下
夕焼けの渡り廊下に呆れの沈黙が下りてしばらくしたあと。
「……
「……うん、そうだよ」
おそるおそるといったふうの天崎さんに隠す必要も感じず、僕は素直に頷いた。
一年のときから、
けど想いを自覚してからも、力ずくは性に合わないしふられるだけだと思ったから、僕なりにゆっくりと距離を縮めていこうとしていたんだ。
――――そう、きっとあと少しだったんだ。
「告白した?」
「いや、してないし……多分もう無理だよ。さっき、斎内と仲直りするよう背中押してきたから」
「え……」
「殴りあったところにちょうど、水野さんが来たんだよ。それで、彼女が斎内をどやしつけているのを見て、ああもう無理だって思ってさ。ちゃんと話しあいなよって言って逃げてきたんだ。……だから、僕はお役御免だよ」
驚く天崎さんに、そう僕は肩をすくめてみせた。
自分でも馬鹿だと思う。でも、僕じゃ無理なんだろうなって思ったんだ。確かに水野さんは斎内に殴られた僕を庇ってくれたけど、そのときに何故だか確信した。二人のあいだに僕が割って入る余地はもうないって、不思議なほど素直に受け入れられた。
もちろん、未練がないと言ったら嘘になる。あんなヘタレ男と遠距離恋愛なんて、とも思うさ。けど、水野さんの目には幼馴染みしか映らないし、その幼馴染みも彼女に対しては忠犬なんだから仕方ない。叶わない恋にあがいて水野さんを困らせるつもりも、彼女との関係を壊すつもりもない。
――――それに、彼女が僕のことを特別だと思ってくれていたのがわかったから。だから、それで充分だ。
天崎さんは、顔をくしゃくしゃにゆがめると俯いた。鞄の取っ手やスカートをぎゅっと強く掴む。
それからもう一度、泣き笑いの表情で顔を上げた。
「私もね。……さっき、
「……!」
別れた? 天崎さんの告白に、僕は思わず目を見張った。
そうかもしれないと思わなかったわけじゃない。天崎さんの顔を見たとき、目もその周りも赤かったから、これはと一瞬、考えがよぎった。斎内の留学は明日だし、別れを切り出すには、最良じゃないけどまだましなタイミングだ。僕は、その帰りの斎内に出くわしたのかもしれない。
けど天崎さんのこの口ぶりからすると、天崎さんから別れを切り出したみたいだ。天崎さんが水野さんに申し訳なく思っているのは知っていたけど、僕には天崎さんの潔さが少し意外だった。
「桃矢君は、私のことを大事にしようとしてくれたよ。私に留学のことを話してくれてからも、別れようって言わなかったし。家にも呼んでくれて……ここ一ヶ月は特に優しくしてくれてたよ」
「……」
「でも、美伽ちゃんが桃矢君のことを好きなのは、桃矢君と付き合う前からわかってたもの。なのに私は桃矢君の悩みを聞いてほしいって美伽ちゃんに頼んで、そのせいで二人は喧嘩しちゃって…………私に悩みを打ち明けてくれなかった桃矢君が優しくなったのもつらかった」
「……」
「私、友達を踏み台にして幸せになろうとしてたの。でも、桃矢君は私のことを好きになってくれなかった。大切なことを相談してくれもしなかった。そんな無理した関係で遠距離恋愛なんて、絶対に無理だよ…………」
声を涙交じりで震わせ、天崎さんは緩々と首を振る。でも涙は流さない。そう心に強く決めていたのか、歯を食いしばって堪えている。
……………………。
僕は、雷に打たれたような、あるいは思いきり冷たい水をかけられたような気持ちになった。
この人は、なんて――――――――
気づけば僕は、口を開いていた。
「……君は何一つ間違ってないよ。君は去年の秋、気持ちを抑えられなくて斎内に告白したんだろう?」
「…………うん」
