34 「ようやくお気きづきのようで、おめでとうございます。六百年目に学ぶこともあるのですね」
「ちょっと、蛍火」
静かに、という仕草をされるけど、静かにじゃない。
一旦話をしようではないか。恒月国に連れて来られても、わたしの頭はまだついていっていないし、準備もできていない。
「すぐじゃなくても、いいんじゃない?」
「今日できることは今日するべきです」
「だから、連れて来られても心の準備ができてないんだって……」
「それは言葉通り気持ちの問題でしょう。物理的に無理な問題はありません。しかしまあ、多少時間は差し上げましょう。──おや、宗流いいところに」
「蛍火様、なぜここにいらっしゃるのです?」
わたしと蛍火が出て行こうとしているのは、西燕国にもあるように、内界と繋がる鏡のある宮だ。普段は管理している神子しかいない場所で、この国の神子である宗流が反対方向からやって来た。
宗流は、まず蛍火を見た時点で目を丸くして、それから、
「睡蓮様」
わたしを見て、ますます目を丸くした。
「これは、一体……いえ、以前であれば飽きるほど見た組み合わせですが」
飽きるほどとか言うなよ。
「特に、睡蓮様……」
わたしが来たことに、余程驚いているらしい。
そんな宗流に、「紫苑様に取り次ぎを」と蛍火が言う。
「紫苑様に。……ええっと、現在その組み合わせでのお越しでどのようなご用件でしょう。うちの主に、衝撃が生じないご用件であれば助かるのですが」
何を考えて言っているのか、宗流はわたしと蛍火を交互に見る。
どういう意味だろうとわたしが蛍火を見上げると、蛍火は神子の言に眉を上げた。
「宗苑様は
「いいえ。それが……お帰りになったかと思えば、睡蓮様は一緒ではない。睡蓮様を追いかけて行ったのでは、いいのかと聞くと、いいのだと仰る。なぜかと聞くと、睡蓮様は蛍火様といることにしたのだと仰る。え? でしたよ。落ち込んでいらっしゃってはいたのですが、振られたにしては意外と……落ち込みが足りないと言いますか」
何だろう、と宗流は言い表せない何かを表すように、手を動かす。
「紫苑様に元々女々しい気があるわけではないのですが、とにかく違和感がありまして。私としては気になって気になって仕方ないものの、聞くわけにもいかず、あれが見かけだけでそのうちがたが来るのが怖いなぁと思っていたところで……今です」
「なるほど」
蛍火は、ちょっと眉をぴくりと動かした。
「……全く、お二人して」
黒い目が、わたしを呆れたように流し見た。
「さて、宗流」
「はい」
「紫苑様に私が来たとだけ伝え、取り次ぎを」
「蛍火様のみ、で。睡蓮様は」
「決して言わずに」
「──承知致しました」
軽く一礼し、宗流はくるりと今来たばかりの方へ先に去っていった。
さて、残ったわたしはというと、蛍火に「どうして?」と聞いた。わたしのことは言わないの?
