『番外』

千年の側近の選択



「蛍火、お前を西燕国の筆頭神子に任じる」


 その辞令により、蛍火の約千年が始まった。

 約千年……長い時間だった。そんなに長く仕えることになるとは、最初は思っていなかった。

 短ければ数年で討たれる可能性さえあると思っていたのだ。

 だが彼女──睡蓮はそんな当初の評価をひっくり返し、前代未聞の年数を治世として築き上げた。

 その時間は、いつしか蛍火にとってかけがえのない時間になっていた。


 西燕国王即位千年の式典の数日前、蛍火の手には特別な短剣があった。

 何が特別か。王を殺すために神より下された探検だ。飾りも何もない、真っ白な短剣。

 これから蛍火は、千年近く仕えた主の命を終わらせなければならなかった。


「本当に、良いのですか」

「うん、いいの」


 時というのはあっという間だ。

 千年を目前に控えたある日、神への拝謁をし、睡蓮の時代の終止符を打つ日が来た。

 恒月国から帰ってきた睡蓮は、結局恒月国王には何も伝えなかったようだ。言われずとも分かる。そのような人だ。


「わたしの時代は終わり」


 あっけなくも、彼女は自らの時代の終わりを告げた。

 蛍火は、あなたは幸福だったのだろうかと問いたくなった。

 報われなかった人生ではなかっただろう。努力は報われた。結果のこの治世の長さだ。

 だが、果たして人としての幸福はあったのだろうか。彼女が、家族を亡くしたあの日から──。

 しかし蛍火は、もう何も言えなかった。睡蓮はただの人には戻れず、このまま王として生きていても幸福になれるとは言い難かった。


 睡蓮の手が、短剣の柄を握った。

 触れた手の温かさに、蛍火は震えそうになった。


 ──なぜ、この人は死ななければならないのか。王として国を支え続けた末に、ただの一人の人間に戻ることも出来ずに──


 刃が、睡蓮の体を貫いた。心臓を一突き。血が溢れ出し、彼女の衣服と短剣の刃、そして蛍火の手を濡らす。


 黄色の瞳から光が失せる。


 蛍火は、睡蓮の体が床に倒れる前に受け止めた。

 抱き締めた体は力ない。もうこの体が動き出し、その声が蛍火を呼ぶことはなく、その目が蛍火を映すことはない。顔を歪めずにはいられなかった。


 ああ、いなくなった。

 もういない。どこにもいない。

 もう、あの人はいない。


 床に、ぽたり、ぽたり、と透明の雫がいくつも落ちた。


 こうして、蛍火が西燕国の筆頭神子として千年を迎える少し前、蛍火の主はこの世からいなくなった。

 蛍火に残されたものはなかった。

 睡蓮が身につけたものが残ろうと、何が残ろうと関係ない。彼女がこの世からいなくなり、蛍火に残ったものなど何もないのだ。

 愛しい陛下ひと

 世の大抵の王付きの神子が迎えるような結末を迎えず、蛍火は内界へ戻った。


 次の王になど仕えない。千年だ。十分生きた。内界で生きる目的もない。生きた人間の神など、誰がなろうと興味がない。神子を辞め、そう長く生きることなく死のうか。


 ──否。


 自らには、責任がある。





 *



「蛍火」


 内界の廊下で呼び止められた。

 その声は、長年馴染んだものだ。聞いた回数で言えば睡蓮の方が多いだろうが、付き合いの年数で言えばもっと長かった。

 振り向くと、肩の上で切り揃えられた金髪に、茶色の瞳をした女性がいた。外見は、蛍火より少し年下に見えるくらいだが……。


鳴雨なりう──いえ、神子長様」

「いいよ。お前は呼び慣れていないのは百も承知だし、貴重な同期だから特別だ」


 金髪を揺らし、ころころと笑った女は当代神子長だった。

 たった一人、蛍火と同じくらい長い年数を生きている神子だ。蛍火と同じ年に神子になった、正真正銘の同期だった。


「茶を飲まないか」


 神子長兼同期は、右手に急須、左手に茶杯を二つ持っていた。


「盆にくらい乗せたらどうです」


 呆れながらも、蛍火は付き合う意を示した。

 神子長の部屋に移動し、机を挟んで向かい合って座る。


「蛍火、お前が次の神子長だよ」


 座った途端、単刀直入に言われた。茶を淹れることもなく、前置きもなく。

 蛍火は、向かいからこちらを真っ直ぐ見る同期を、静かに見返す。

 現在の神子長は鳴雨だ。彼女が神子長でなくなる、ということは。


「……鳴雨、あなたは」

「わたしはそろそろただの人間に戻る。ほどほどに生きて老いたくなった。そして死ぬ。神がお前を次の神子長に決めた」

「なぜ、私が」

「お前を選んだ理由なんて知らん。単純にわたしを除けば最年長だからとでも思っておけばいい」


 それは些か無茶な話だった。年の順など関係なく、神子長になった例を知っていた。鳴雨もそうだ。


「お前ももう生きることに飽きたなら、嫌になったなら、神子をやめればいい、蛍火。神子はそうできる」


 数年前、蛍火はそうできない存在を見送ることになった。

