やズボンは地元のものを身に着けていたのだけど、靴ばかりはそうもいかない。本当に自分の足に合うものでなければここまで歩いてくることはできなかっただろう。

 龍は僕の足元に鼻先を近づけた。龍の鼻筋は僕の目線よりも低いところにあった。手を伸ばせば触れられる距離だった。間近で見ると薄く赤みの差した鱗羽の透明感がとても綺麗だった。ほのかに焼けた蝋の匂いがした。

「私、靴って好きよ」龍は言った。「靴というのは人間至高の発明だと思うの」

「靴が?」

「そう。人間の足そのものは生まれ持って頑丈なものではないのでしょう。靴を履くことによって飛躍的に遠くへ歩き、全く素足の馴染まない環境にも立ち入ることが可能になったのでしょう。だから、私が言っているのは木靴でもハイヒールでもなく、長く速く歩くための靴のことよ」

「スニーカーやトレッキングシューズ?」

「そう。概念的に言えば、靴というのは足にとって不変の地面なのよ。踏み入れる環境が一歩ごとに目まぐるしく変わっても、その人間の足は同じ地面を踏んでいることになる。そして靴ほど個人を選ぶ道具もないと思うの。本当に長く歩くためには、全ての人間に全て違った靴が必要なのよ。それは素晴らしい職人が自分の手だけに合った道具を選び抜くのとは違う。たとえ靴にこだわりがなくても、万人にとってそれは必然なのよ」

「龍は靴がなくてもあらゆる場所に進出していくことができる。でも時間がかかる」

「そう。長い時間がかかる」

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