「多少時間は差し上げましょうと言いました。私が紫苑様と話している間にでも、覚悟なさってください」
「話するの?」
「はい。誘拐の件では焦らされましたからその意趣返しと、本題は──あなたに気にかけてもらえるのは、呆れながらも嬉しくもありますが、彼に気遣われるのは納得がいきませんので」
にこり、と蛍火は隙のない微笑み方をした。
どうしてかは分からないけど、蛍火の様子が切り替わった。
宮を出て、勝手に歩いていると、宗流が戻ってきた。
蛍火だけ紫苑の部屋に入るということで、わたしは部屋の前で蛍火を見送ることになった。
変な気分だ。すぐそこに、壁の向こうに紫苑がいるのに。
「『ご容赦を』ってどういう意味ですか?」
扉が閉まった廊下で、宗流が小声でわたしに尋ねた。
蛍火が部屋に入る前、わたしに向かって「ご容赦を」と言ったのだ。
「意趣返し、と何か関係があるのかも。紫苑に納得がいってないとも言ってたし……何か妙に『やる気』だったし……」
蛍火のあの様子は、相手に反論を許さないときに出している雰囲気と笑顔だった。昔、わたしもよくあの隙のない笑顔に言い勝つことができず、こてんぱんにされた。あの笑顔は、さながら鉄壁なのである。
「不穏な要素しか感じられないのですが。何するつもりですか。……頼むので、この国が止まらないような範囲にして下さい……」
宗流が祈り始めた。
廊下は、静かだ。元から騒がしくなるようなところではないだろうけれど、廊下まで人払いされたので、という理由が今はある。
扉の番が、扉のすぐ近くにいるわたしと宗流が代わりのようになっている。
「……睡蓮様、紫苑様を振ったのですよね」
また、小さな声が、わたしに話しかけた。
もちろん、宗流だ。
わたしが見上げると、宗流はわたしの答えを待たずして、「それも普通よりくるやり方をしましたね」と言った。
「普通よりくるやり方?」
「ただごめんなさいと言われるより、他の異性の側にいることにしたと言われる方が衝撃が大きくありませんか」
「……そうなの?」
「私の感覚的には。嫌い! とか言ったのですか」
「いや、紫苑のこと嫌いじゃないし……」
「ですよね」
ですよねぇ、と宗流は大いに首を傾げていたけれど、「ま、聞きますか」と音もなく扉に近づいた。
「そ、宗流?」
「蛍火様が聞いておいてもいいと仰ったでしょう」
「自己責任でってね」
「嫌な言葉ですねぇ」
それでも心配ですから、と彼は耳をそばだてて、わたしにも視線で中を示した。
わたしはちょっと迷ったけれど、蛍火が何の話をするつもりなのか、宗流の心配の様子を見ていると気になった。
音を立てないように、静かに宗流の隣に立って、扉の中に耳を澄ませる。……何だかいけないことをしているようだ。
「──世間話をしているような雰囲気でも私自身の気分でもないので、本題に入りましょうか」
部屋の中から聞こえてきたのは、蛍火の声だ。
「なぜ、睡蓮様が私の側にいるという言葉をそう簡単に受け入れたのですか」
いきなり、そんな言葉を耳にすることになって、息が止まりそうになった。
自己責任。蛍火が言っていった言葉が過る。
「結界を張り閉じ込め、あの指輪を嵌めたほどでしょう」
「だから無理矢理また戻して、無理矢理婚姻関係を結んでもおかしくはないと言いたいのか」
「少なくとも短時間で話がつき、その後接触を図ろうということもないのは、違和感を覚えるくらいには」
「……ああ、確かに。行動を思い返すと、それくらい思われるのは自業自得か」
ですねぇ、と言ったのは、わたしの隣の宗流だ。宗流、紫苑に聞こえる。わたしはすかさず静かに、と動作で示しておく。
「説得力が欠けようと言うが、あの状態が睡蓮の幸せにはならないだろうとは思っていた。それでもやっていた。拒絶されるなら離すしかない。受けいられる余地があるなら、そこに望みを見出だしたかった。だが今回に関しては、睡蓮がお前の側にいるつもりなら俺は引き下がるべきだと思っただけだ」
だから、指輪を外し、一人国へ戻った。
「俺は『その理由』を否定できない。もしも睡蓮の『理由』を無理やり曲げてまで、俺が睡蓮を頷かせることに成功していたとしても、睡蓮の中には『理由』が後悔として残り続けるだろう。──お前の納得できる理由に変換してやろうか。『お前という他の男の後悔』に気を引かれたままが嫌だった、だ」
「これはどうも。随分分かりやすくなりました」
「それは吐いた甲斐があった。言っておくが、諦めたつもりはない。待つ。それだけだ」
──「俺は、待っていても構わないか」と、指輪を外した後、紫苑が言った。何も答えられなかったわたしに、「睡蓮以外に伴侶と望む存在はいない。勝手に待つだけは許してくれ」と。
