35 「ずっと、言えなかった」
わたしは、扉から身を離した。
「私が言えたことではありませんが、拗らせると厄介なことになるのですね。二人して、自分のことを考えればいいものを。その矢印が相互にならないのがいっそ滑稽です」
扉が開いた。
ぴったりと扉についていた宗流が、のけぞり、扉に隠れる。
わたしは避けることに成功し、扉を開いて現れた蛍火と向き合うことになっていた。
「どうぞ、睡蓮様。話をお付けになってください」
「蛍火」
「時間はあったでしょう? さあ、もう十分過ぎる時を見送ることになってきたでしょう。もう時間をかける必要はないはずです」
蛍火が部屋から出て来て、わたしの横を通りすぎる。
通りすぎるときに、「あなたの思うままに」という囁きを残し、ぽんと背を押して。
「──睡蓮」
蛍火がいなくなった部屋の方から、呼ばれた。
宗流を連れ、去っていく背を見ていたわたしは、そちらを見た。
紫苑が、見える場所に立っていた。
蛍火が話を終わらせて勝手に出ていったことで、椅子から立ち上がり、見に来たらしい。
わたしはまともに紫苑と対面することになって、けれど今さら扉の陰に隠れるわけにもいかないもので、そわそわする。
「来ていたのか」
「え、と……」
ここで気まずい種類の感覚を抱えるのは、一重にこの間わたしが紫苑の言葉を断って、別れたからだ。
「その、蛍火と、話して……」
わたしは、蛍火の側にいようと思うと言った。
紫苑の言葉は嬉しい。嬉しいけれど、わたしだけが幸せになってはいけないと思ったから。
けれど、さっき。ついさっき、蛍火と話した。
「蛍火は、わたしが間違ってなかったって思ってくれていて、わたしが殺すのを頼んだこともわたしせいじゃないって言って……。蛍火も、紫苑と同じで、わたしを閉じ込めてでも側に置いておきたい、とか思ってて……」
言っていることが、要領を得ないことは自覚していたが、分からなくなっていて。さらに紫苑が「は?」と言ったから、ちょっと焦る。
何かいらないことを言ったか。どうしてここに来たのか、説明しようと頑張っているところなのだけれど。
わたしが紫苑の言葉を断っておきながら、紫苑の前に現れた理由。
「と、とにかく、蛍火と、蛍火の側にわたしがいる理由について話し合った。蛍火は、さっき言ったように思ってくれていて、」
それから、好きだとも言われて、とは口に出せなかった。
「送り出しておいた身だが、あんまり蛍火蛍火連呼されると、さっきの本人のいくつかの言い方もあって蛍火の胸ぐらを掴みたくなる」
「どうしてそうなるの」
わたしはびっくりして、思わずまともに見られていなかった紫苑を凝視した。
「つまり、蛍火は睡蓮が好きだってことだろう」
「──どうして分かったの」
「さっきの蛍火との話と、今ので」
何だって。
「そんな相手のところにいるって言われると、さすがに焦る。焦る、が」
紫苑は、ある距離を決して縮めず、その場から動かないままで首を傾げた。
「蛍火に連れてこられたから、ここにいるのか」
「…………え?」
「蛍火と話をしたのは分かった。さっきの蛍火の様子からすると、蛍火が睡蓮を連れて来たことも。でも、睡蓮が納得してないなら、俺はまだ待つ」
蛍火の側に戻ることを、受け入れる。それは、紫苑の優しさだった。
そして、わたしがここにいるのは、蛍火の優しさ。
わたしは。周りを振り回すことしかしていないわたしは。
「…………蛍火は」
ぽつりと、わたしは独り言を呟く。紫苑に説明するためでなく、自分の考えを整理するため、混乱を収めるために。
「蛍火は、わたしは自分だけが望む通りに生きるべきだって言って。馬鹿だって、言って。蛍火の望みは、わたしが自由に生きて、幸せになること、で……」
そして、確かに蛍火がわたしをここに連れて来た。
他人のことより、自分の幸せを考えれば良い。何より自由に生きてほしい。幸せになってほしいと蛍火は言った。