天崎さんは小さく頷く。だろうね。だから天崎さんは、ずっと苦しんだのだろうから。
「なら仕方ないよ。君がどういう言い方をしたとしても、君と付き合うことを決めたのは、斎内自身だ。その他のことも、何もかもね。自分で自滅の方向へ勝手に行った大馬鹿者だよ、斎内は」
「……」
「自分の行動が誰かを傷つけることも、自分が傷つくこともわかっていて、それでも君は自分に正直だったし、暴走もしなかった。それは勇気や理性が要ることだし……正しくはないのかもしれないけど、悪いことじゃないよ。誰にだって……君自身にだって君を責める資格はないよ」
天崎さんの行動が水野さんと斎内の関係に大きな変化を与えたのは、紛れもない事実だ。でも、だからといって天崎さんが告白しちゃいけない理由にはならない。彼女が二人の仲の良さを知るたびに胸を痛めていただろうことは想像に難くないし。他人を巻き込んでまで自分の気持ちに区切りをつけようとするななんて、誰にも言えるわけがない。
…………ああ、だから僕はさっき、天崎さんに感動したのかな。
天崎さんは、僕が選ばなかった道を選んだ。友達や好きな人の気持ちを知っていてなお、彼女は自分の気持ちを大切にして、自分の恋を自分自身で動かしも終わらせもした。……僕と同じようでいて、全然違う。天崎さんのほうがずっとすごい。
やっぱり、もう一発斎内を殴っておけばよかったかな。水野さんをあんなにも、天崎さんをこんなにも悩ませ苦しませたんだから。優しい女の子を守るのが、男ってものだろう?
つい、不穏な呟きが僕の心の内にこぼれた。でもこれは当然のはずだ。うん。
「…………美伽ちゃんが前みたいに明るくなった理由、わかった」
ぽつりと天崎さんは言った。
「どうして美伽ちゃんは、倉本君を好きにならなかったんだろうね。こんなに倉本君は優しくて、美伽ちゃんに寄り添ってくれてたのに」
「嬉しいことを言ってくれるね、天崎さん。水野さんにはさんざん、悪魔とか意地悪とか言われたんだけど」
「それは美伽ちゃんをいっぱいからかってたからでしょう? 倉本君、すっごく楽しそうだったよね」
「あはは」
少しだけ呆れたふうで天崎さんは言う。でも仕方ないよ。水野さんはよく表情が変わるし、黙ってるけど僕のことを意地悪とか悪魔とか思ってそうだし、反応も面白いし。それに、好きな子に意地悪したくなるのは当然のことだろう?
まったくもう、と息をついた天崎さんは、音楽科校舎のほうを向いた。きっとその視線には、僕らの教室――――彼女が自分の恋を終わらせた場所が映っているんだろう。
スマホに入れてあった水野さんの写真は、さっき完全に削除した。天崎さんは斎内を名前で呼ぶことをやめた。だって僕らにそれらはもう必要ない。要らないものは、捨てなくちゃ。
「……美伽ちゃんと斎内君、上手くいくよね」
「いってくれないと困るよ。僕らが背中押してあげたんだから」
顔を見合わせ、僕と天崎さんはそうだね、と小さく笑いあった。
メフィストフェレスが奏でるヴァイオリンの旋律は軽やかかつ愉快で、村の居酒屋にいる人々を楽しませる。その旋律に酔ったファウスト博士は村の女と共に森へ行き、星空の下で夜を過ごす。
けれどメフィストフェレスは所詮、悪魔。悪魔にできるのは、人間をそそのかし、たぶらかすことだけ。そばにいたいと望んだ人間の想いを手に入れることは、できない。
だから、ほんのひとときだけでも手に入れることができた幸せな記憶に縋る。幸福な人間を眺めながら、自分が幸福だった時間に一人きりで浸るのだ。
悪魔のヴァイオリン 星 霄華 @seisyouka
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