第27話 還俗、そして……

 お父様。

 私がこのように下界を彷徨っていた頃、お万様は幕府御用屋敷という上界に一人で取り残されていたのでございます。


 今から綴りますことは、お万様が後に面白半分で語って下さったことです。

 これを聞きました時は、私は恐ろしさに震えました。 


 ……でもこれは本当に真実だったのでしょうか。

 最近ふと、そんな思いがよぎるようになりました。 

 

 しかし、お父様。

 私にはもう、それを知る手立てはございません。


***


「院主様、お目覚めになってもよろしゅうございます」


 元悪役花魁・花園の朝はいつも、こんな奇妙な掛け声から始まった。

 花園は黙りこくったまま、床の中で目を開ける。


「ええ、おはよう」


 そう言うと、するすると侍女二人が部屋の中に入りこんでくる。手には髪を整える為の櫛などを詰めた整髪用具を捧げ持っている。


「御髪をお梳きいたします」


 そう言うと横になったままの花園の髪を、侍女が丁寧に梳かし始めた。髪をしっとり整えるという、米のとぎ汁を櫛にたっぷり浸してじっくり手入れをしていく。事実、濡らした櫛で髪を梳かすと塵や汚れも粗方取れるので、理にかなった整髪方法であった。

 

 だが問題はその時間だ。念入りな手入れの最中、髪を梳かれている女人は一ミリも動くことが出来ない。


『ちっ、面倒だぜ』


 生まれから高貴な女性ならいざ知らず、暴れ馬同然の花園には窮屈この上無い習慣だった。


『でもま、勝手に手入れしてくれるんだからラクでいいな』


 そんなことを考えながらジッと横になっていると、そのうち起き上がるように促される。身体を起こした花園の前に、もう一人の侍女が井戸から汲み立ての水をスッと差し出した。朝一番で口をゆすぐ為の、清水しみずである。

 

 それで花園が優雅に口をすすいでいる内に朝食が用意されている、というのが毎朝のルーティーンであった。


 起きたての花園の前に、朝食の膳が据えられる。

 漆塗りの膳は一の膳と二の膳があり、一の膳には炊いた白いご飯、旬の野菜を使った温かな汁物と酢の物に、煮物がついている。二の膳には豆腐入りの汁に、ささやかな魚の焼き物が載っていた。


『ほほう、今日も結構な朝食だ。ウマそうだな』


 大飯喰らいの花園は、ほくそ笑むと早速、箸をつけていく。どれもこれも健康的な薄い味付けではあるが、出汁が効いていて申し分ない味である。

 成程、調理係がしっかりしているのであろう。元々グルメな花園は、思わず感嘆の溜息を漏らした。


「ああなんと、美味しい朝餉あさげですね」

 

 料理の感想を言うのはそれ程おかしいことではないのだが、雅やかにそう言う院主を侍女の一人が嗜めた。


「院主様。下賤ならいざ知らず、高貴な武家では食事の感想など誰も申しません」

「あら、そうですか。失礼」


 この屋敷では武家の作法にそぐわないものは全て、排除されるのであった。花園、もとい院主を骨の髄まで武家風に染めようという魂胆が丸見えである。


『ふん、あの狸ババアめ。ま、どうでもいいや。こんなウマい物をタダ飯同然で喰わせてもらってるんだからな。ロクに飯も喰えない吉原に比べりゃ、天国だぜ』

 

 確かに、ここで春日局の思う通りに振舞っていれば、下界とは比べ物にならないような生活が保障されているのも事実であった。


 花園は吉原でも手がつけられない様な問題児であったが、それは花園を信奉している客どもというメシのタネがあってこそ。ここでのメシのタネは、間違いなく春日の機嫌を取ることである。

 火花を散らした初対面以来、春日は一度もここへ姿をあらわしていないが、花園演じる院主の様子は逐一報告されているはずである。


 それを意識している花園は、ここで教え込まれる武家の作法をあっという間に飲みこみ、最近では非の打ち所のない女人へと仕上がっていた。春日が気にいる、武家風の女に。


 ……だが、しかし。


『つまんねぇ、つまんねぇぜ』


 花園は日々、こんな思いを募らせていた。

 立派な食事、細部に至る世話に、従順な侍女……。


 確かに何不自由ない生活である。

 しかし、花園にとって、それは全く違う意味を持っていた。


『舐めやがって。良い食い物もシツコイくらいの手入れも、所詮は子種がつきやすい腹を作るためじゃねえか』


 そう思うと、花園は苦虫を噛み潰したような気持ちになった。


『このままじゃ、アタシはタダの家畜だ。春日が飼ってる繁殖犬だ。あのババア気まぐれでいつでも消せちまう……犬畜生』


 並の女なら、この待遇をありがたがったに違いない。しかし花園の嗅覚は敵の懐の、そのまた奥を嗅ぎ分けていた。


 まさに、彼女の言う通り。

 ここは、春日が用意した黄金の犬小屋に過ぎなかった。

 将軍の子種を宿すためだけの女を作る、家畜小屋だ。


『これじゃアタシは、生きていないも同然だ。このまま死んでたまるか』


 そんなことを黙りこんで考えていると、侍女の一人が花園の髪を眺めながら、こう呟いた。


「御髪が伸びられましたね。これならばもう十分、結髪出来ましょう」


 それからの展開は、とてつもなく早かった。

 その日の内にあの松風が大量の侍女たちを引きつれて主の部屋になだれ込み、院主の髪を結い上げるのを見届けた。あの侍女が言った通り、院主の髪は十分な長さがあった。


 立派に結い上げるため、かもじもたっぷりと添える。かもじとは毛量が足りない時に添える、現在のエクステのようなものであるが、それを使うと院主は見事な美女に仕上がった。


 大輪の牡丹のように咲き誇る院主に、松風がニヤニヤとした笑みを顔に張り付けながら、恭しく頭を下げた。


「ご還俗げんぞくおめでとうございます、院主様」

「……」


 還俗とは、一度出家した人間が俗世間に復帰することを言う。


『ムリヤリ還俗させておいて、おめでとうだと? 狂ってんな』


 松風の態度を内心嘲りながら黙りこくる院主に、松風は構わずたたみかけた。


「明日には大奥に登られるようにと、春日局様からのお達しでございます」

『……とうとう、来たか』


 ついに、花園は飛びこむのだ。

 春日局が支配する巨大な伏魔殿、『大奥』に。







  

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悪役花魁だけど脱走したら大奥で側室になっちゃったんで、とりあえず将軍に毒を盛ろうと思う 水谷 耀 @you-mizutani

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