気分転換しよう

オレンジ11

第1話 買い物と料理

 夫の瑞樹が職場から電話をかけてきたのは、午後四時を回った頃だった。道路を挟んで建っているレンガ造りのアパートに反射する西日で、室内がほんのりとオレンジ色を帯びている。


『今日、早く帰ろうと思うんだけど。美緒、もう夕食の準備してる?』


「まだ何も」


『じゃあ俺が作っていい? 材料は適当に買って帰る』


「もちろんいいよ。ありがとう」


 私はうきうきした気分で受話器を置いた。瑞樹は料理がうまい。アメリカに引っ越してからは私が専業主婦になったので、彼が料理をすることはほとんどないのだけれど。それでもたまにこうして、美味しいものを食べさせてくれる。楽しい金曜の夜になりそうだ。



 帰宅した瑞樹は、手際よく調理を進めていった。カリフラワー・カニ缶・キュウリのピクルスのみじん切りをマヨネーズで和えたサラダ、グリルしたズッキーニ・マッシュルーム・玉ねぎ、そしてステーキ(部位はリブアイ)。所要時間三十分。あっという間にテーブルにごちそうが並んだ。


「瑞樹、私より料理上手いよね」


「そう?」


「うん。ステーキの焼き加減も完璧。私いつも、焦がしたり生焼けだったりするでしょ」


 言い訳させて頂くと、お肉の種類によって厚みや脂肪の量が違うので、オーブンの火加減をうまく調整するのが難しいのだ。


「美緒は大雑把だから」


 そう言われると反論のしようがない。


「ワイン飲む?」


「いらない」


「サラダ美味しいね。初めて食べた。どこで覚えたの?」


「……」


 テーブルの向かいに座る瑞樹は、フォークにカリフラワーを刺したまま、ぼんやりしている。


「ねえ」


「何?」


「話聞いてない」


「ごめん。何?」


「このサラダ、どこで覚えたの? ってきいたの」


「えーと、どこだったかな。大学のカフェテリアで食べたのかも?」


「ふうん」


 何か様子がおかしい。


 瑞樹はそれほどおしゃべりではないが、ちゃんと会話のキャッチボールはできるタイプだ。それなのに、今日はずいぶんと上の空。てっきり論文がいい感じで仕上がってご機嫌で帰宅かと思いきや、普段よりはるかに寡黙。これはもしや。


「……執筆中の論文に、何か問題でも?」


 恐る恐るきいてみた。


 経済学者の瑞樹にたまにやって来る苦難。それは研究論文の執筆が思うように進まないこと。アメリカの研究環境は競争が激しく、「Publish or perish(論文を出版せよ、さもなくば滅びよ)」という言葉さえあるほどだ。


 特に瑞樹のような、大学で教えてはいてもまだテニュア(※)を持っていない研究者にとっては、質の高い論文を専門紙に載せ、周囲に実力を知らしめることはキャリア形成に大きく関わる。


 だから大学での講義とその予習の時間以外は、ほぼ全て論文執筆に充てている。本人は研究が大好きだから、仕事であり趣味であり――人生そのものだともいえるのだが。だからそれがうまくいかないとなると、ストレスは相当なものだ。


「……」


 また沈黙。


「ねえ。先週、『今書いてる論文は完成間近だ』って言ってたよね?」


 だから今日はてっきり、完成祝いの楽しい夕食かと思っていたのに。


「うん」


 瑞樹は頷くと、力なく笑った。一体何なのだろう。気になる。


「じゃあ、どうしたの?」


「もうちょっと調べてから話す。ごちそうさま。部屋で仕事する。先に寝てていいよ」


 瑞樹は夕食を半分ほど残して席を立った。



 翌朝、目を覚ますと八時半だった。横にいる瑞樹を見ると、まだぐっすり眠っている。


(珍しいな。昨日は何時に眠ったんだろう?)


 土曜日でも五時には起きて、何かしら研究関係のことをこなすのが瑞樹の日課だ。そして七時ごろ、私を起こしてくれる。毎日そんな感じなので、結婚して以来、私は目覚ましをかけない女になってしまった。夫に起こしてもらうのは、なかなかに幸せなものなのだ。


 私が先に起きた時はどうするかって? もちろん、瑞樹を。彼がこうして遅くまで眠っている時は、睡眠が必要な理由があるからだ。


 

 瑞樹が起きてきたのは、私がパニーニを作っている最中だった。具は昨夜の残り物――カリフラワーサラダと、薄切りにしたステーキ&グリル野菜の二種類。それらをパンに挟んで専用の器具で焼けば、表面に焼き目のついたパニーニの出来上がり。


「それ、絶対美味しいよな。すごい贅沢パニーニ。美緒はそういう工夫が上手」


 あら、褒められた。横でコーヒーを淹れる準備を始めた瑞樹は、昨日より機嫌が良さそうに見える。


「問題は解決した?」


「してない」


 まだだめか。


「一体、何があったの?」


 少しの間の後、瑞樹は答えた。


「俺とほぼ同じ内容の論文を書いてる奴がいた」


 なんと。それは非常にまずい事態だ。昨日料理をしたのは、気分転換のためだったのか。


 瑞樹は火を止めるとドリップケトルを手にし、コーヒーサーバーにセットしたフィルターに、ゆっくりとお湯を注いだ。深みのある香りがキッチンに広がった。



(続く)


 

 ――――

 ※大学等の高等教育における教職員の終身雇用資格

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%82%A2


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