 なぜ、王にはそんな権利さえないのか。

 言われたことに、ぽつりと思った。


「鳴雨」

「うん?」

「どうして、王にはそれが許されないのでしょうね」


 辞めることが出来たなら。降りることが出来たなら。きっと『彼女』は苦しみから逃れることができた。幸福になる道だってあった。


「自分の意思とは関係なく王に選ばれ、いくら辛いと辞めたいと思っても、ただの人に戻ることは許されず、王でなくなるには死ぬしかない。今の私には、残酷に思えてなりません」

「……蛍火……今の世界で、お前は生きたいと思っているか?」

「……いいえ」


 どうしても生きたいとは思っていない。


「ですが、生きますよ」

「何のために」

「神子を辞すにはまだ少し心残りがあるので」

「……心残り」


 鳴雨は、探るように蛍火を見る。


「睡蓮様が関係しているのか?」


 蛍火は、ぴくりとわずかに表情を動かした。ほんのわずかだったが、鳴雨は見逃さなかったようだ。


「蛍火、お前はもう西燕国の神子ではないよ。お前が仕えた王はもういないんだ。千年近くも仕えれば、思い入れや名残惜しさがあるのは分かるが、未練で生き続けるのなら──」

「鳴雨」


 蛍火は、鳴雨の言葉を遮った。


「分かっていますよ」


 蛍火は、綺麗に微笑んだ。


「睡蓮様はもうこの世にいません。別に未練で生きようとも思っていません。私がそのような性格だとでも?」


 その微笑みをじっと見て、鳴雨はふっと息をついてから、苦笑した。


「『心残り』と言っておいてよく言う。少なくとも、西燕国の筆頭神子に任じられる前のお前は、『心残り』なんて言う性格ではなかったよ。──あーあ、まったく、睡蓮様はとても偉大だったな。何しろ数百年いけすかなかった奴に、人間味なんてものを生まれさせたんだ」

「……誰のことですかね?」

「お前のことだよ」


 冗談めかした言い方で、それ以上は深堀りしなかった鳴雨は「そうか……そうか」と呟いた。


「お前の人生だ、好きにすればいい。ほどほどに生きろよ」

「ええ」

「体には気をつけてな」

「ええ」

「寂しくなったら、ただの人間に戻れよ。数十年くらいなら待ってるぞ」

「なりませんよ。ただの人間に戻るとしてもすぐに死にます」

「お前、そういうところはそのままなんだな」


 なぜか、鳴雨が心なしか寂しそうに微笑んだ。


「じゃあ、これで今生の別れか」

「そうなりますね」


 そこでようやく、鳴雨は放っていた茶杯に液体を注いだ。冷やした茶なのか、冷めてしまったのか、湯気は立っていない。


「お前が好きだったよ、蛍火。わたしの友」


 片方の杯を差し出された。


「あなたが嫌いではありませんでしたよ、鳴雨。何より、こんなに長く付き合う友が出来るとは思っていませんでした」


 蛍火は杯を受け取り、そう返した。


「長生きを」

「もう十分生きたよ。はは、神子長の歴代最長在位年数も更新してやった」

「そういえば、あなたは随分と長く神子長でしたね」


 ほとんど内界にしかいない神子長をそれほど長く。退屈ではなかったのだろうか。

 鳴雨は「そうだろう?」とだけ言って、こちらに杯を近づけたかと思うと、軽く杯同士をぶつけた。

 コン、と硬い音が鳴る。


「生きたくないと感じる世界で、無理はするなよ」


 蛍火は答えず、黙って微笑んだ。

 そんな蛍火に、やはり鳴雨は少し寂しそうにして杯の中身を呷ったので、蛍火も杯を口許に近づけた。


「……鳴雨、酒ではありませんか」

「今気がついたのか」


 茶のにおいがする酒だった。

 思い込みも手伝ってか、飲む直前まで酒のにおいにも気がつかなかった。

 友が笑ったことと、わざわざ最初に茶と言われていたことで騙されたと蛍火は気がついたが、特に断る理由もないのでそのまま飲んだ。


「ではお前が次の神子長だ、蛍火」

「承ります」


 その言葉により、蛍火の二百年は始まった。

 たった一人の二百年が。









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書籍化記念に、突然の番外でした。


12/1にこちらの作品が、改題・改稿の上で角川ビーンズ文庫様より発売します。

改題後のタイトルは『千年王国の華 転生女王は二度目の生で恋い願う』です。

近況ノートの方に表紙イラストとあらすじを載せているので、よろしければ覗いてみてください。


けっこう改稿しています。こちらを読んでくださった方にも楽しんでいただけるものになっていると思います。お手に取っていただけると嬉しいです。

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【書籍化】千年王国の花 久浪 @007abc

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