36 「ただいま」




 水鏡を通り抜けると、「お帰りなさいませ」と出迎えられた。その神子の名を朱里と言う。恒月国付きの神子の一人だ。

 以前、わたしが王だった頃にも恒月国にいた神子でもある。

 恒月国の神子は、ほとんど顔触れが変わっていなかった。懐かしい顔とばかり再会して、恒月国にいると、まるで以前の時の中にいるようだった。

 紫苑は会議の席にいるということで、宮への道を行く。

 宮へ戻ると、女官に出迎えられて、着替えることになる。

 神子の服から、未来の王妃として相応しい最低限の服装へ。


 元々、紫苑が普段からきっちりしているのは苦手な部類なので、彼に関しての普段の服装や礼儀に関しては緩い方だ。ただし、正式な催事や儀式の際はきちんとする。

 とは言え、それは紫苑の場合である。

 宮殿での彼のあり方は、さすがに六百年とあって紫苑の交渉と強情な姿勢が身を結び、妥協されたものが基盤としてできているが、王妃には王妃のあるべき姿がある。

 これまで伴侶は迎えていなかった紫苑なので、王妃についての交渉は手付かず。

 わたしは当然衣服はしっかりと着込ませられ、妃としての礼儀作法や役割等をきっちり教え込まれそうになった。


 どうもこれは、わたしが以前王であったときのように、長年に渡る戦いが始まりそうだ。と、思っていたのだけれど、そこで紫苑が女官達と話し合いをしてくれた。

 王である紫苑のように、伴侶となるわたしもそれなりに緩くてもいいように。

 これまで伴侶は迎えていなかった紫苑の、王妃のあり方についての、何百年振りかの一からの妥協案交渉である。

 頑張れ紫苑! いや、わたしもわたしのことだから自分の意見を通したけど。これはわたしの以前の経験の賜物である。やればできる。

 こうしてわたしは、以前ここにいることになっていたような、普段から窮屈な正装ではなく、比較的省略した服装でいられる権利を得た。


「鼻唄の外れ具合は変わらないんだな」


 のんびり、手元に集中していた目を上げると、紫苑がすぐそこにいた。


「紫苑、ただいま」


 鼻唄云々を華麗に流して言えば、紫苑は微笑んだ。


「それ、雪那に送るものか? 前と柄が変わっていないか」


 それに小さくなっていないかと、紫苑が示したのは、わたしの手元のハンカチだ。

 隅を囲うようにして、模様を針でちまちま縫っているところなのだ。

 おそらく、紫苑が言っているものは、雪那が描いた絵を元にして縫っている大作のことだろう。


「ううん、これは蛍火にあげようと思ってる分」

「蛍火に?」

「うん。軽い約束だったとしても、守らなくちゃね」


 蛍火とは、鏡越しの連絡を続けているし、雪那に会いに行くときに内界を経由するのでそのときに直接会いもしている。

 結局はわたしも、蛍火が当たり前にいる生活を思い出してしまっていたから、蛍火と顔を合わせられるのに合わせないというのは違和感があったようだった。

 それはそうと、ハンカチは以前再会したときにわたしがどのようにして生活していたかを語ったときに、軽く約束したことがあった。

 じゃあ何か縫ってあげよう、と。


「紫苑も何か縫う?」

「欲しい」


 何気なく聞くと、間髪入れずにそんな返答があったので、目を丸くする。

 ハンカチに戻していた目を上げると、


「どうして俺には言ってくれなかったんだ」

「……拗ねてる?」

「拗ねてない」


 変なところで、意地を張るね。

 笑うと、紫苑の唇が、わたしの唇に触れた。


「雪那に会って来たんだろう」

「うん」


 一旦刺繍の手を止めて、庭に散歩に出た。

 実はわたしは、まだ紫苑の妃にはなっていない。神子の肩書きを持って、雪那に会いに行ったりしている。

 雪那が突然のわたしの結婚、それも紫苑との結婚に驚かないように、しばらくの時を置くのだ。雪那にはまだ知らせていないだけで、わたしの戻る先は内界ではなく、恒月国。

 恒月国では、前に連れて来られたときのこともあって、正式に婚約者のような扱いとなっている。


「今度雪那が躓くことがあったなら、教えてあげてよ。制度なんて壊していい。自由にやっていいんだって。何もかも、変えてしまっていいんだって」


 わたしは花鈴のまま、雪那の前では一生そうあるつもりだから。王であったと言うつもりがない限り、王として語るわけにはいかない。

 あの国を変えないと。変えてしまわないと。どれほど望まなくても、終わりが来てしまう。

 何より、自分の意識が反映されていない型にはまったことを続けていくのは、長くするには生き辛くなってしまう。


「ああ。背を叩くなり手を引っ張っていってやるなりしてやる」


 先輩だからな、と紫苑は堂々と請け負ってくれた。

 それなら、安心かな。わたしだって、ずっと見ているし。何かあったら、飛んでいくつもりだし。彼が、わたし以外の人間にわたしと同じくらい気を許すようになるまで。その時は、きっと遠くない。


「紫苑」

「ん?」

「千年、」


 その年数に、紫苑は立ち止まった。

 わたしも立ち止まって、言葉を続ける。


「千年、国を治めた先で神の選定を受けるとしたら、紫苑はどうする?」


 王は、王位についても選定の中にある。

 神の代わりにこの地を治められる永遠の人間の神となる者かどうかの選定だ。もしも民に討たれることなく生き続けた先で、千年というのが最後の選定の区切りなら。

 現在、紫苑は六百年。

 千年でなくとも、生き続ければ民でなく、神の選定を受けるときがきっとくる。

 わたしの問いに、紫苑は一度瞬きして、口を開く。


「どうするも何も、どうすることも出来ないだろう。ただ、これまで通り与えられた土地を治めるだけだ」


 その紫色の目に変わらない強い意思を宿し、一本のぶれない柱を持ち、彼は言う。


「俺のやり方が気に入らないとしても、俺は俺のやり方を変えられない。最後の選定を受けるなら、そのときまでずっと。だから一言言うとすれば──臨むところだ」


 彼は自らの国の姿に後悔しない。失敗して、振り返ることはあっても後悔はしない。前を見据え、試行錯誤し、国を作り続ける。

 かつて、生きた永遠の神に最も近いと言われたのはわたしだった。年数からすれば、今は紫苑。

 紫苑の国を、神がどう見ているのかは分からない。この先、どのような道が待っているのかも。

 それでも、わたしに不安はない。紫苑の国が好き。紫苑が好き。わたしは彼の側で、この国と生きていく。









  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る