紫苑が本気なのは分かっていた。そして今、扉の向こうの揺るぎない言葉に、苦しくなる。わたしも『自業自得』だ。
「甘い」
そんな紫苑の言葉を、蛍火が切って捨てた。
「一度手を離したなら、私が睡蓮様の優しさにつけこんでそのまま一生離さなくとも文句は言えませんよ」
何を言っているのか。
宗流も目を見開くが、事実でも何でもない言葉に、わたしも目を丸くする。
部屋の向こうにいるはずの紫苑も、意表を突かれたように沈黙した。
「……敵になり得る奴なんていないと思っていたんだが、同じように長く時を生きる存在なら、神子がいたな」
「ようやくお気きづきのようで、おめでとうございます。六百年目に学ぶこともあるのですね」
蛍火は、たぶんすごく笑顔だ。声も穏やかそのものなのに、嫌味な雰囲気を漂わせられるのは何でだろうと思う。
「そうであったとしても、俺の行動は変わらない」
「私を哀れにでも思いましたか」
ふっ、と息を吐く気配がした気がした。
「睡蓮様の考えを尊重しているのはもちろんでしょうが、もしかするとと思って来てみれば、案の定引っかかりますね」
紫苑様、と蛍火は息をつくように呼びかけた。嫌味も、何の含みもない、単純に穏やかな声。
「誰でも、自分で望んであれほど長く仕えた主を殺したいとは思いません。私が睡蓮様を殺すことになったことに、同情のようなものを覚えているのでは?」
優しいまでの声が溶けるようになくなると、静寂が場を満たした。その静けさは、廊下まで支配する。
「……睡蓮に、自分を殺す役割をお前に頼んだと聞いたとき」
しばらくの沈黙の後だった。
蛍火は決して沈黙を破らず、破ったのは紫苑の方。
「睡蓮が死んだと聞いた日を思い出した。神子から訃報を聞き西燕国に行くと、睡蓮の遺体があった。──その傍らに立っているお前は、手が震え、涙を流していた」
「……おっと、それは不覚ですね」
「あなたにも見られていましたか」と、蛍火が自嘲するように笑ったのがわかった。初めて、隙を突かれてしまったような。
「長く仕えた主を殺したいとは思わないと、蛍火、お前は言った。その通りだろう。お前と睡蓮は長い付き合いがあり、その関係が良いものであったことは誰の目にも明らかだった。だからこそ、その手で殺すことになったならどんな心地を覚えることになるのか。正直想像を絶する」
「『それならなぜ殺せたのか』、とは思わないのですか」
「『頼まれたからと言ってなぜ殺した』、『俺なら殺さなかった』。そんなことを言うのは簡単だ。だが、そうなってみなければ分からないことはある。睡蓮がなぜ死んだのか。俺には分からず、睡蓮を問い詰めたいときがあり、だが理由を知ってそんな気持ちは消えたようにな」
紫苑は、再会したわたしを閉じ込めた。けれど死んだ理由を聞いて受け入れ、変わらない言葉を伝えてくれながらも、蛍火の側にいくことも受け入れた。
どれだけ長く生きていても、精神年齢は絶えず老いていくなんていうことはない。それでも考え方や見方は歳月の分熟成されていくはずなのに、もっと長い時を知っているわたしより、紫苑の方がずっと『大人』だ。
「今回俺が再会したとき、睡蓮はすでに神子になっていた。お前と再会した後だった。睡蓮の理由を否定し説得すれば……睡蓮をお前から奪ってしまうような気がした」
「…………本当に、お二人共」
「……おい、どうしてそんなに呆れたように見られなくてはならないんだ」
「呆れているからですよ」
一時、紫苑の方に渡っていたその場の主導権を、蛍火が握り直したかに感じた。
「後から聞いただけの人に、知ったように気遣われたくはないですね。そのときどんな心地になったのか、そして今回再会してどれほどの得難さを感じたか。当然あなたには分かりません。あの日、あの場でのことは残念ながら私と睡蓮様のものです。あの場で感じたことが全て」
きっぱりと述べた蛍火は、「しかし」と続ける。
「互いに、かつて睡蓮様がいなくなってから二百年。その時だけは何の変わりもありません」
「蛍火……?」
紫苑が、怪訝そうな声を出した。
「前世今世を含めれば、私は完全に千年、彼女の側にいました。そして今回、奇跡のような再会が出来ました。私はそれでもう心残りはありません」
声が、心なしかさっきまでより近いような気がした。声が大きくされたのでは、ないようなのに、なぜだ。
「二百年前以前は別れが付き物だった紫苑様に、毎日側にいられる権利を譲って差し上げましょう」
かなりわざとそうな言い方の声は、やはりどんどん明瞭に聞こえるようになってきている。
これは──。
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