第2話 餃子、中華まん、ミュージカル

 瑞樹が落ち込んでいる時に私がしてあげられること。

 それは、気分転換に誘うことだ。起きている時間のほぼすべてを研究に捧げている瑞樹と違い、私は日々ニューヨークを満喫していて、楽しい場所をたくさん知っている。


「今夜、咲ちゃんとミュージカルに行くんだ。瑞樹も一緒にどう?」


「咲ちゃん預かる日だっけ」


「うん」


 咲ちゃんは同じアパートに住んでいる日本人の女の子で、小学三年生。ご両親は研究留学中の日本人医師。今夜彼らがパーティーに出かけるので、私が咲ちゃんのシッターを引き受けた。そのお礼にと、ブロードウェイのチケットを頂いたわけだ。「瑞樹先生の分も用意します」と言ってくれたが、さすがに悪いので断った。そこそこの席で観ようと思ったら、一人百ドルくらいかかるのが普通だ。


「何を観るの?」


「Frozen(※1)」


「好みとちょっと違うけど……まあ、いいか。お気楽で」


「じゃあ、瑞樹の当日券を買わないとだね。これからボックスオフィスに行こう」




 チケットは無事、並びの席を買うことができた。そして今、私達は中華街で餃子を食べている。このお店は私のお気に入りで、餃子が八個で四ドル。ムチムチの皮の中には餡と一緒にスープが包まれており、これが絶妙。水餃子はつるりん、焼き餃子はパリッ。今まで食べたどの餃子よりもおいしい。


「旨いな」


「でしょ。中華まんの買い出しついでに寄るお店なんだ」


「あの、六個五ドルのやつ?」


「そう」


 物価の高いニューヨークにおいて、中華まん一つ一ドル以下は破格だ。四畳ほどの狭い店内の棚に整然と積み上げられている六個パックの中華まんは、すぐ後ろの厨房で作られている様子で、いつも、ほぼ出来立てを買うことができる。


 生地は本格派でもち肌。しっとり、ふんわり、ずっしり。甘い香りが実に魅惑的。餡は、豚と白菜、鶏肉と玉ねぎ、カボチャをすりつぶしてバターと砂糖で味を付けたものなどがあって――語るときりがないのでこの辺にしておこう。


「ねえ、瑞樹。どうして論文完成直前まで、同じような論文を書いている人がいるのに気付かなかったの? まさかその人、盗作とか?」


「論理が飛躍しすぎ。盗作はない。問題設定は同じでも、手法は違うし」


「じゃあ、どうして?」


 研究は基本的に早い者勝ちだ。こういう事態を避けるために、どの研究者も論文執筆前に先行研究を徹底的に調査するし、執筆を開始した後も、常に情報収集は怠らない。瑞樹だっていつもそうしている。


「気付けなかったのは、著者が日本のT大の院生だから」


「何でT大の院生だと気付けないの? 雑誌に投稿するような研究成果って、早い段階でワーキングペーパーで公開してるんでしょ(※2)? 瑞樹いつも読んでるじゃない」


「T大のワーキングペーパーなんて、気にしてない」


「えっ」


 天下のT大に向かってなんという口を。だが瑞樹は平然と続けた。


「経済学はアメリカが主流だから、こっちのメジャーどころのワーキングペーパーだけ目を通してる」


「えー。瑞樹、日本の経済学会はノーマークなの?」


「うん。日本の大学所属で気になる研究者については、個別に動向を把握するようにはしてるけど。今回は、来週ワシントンで開催される学会のプログラムに彼の――高橋さんというのだけど――論文タイトルが掲載されていて、それで気付いた。もしかしてと思ってT大のワーキングペーパーで内容を確認したら、俺のとよく似た論文だったってわけ」


 なるほど。


 その「学会」というのは、有名な経済学会の年次総会のことだ。海外から参加する研究者も多い。研究発表だけではなく採用面接も行われ、研究者として就職を希望する院生たちも集まる。


「でもさっき、『問題設定は一緒だけど手法は違う』って言ってたよね。それならいいんじゃないの?」


「……高橋さんの手法の方が新しいんだ。まさに最先端って感じ。俺もそのつもりで書いてはいたんだけど――やられた」


 瑞樹は表情を曇らせ、箸を置いた。


 いけない。つい余計なことをきいてしまった。気分転換してもらうはずがこれでは逆効果だ。

 それにしてもなんということだ、日本の院生ごときに瑞樹が負けるだなんて。私の方が悔しくなってきた。何とか逆転する手段はないのだろうか。




 咲ちゃんは、五時に私達の部屋にやってきた。活発で物おじしないさん。今日は珍しく瑞樹がリビングにいるので、咲ちゃんは瑞樹にずっと話しかけている。オセロをしながら。そして肉まんとかぼちゃまんを食べながら。

「家族以外と日本語を話せると嬉しい」のだそうだ。咲ちゃんは晴れやかな笑顔で語った。「日本語で話せると、『仲間がいる』って感じがするんだ」。




 午後七時半。タイムズスクエアで地下鉄を降りて地上に出ると、ネオンサインと電光掲示板がまばゆいほどの光を放っていた。街が青白く発光している。そして道にあふれる観光客。


「わー、キラキラー! 見て、美緒さん! あの看板すごい!!」


 よそ見をしては立ち止まる咲ちゃんの手を引いて、私達は劇場へと急いだ。



(続く)


 ――――

 ※1 日本でも大ヒットした映画『アナと雪の女王(原題は"frozen")』のミュージカル。

 "Let it go" はこちらで視聴できます。三分十五秒過ぎの衣装替えがすごい。   https://youtu.be/Qofj8MKO6mk


 ※2 経済学における「ワーキングペーパー」とは、研究が最初にまとまった段階で論文を公にする媒体である。各大学や機関が発行している。経済学分野で有名なものは、NBER(the NATIONAL BUREAU of ECONOMIC RESEARCH)刊行のもの。https://www.nber.org/


 なお経済学においては、自作論文を最初にワーキングペーパーで発表し、その後さらに改訂したものを専門誌に投稿する。専門誌に掲載された段階で初めて、広く学術成果として認められる。


 本作では、瑞樹・高橋ともにワーキングペーパーに自作論文を掲載し、まもなく専門誌に投稿する予定、という状況である。投稿後、査読者からの修正要求に応じた後で掲載されることが多い。もっとも掲載不可の回答がくることも多く、その場合は、同じ論文をランクの落ちる専門誌に再投稿する。

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