蛍火のことを気にするのは当然だ。蛍火といることだって、わたしにとっては幸せだ。それに、それなら、蛍火だって自分の幸せを一番に考えるべきだ。
だけれど、彼はこうも言った。──以前諦めたものに手を伸ばしてはどうか。
そして、背を押していった。
全ては、わたしが死んでから始まった。正確には、わたしが死ぬときから。わたしが蛍火に頼んだときから。
そこからわたしは蛍火に対しても紫苑にも勝手をし続けて、今、また勝手をしようとしている。
わたしが蛍火の側にいるからと、離れたのに、わたしは紫苑の前にいる。
これは、蛍火が連れて来られたから、渋々じゃない。
「わたし、紫苑のことが、好き」
初めて、その言葉を口にした。
好き。単なる親愛の、家族にも向けられる意味ではない。
紫苑がわたしに向けてくれたものと同じ意味で、同じ想いで言葉にした。
「前から。ずっと、言えなかった」
二百年前、死ぬ前から。
ずっと前から。
でも、言えなかった。
「前は紫苑と一緒に生きられる道なんて、なかったから。わたしは王で、紫苑も王で。どちらも死ぬまで降りられない。だから伴侶にもなれない」
王として選ばれなかった場合の日々を夢想したことがある。
王としての道を歩むとしても、決して結ばれることは有り得ない立場にある人との未来を夢見たことがある。
夢見るのは勝手だから。
「紫苑と会えるのが嬉しかった。楽しかった」
紫苑のことが好きだった。
元から紫苑と会うのは楽しかったけれど、想いを自覚してからは特に。特別嬉しくて、特別楽しい。どれだけ時を重ねても、特別さは変わらなかった。
「でもわたしも紫苑も王で、結局は本当に同じ時を生きられる者同士じゃなくて、同じ道を歩いていくことも出来なかった。だから、言えなくて……紫苑が、そう思ってくれてるとも思ってなくて……」
声が途切れたと同時に、抱き締められた。
手を伸ばしても届かない距離にいた紫苑が、わたしの苦しい言葉に、触れる距離にまで来た。
その体で、覆い隠してしまうくらいに、わたしを深く優しく抱き締めた紫苑は、「……ああ、そうだな」と言った。
紫苑が、わたしが死んだ理由を明かした場で言った言葉がある。
──「ただ以前は、俺も睡蓮も王だったから、その関係は変えられないにしろ、他の誰にもない関係で同じ時の流れを生きていけて、共に生きていけるだけで充分だと思おうとしていた」
あの言葉に驚いた。
わたしも、以前王であったとき、紫苑と会うたびにそう思っていたからだ。
今世で紫苑がわたしに向けた多くの言葉は、前世ではあってはならないことであるのはもちろん、あるはずもなかったと思っていた。
時を同じように長く生きていくことのみを心の支えにして生きていくのは、あまりに愚かなことで、実際報われもしないことだった。
「紫苑」
「何だ」と、紫苑の声がすぐ近くで言う。
「わたし、紫苑と生きていきたい。同じようでいつかは別々になってしまう時じゃなくて、正真正銘同じ時を生きたい。紫苑の側で、紫苑を感じて生きていきたい……」
決まって別れがあることの虚しさ。共に永い時を生きる存在でも、別々の国の王。いつどちらの時が絶たれるか分からなかった。けれど共に死ぬことなんて出来なかった。王だから。
「そう、望んでくれるのか。俺の側で、俺と一緒に、同じ時を生きてくれるのか」
紫苑が望んでくれるなら。そう言うと、抱き締める力が強くなった。
今まで優しく包むようだったのが、抑えていたのか。離してしまわないように、そしてしがみつくように強くなった。苦しいくらい。
「俺は、二度と離せないぞ」
「うん。離さないで。わたしも離れようなんて思えない」
「そうか」
それなら一生離さない、という言葉が、とても愛しくて。
わたしも、紫苑を抱き締め返した。離さないように。離れないように。
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