第六章 父母が遺したもの

 全身にじっとりと冷や汗をかき、体の震えが止まらない、激しい動悸が収まらない。これが戦慄というものか……


 車椅子のある壁際に這い戻ったサーシャは傍らに立てかけてあった太い杖のようなものにすがって立ち上がり、どうにか椅子の中に腰を落ち着ける。真っ白になっていたサーシャの思考がようやく動き出した。


 ハンナの語ったあの突拍子もない物語がいま本当に起こっているのだとしたら、経緯はどうあれ朝までここに隠って居れば無事にやり過ごせるのだ。


 大魔導師の母が退魔の結界を張ったこの部屋には魔の者は入る事が出来ないはず。

そして悪魔の娘は冬の夜の化身、朝日と共に消え失せるという。朝が来れば、嵐さえ去ってしまえば―――― 。


 そこでハッと気付いた。彼らは? 悪魔の娘の目的がサーシャだったとしても、たった今その怪物と向き合っているあの四人はどうなるのだろう?


 思わず顔を伏せると、震える手で握りしめていたものが目に止まった。


 それは椅子に座ったサーシャの背丈よりも長く、小さな掌では握りきれないほどガッシリと太い魔杖だった。霊木マナの樹の枝とユニコーンのたてがみを芯に作られたというものを宮中魔導士だった母ペリドットが入手し、しつらえ鍛え上げた特別な逸品。七年前のあの戦争で、彼女が戦杖として愛用していたものだ。


 「この部屋にもあったのね、お母様の遺品が‥‥ 」


 サーシャは魔杖の中程を両手でつかむと床に垂直に立てた。ゴクリと唾を飲み込み、微かな声で呟いてみる。


 「レ…… レゾナンス共鳴 ―――― ? 」


 その詠唱に合わせて杖の先端がポウッと緑色に輝いた、そのまま淡い光を放ち続ける。魔杖はサーシャを主と認めたのだ。


 「そんな……、わ、私は……! 」


 サーシャの心は千々に乱れた。


 彼女の不遇の身を案じた母は生前、生活を支える魔法の一環として暴漢を撃退する為の一通りの攻撃魔法も仕込んでくれた。しかしそれが何になるだろう。実際に戦った事など一度も無いし、ましてや不自由な体であの巨大な怪物と対峙するなんて――――。


 その時、杖が立てかけてあった壁下の暗がりに一振りの剣が転がっているのに気付いた。つかも握りも古びて傷んでいたが皮鞘の隙間から見える刀身は薄赤く輝き、普通のロングソードとは違う魔具である事が判る。


 「お父様の剣…… 」


 魔法騎士として名を馳せた父クリムゾンは、彼自身は魔力を持たない通常の剣士だった。この剣はドラゴンのひげを芯に持つ、ミスリル鉱の魔具として魔導師の母が入手したものだ。


 鞘から引き出してみるとボロボロの外見からは想像出来なかった美しいほの赤い刀身が現れた。サーシャは震える両手で握った剣を胸元に構え、天に向けた。意を決してもう一度あの呪文を詠唱してみる。


 「レゾナンス共鳴 ―――― 」


 しかし今度は何も起こらない。魔剣がその真の姿を見せなかった事に、サーシャはホッ…と安堵のため息をついた。



 剣と杖、二つの魔具を膝の上に揃えると生前の両親が偲ばれる。七年前のあの戦いで、体の不自由な一人娘を屋敷に残し出陣した両親はどんな想いだったのだろう?


 幼かったサーシャはその時の事をよく覚えていなかった。ただ泣きじゃくって二人に縋り付いていた彼女の頭に優しく手を置いた父が、穏やかに呟いた一言だけ鮮明に思い出した。


『私達はサーシャの事も、この国の事もとても深く愛しているんだよ。だから行ってくる。私達が帰るまで、この屋敷の事はサーシャにまかせたよ 』


 ふと、先ほど書斎で交わした会話が重なり合って蘇った。


『僕の父はサーシャのご両親の様な英雄じゃなかったけど、やっぱりこの町を守って死んだんだよ…… 』


 異形の娘がサーシャを捉えようとした刹那、剣を手にその間に飛び込んでくれたシリウスの言葉だった―――― 。



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