第3話 気分転換に成功。そして瑞樹は高橋さんの論文を熟読する。

「咲ちゃん、大興奮だったな」


「ずっと身を乗り出して観てたもんね」


「表情がくるくる変わって、ミュージカルより咲ちゃんを観てる方が楽しいくらいだった。それにしても、驚くときの仕草とか、すっかりアメリカンになったよな。子どもって、信じられないほど適応が早い」


 瑞樹は笑って、ルートビアを飲んだ。湿布の味がする奇妙な飲み物。

 ここは近所のパブ。咲ちゃんを自宅に送り届けた後、二人で入った。土曜の夜、十一時過ぎ。ほぼ満席の店内は、音楽と人々の話し声が渦巻いている。たまになら、こういう喧噪も心地よい。


 『Frozen』は素晴らしかった。歌と踊り、そして舞台と客席が一体となった夢の世界。そして瑞樹と私が何より楽しかったのは、咲ちゃんの反応だ。

 

 私達の間にちょこんと座った咲ちゃんは、ミュージカル初体験。時おり英語で何やら呟きながら(英語で観たり読んだりすると、感想も英語になってしまうそうだ)、笑ったり息を呑んだり。とにかくかわいかった。




「今日は楽しかった。いい気分転換になった。ありがとう」


「だったら良かった」


「帰ったら、じっくり高橋さんの論文を読む」


「……まだ、ちゃんと読んでなかったの?」


「うん。彼の作ったモデルに圧倒されて、そこから先は目が泳いだ」


「ねえ、ちょっと聞きたいんだけど」


「何?」


「瑞樹と高橋さんの論文は、すごく似てるんだよね? 使っているモデルが違っても、そうなんだよね?」


「そう。詳しく説明すると一言では言えないんだけど、つまり、そういうこと」


「じゃあ、瑞樹の論文の方が早く学術雑誌に載れば、問題は解決? 今はまだ、瑞樹も高橋さんも、該当の論文をワーキングペーパーに載せた段階でしょ? それで瑞樹の論文は、間もなく改稿が終わって、雑誌投稿用の最終版が仕上がるんだよね? じゃあ、もし高橋さんの論文完成にまだ時間がかかるってわかったら、心配はいらないんじゃない? 瑞樹の方が、早く掲載されるでしょ?」


「……どうやって高橋さんの状況を知るわけ?」


「本人に聞けば? メールアドレスは公開されてるし、来週の学会に来るんだよね? 瑞樹も出席するんでしょ、発表はしないけど。だったら会えるじゃない。高橋さんだって、気にしてるかもしれないよ。ついでに、高橋さんがどの雑誌に投稿予定かもきいてみれば? 瑞樹よく言ってるじゃない、『ランクの高い雑誌に載るほどいい』って。もしかして高橋さん、瑞樹が狙ってるよりランクの低い雑誌に投稿するつもりかもよ? 聞いてみようよ」


「それはできない」


「なぜ?」


「俺が論文の執筆状況を日本の院生に確かめた、なんて、周りに知れたら笑いものにされかねない」


「じゃあどうするの。瑞樹の論文、書き直すの?」


「高橋さんの論文を読んでから考える」




 さて翌朝。私を起こしに来たはずの瑞樹は、そのままベッドに潜り込んで私の方に体を向けた。すっきりした表情だ。


「論文、大丈夫だった。俺のはこのまま完成させて、投稿する」


「あんなに悩んでたのに?」


「うん。落ち着いて読んだら、高橋さんは詰めが甘かった」


 瑞樹が「ふふ」と笑った。


「楽しそうだね」


「まあね。高橋さんには可哀想だけど、今回は俺の勝ちだ」


 よほど嬉しかったのだろう、それからしばらく瑞樹は、高橋さんの論文のどこが悪いのかについて、語ってきかせてくれた。


「彼は確かに、俺にはできなかった新しい手法を使っている。でも、分析が荒いんだ。結果が現実の事象とかけ離れている。あの計算結果を導き出すだけのプログラムを書いたのは称賛に値するけど、いくら計算をうまくまとめて正しい分析結果を出しても、それだけじゃだめ。現実世界と整合性がないと」


「そう。なんだか難しいね」


 専門的な話は理解するのが大変だ。ひと口に「経済学」と言っても、分野によってやっていることは大きく異なる。瑞樹の分野は大量のデータや数学的な処理を多用するので、素人にはなおさらチンプンカンプンなのだ。


「つまり、高橋さんは解釈がまだまだ甘いってこと。所詮、院生だな。この程度の出来の論文なら、もしランクの高い雑誌に投稿しても、修正依頼がきて対応するのに時間がかかる(※)。逆にランクの低い雑誌に投稿すれば、掲載は早いかも知れないけれど、業績としてはさほど評価されない。どっちにしても、今回は俺の勝ち」


「わあ、良かったね!」


 私は思わず、瑞樹の首に腕を回して抱き着いた。さすが私の夫。


「でも、どうして修正依頼が出されるってわかったの?」


「もし自分が論文の審査を担当するなら、ここが足りないなっていう部分が沢山あったから」


「じゃあどうして、高橋さんの先生は指摘しなかったのかしら?」


「……それはよくわからない。高橋さんの指導教授が、細かく指導するタイプじゃないとか、忙しすぎるとか……」


「ふうん。高橋さん、それはちょっと気の毒ね。瑞樹、高橋さんにどこを直せばいいか、教えてあげれば?」


「やだよ。面識ないし」


 意外と心が狭いんだな。


「瑞樹の論文は? その、現実の事象と何とか、っていうのはクリアしてるのね? 修正なしで、高橋さんよりいい論文なのね?」


「もちろん。論文の内容はかぶってるけど、結果の現実へのフィットは俺の方がずっと優れているし、分析結果の説明も上手くいっていると思う。だから今の内容を変えずにまとめて、このまま投稿する」


 そこまで話すと、「少し眠る。十時になったら起こして」と言って瑞樹は目を閉じた。



 これで「論文かぶり問題」は無事解決したはずだった。だが事態はこの夜、新たな局面を迎えた。高橋さんから瑞樹にメールが送られてきたのだ。



(続く)


 ――――

 ※ 一流紙の場合は論文の投稿数が多いため、査読者が審査する前に、編集者の判断によってリジェクトされることがある。もし論文が査読者の審査に回されれば、数か月後に、論文の評価が投稿者に返される。


 評価の種類は主に四つ。

 1.修正なしで掲載可

 2.かなり有望(少しの修正をすれば掲載可)。この場合、査読者がどこを修正すべきかコメントをくれる。

 3.大幅な修正要求(修正したからといって掲載されるとは限らないがチャンスは与える、というレベル)。査読者がどこを修正すべきかコメントをくれる。

 4.リジェクト(掲載不可)。どこがダメなのか理由は教えてくれる。


 なお、基本的に査読者は匿名、無料で論文の査読を引き受けている。雑誌によっては、査読者名簿を掲載する、優良な査読者を表彰する、などをおこなっているものもある。

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