先輩と前田

清水優輝

第1話 

金曜日の夜である。毎週のように同僚が食事へ行こうと人びとに声を掛けているが、女は一瞥もせず荷物を片付ける。仕事を定時で切り上げて駅へ向かった。年が明けて一段と寒さが厳しく、自然と歩く速度が上がる。上着のポケットに手を入れて歩く彼女の背筋は凛と伸び、女性にしては高い身長がさらに大きく見えた。手入れの行き届いたヒールは彼女の強さを象徴するようであった。女は迷いなく家のある方向とは反対に行く電車を待っていた。

 女の出身大学の最寄り駅で降りた。髪の毛を派手な色に染めた大学生の集団が卑猥な言葉を話しているのを気にも留めずに、女は慣れた足取りで狭い路地を歩く。繁華街では女に声をかける男がいたが、女が男を退けるには足を止める間でもなく睨むだけで十分であった。それほどに彼女の眼は鋭く、冷ややかであった。

 15分ほど歩いたところで古いマンションへ入っていく。1階の9番目の部屋。彼女は鞄から鍵を取り出して部屋へ入る。狭いワンルームのキッチンに一人の男が立っていた。

「先輩、お疲れ様です。もうできてますよ」

 線の細い、いかにも病弱そうな男はお皿に食事を盛り、ローテーブルに並べた。女は何も言わずに着ていたスーツを脱いでシャワーを浴びる。

 女は浴室から出ると、それが当然であるかのように下着姿のまま食事を取り始めた。男は女の向かいに正座して、視線のやり場に困っている。膝の上に置いた拳をぎゅっと固く握ったり、唾を飲み込んだり、また何かを言おうと口を開くもしばらくそのまま停止してから何も言わずに口を閉じたりと落ち着かない様子である。男の忙しない動向を無視し、女は黙々と男の作ったご飯を食べる。

 女は満足したのか、箸を置いた。そして女は家に来てから初めて男の顔を見て言った。

「服を脱いで」

 男は、瓜実顔の女にそのように言われると体に電気が走ったかのように爪先から頭の先まで一瞬で痺れあがる。怖くて目を逸らしたいのだが、蛇に睨まれた蛙のように男は女の鋭い眼に捕まってしまった。女の眼の中に燃える炎にヂリヂリと蝕まれてしまう。男は羞恥心を覚えながらも女に抗うことは決してできない。男は言われるがまま服を脱ぎ始め、トランクスだけとなったが女は強い口調で下着も脱ぎなさいと言うため、結局全裸にさせられてしまう。男はベッドの上で恥ずかしそうに膝を抱えて座った。

 男の体は酷く痩せており、骨の形状が露わになっている。女は浮き出た肋骨の一本一本を眺め、気持ち悪いと思う。女が気に入らないのは痩せた体だけではない。彼の汗臭さも気に入らない。何度言っても治らないため、男の体質に依るものなのだろう。もしくは、臭いと言われたいかのどちらかである。臭いと女が独り言のように呟くと、男の体がびくりと反応し、小さくすいませんと言った。男の心拍数があがる。体温があがる。部屋がむしむしと湿っている。 

 女はベッドの上で体育座りする男をたっぷりと眺めてから、おもむろに男の上に馬乗りになった。男は処女のようにいちいち小さく呻く。男の顔面を真上からじろじろとしつこく見つめて、女は部屋に来て初めて表情を崩した。ぐるぐると回る平静を欠いた男の眼球に映り出された彼女の微笑みは獲物をどのように食らおうか企む蜘蛛のようであった。

「先輩、フェイスブック見ました。婚約おめでとうございます。まさか今日来てくれるとは思いませんでした」

震えた声で男は言った。女が部屋に来るまでの間に何度も練習していた言葉だ。

「どうも」

不快だったのか、女の口元は《婚約》という言葉により一文字にきつく結ばれた。無表情になった女は男の脇腹を人差し指で上へ下へ撫でている。鳥肌が立つ男の肌は触り心地が悪い。指の動きに反応して男は時おり身体を震わせる。

「……結婚したらもう会えなくなりますよね」

「そうだろうね」

 女は全ての指の腹で男の肌を柔らかく愛撫し始めた。男の肉体にしか関心がないかのようだ。男の震えは大きくなり、声が漏れる。

「……ほ、本当に……結婚、する、んですか?」

 こんなことして……と尻すぼみで呟く。

「するよ。こうやって綺麗にしてみんなの前で幸せな花嫁さんになるの。小さい頃からの夢」

吐き捨てるようにそう言うと、女は手を止めて自分のバッグから口紅を取りだした。そして再び男に馬乗りになり左手で強く顎を摑む。女は男の乾燥して荒れた唇に赤い口紅を塗り始めた。男には彼女の伏せた睫毛の一本一本が瑞々しく、意志を持って輝いて見える、そのきらめきを黙って見ていたら口紅を塗り終えた女が女の人差し指で男の唇に触れた。色を馴染ませるためであった。

 口紅を塗られ、不自然に色づけされた男の顔を醜い、気味が悪いと女は感じた。それはピエロのようだった。それから、彼女に幼いころの自分を思い出させた。女は母が家にいない時間にこっそり母の化粧台へ行き、美しい母を真似て口紅を塗った、鏡で見たその顔の醜さと言ったらなかった。まだ生れたてのままでスカートがめくれることも気にせず縦横無尽に野原を走ることができた頃、眉毛も産毛も手入れしたことがなかったその顔は醜いのだと知った瞬間であった。

 それを女は男の中に見ている。醜悪を見ている。男の潰れたニキビ跡、きっと高校になって部活動で汚らしく汗をかいて顔も洗わず朝起きたときにできたニキビが気になって潰してしまったのだろうそれらや、何度も雑に髭を剃るから傷ついてしまった肌、毛穴の開いた鼻。女は男の唇の皮を無理やり引っ張り剥がす。痛いと男が鳴く。女は耐えることができず、手を振りかぶり男の頰を強く叩いた。何度も打った。女は男の頬を打った。男は悲鳴を挙げるだけで何をされても無抵抗のまま女の平手が呼び起こす官能に喜んでいた。少しの悲しみを抱いて。

 女はビンタしながら話す。

「前田くんはさ、私の結婚式来たい?」

 男は答えられない。

「二次会で可愛い女の子紹介してあげるよ」

 男の顔は真っ赤になっている。

「嫉妬する前田くんの顔、見たいな。すっごくみじめだろうね」

 男は女の眼から一秒たりとも逃げることができなかった。



 女は着替えながら去年結婚した知人を思い出していた。彼女は背中が大きく開いた大胆なウエディングドレスを着ていた。余った肉がドレスに乗っかり、ドレスの中に詰め込まれた肉は今にもはち切れんばかりで、知人は終始苦しそうに笑顔を振りまいていた。その姿があまりにみっともなくて披露宴の後に参加した友だちと一緒に罵倒した、あのときの下衆な笑い声が今度はきっと私に降り注がれるであろう、と。

 男は不安そうに女の背中を見ている。

 女は着替えを終えると、男の方を向いた。そしてもういらないと言い、男の部屋の鍵を机の上に置いた。男は何も言わなかった。

 女は婚約者の待つ家へ帰り、職場の飲み会が長引いたと恋人に抱きついて話す、その一方で男はまだ女の眼に囚われたままベッドの上でうずくまっていた。






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先輩と前田 清水優輝 @shimizu_yuuki7

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