第4話 地下鉄
『来週、学会でワシントンに行きます。ニューヨークにも寄ります。橘先生に直接お会いして、研究についてお話しさせて頂けないでしょうか』
高橋さんからのメールに瑞樹は戸惑った様子だったが、「断れないな」、と面会する日時を決めた。
そして翌週、学会最終日。
(今頃、高橋さんと会っている頃ね)
そう思いながら、屋台で買ってきたモロッコ風ハンバーガーを頬張っていた時だった。電話が鳴り、私は、ケチャップと肉汁でベトベトになっている手と口を慌てて拭いた。
『美緒? 高橋さん、この後ニューヨークに移動するって言うから、夕食、うちで一緒にいい?』
「え? そうなの? いいけど」
ずいぶん急な話だ。
『ありがとう。じゃあ、後で』
話が盛り上がって、時間が足りなかったのだろうか。夕食は――パスタとグラタン、デザートはマジックケーキにしよう。
午後七時。帰宅した瑞樹が私に高橋さんを紹介すると、彼は恐縮した様子で頭を下げた。
「すみません、急にお邪魔して」
「いえ、そんな。わざわざお越し頂いて嬉しいです」
「これ、お土産頂いたよ。美緒の大好物」
瑞樹が差し出した紙袋には、「桔梗信玄餅」が入っていた。数あるお土産の中からこれを選んでくれたとは……! 高橋さんの好感度が一気に上がった。
実際、高橋さんは好青年だった。私が作った料理をどれも「美味しいです」と褒めてくれたし、会話の内容も、私(=経済学の素人)への配慮が感じられた。
「高橋さんて、もっと押しの強いタイプかと思っていました」
「美緒」
たしなめるような瑞樹の口調。まずい、つい口が滑った。
「すみません。夫へのメール、思い切ったことをするなと」
高橋さんは苦笑した。
「失礼なのは承知していたんですが、どうしてもお会いしたくて。僕の指導教授は定年間近なんですが、体調を崩して入院していて。今回の論文について意見をもらうのは、難しい状況でした」
「まあ。大変でしたね」
「本で読べたり、他の研究者がウェブで公開しているプログラムを研究して頑張ってはみたんですけど、やっぱり限界はあって。それに、身近で同じテーマに関心がある人がいないんです。相談できる相手がいたら、と心底思いました」
「それで夫に?」
「はい。以前から橘先生のことは存じ上げていたんですが、今回、僕と同じテーマの論文を書かれていることを知りまして。拝読して、隙がなくてさすがだなと思いました。それで、是非お会いして、このテーマの米国での研究動向など、教えて頂けたらと思ったんです。色々アドバイスを頂けて、すごく参考になりました。ありがとうございました」
高橋さんは、また頭を下げた。
数日後の日曜日、高橋さんの帰国前日。私達は、朝から街歩きに出かけた。いくつか観光名所を巡り、遅めの昼食にロブスターロールを食べ、夕食の材料を買って地下鉄に乗った。
「ニューヨークの地下鉄って、お金を稼ぐために乗ってくる人がいるんですね。僕、昨日すごいの見たんですよ」
「どんな?」
「ポールダンスです(※1)」
「あれはすごいよな」
私達も遭遇したことがある。地下鉄のポールを使ってアクロバットを披露するのだ。乗客に大ウケで、パフォーマーは、一駅で三十ドルは稼いだように見えた。
「あの人も、何かのパフォーマンスですかね?」
囁くように言った高橋さんが視線を向けたその先には、黑のブリーフにコートを羽織っただけの男性が立っていた。ギリシャ彫刻のような腹筋に引き締まった脚、金髪碧眼の整った顔立ち……あれ?
「アレックス?」
「ミオ! ミズキ!」
アレックスは瑞樹の旧友で、頻繁に、うちにご飯を食べにくる。一流大学出身のMBAホルダーである彼は、シルバーマンサックスを退職後、ロースクールで勉強中だ。
「二人の友達? 初めまして、僕はアレックス」
アレックスは近づいてくると、高橋さんに握手を求めた。
「高橋亮です。あの……失礼ですが、どうしてその恰好なんですか?」
戸惑う高橋さんに、アレックスは余裕の笑みをかました。
「今日は、No Pants Subway Ride なんだ。ズボンをはかずに地下鉄に乗ろうっていうイベント(※2)。年一回、一月に開催される」
――すっかり忘れていた。車両を見回すと、ボトムスを着用していない男女が数名、ごく自然な様子で周囲に溶け込んでいる。
「でもみんな、上はちゃんと着てるよな。アレックス、寒くない?」
瑞樹の指摘通り、他の人たちは上は普通の服装だ。スーツにネクタイの紳士もいる。
「大丈夫」
「アレックスは、ジョギングの時も上半身裸だもんね」
「さすがに真冬は着るけどね。どう、三人も一緒に?」
「無理」と断った私の横で、高橋さんが「面白そうですね」と返した。意外な反応だ。
「あっ、でも僕がここで脱いだら、美緒さんに失礼ですね」
「ミズキは?」
「そうだな……。美緒が隣の車両に行ってくれたら」
瑞樹がちらりと私を見た。
「なんで⁉ 私も一緒にいたいし、見たい。写真、撮ってあげる」
「嫌だ。恥ずかしい」
ええっ? 夫婦なのに?
「僕も、美緒さんがいたら抵抗あります。すみません……」
高橋さんまで。
「仕方ない。ミオ、あっちに行ってて」
「えー」
渋る私にかまわず、アレックスが瑞樹と高橋さんに指示を出す。
「いいか? あくまで自然体だ。すっと脱いで、何食わぬ顔で乗車を続ける。目的地についたら、速やかに降りる」
二人は「わかった」と頷いた。そして私が隣の車両に移った直後、作戦は決行された。
自宅の最寄り駅で電車を降りると、瑞樹と高橋さんは楽しそうに笑った。アレックスはまだパンツだが、二人はもうズボンをはいていた。その夜は四人で、遅くまで飲んだ。
その後、瑞樹と高橋さんは頻繁に連絡を取り合っている。
「共同研究するかどうかはわからない。いろいろ情報交換して、お互いに興味が一致したら」と瑞樹は言っているが、一緒に論文を書きはじめるのは時間の問題だろう。すでに同じ内容の論文を書いているほどだ、興味が合わない方がおかしい。
現在、一流紙では八~九割ほどを共著論文が占めており、瑞樹もすでに何人かの研究者と共同で論文を発表している。それらの研究者と比べても高橋さんは、特に瑞樹と相性が良さそうに見える。
これは私の直感だが、ひたむきさと大胆さを併せ持つ高橋さんは、どんどん伸びそうな気がするのだ。二人はこれから、お互いに良い影響を与え合うに違いない。
(了)
――――
※1 New York's Incredible Subway Dancers
https://youtu.be/RXR1AojWh40
車内でのパフォーマンスは他の乗客へ迷惑がかかることから許可されていない。
https://newyork.keizai.biz/headline/1361/ (ニューヨーク経済新聞、2015年1月31日)
※2 No Pants Subway Ride 2018 - Official Video
https://youtu.be/ceBYPtFewFQ?list=PL04BB57CAC423416E
気分転換しよう オレンジ11 @orange11
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます