『追憶』


 目が覚めた時、幼い少年は見知らぬ森の中でうつ伏せになって倒れていた。

 意識が戻ると、まず風景に似つかわしくない焦げ臭さが鼻についた。火事という言葉が浮かんだ少年は、その場から逃げ出そうとする。

 しかし、どんなに力を入れても身体はビクとも動かなかった。

 ふと、自分の右目がまったく見えていないことに気づいた。何がどうなっているのか確かめようにも、手足は完全に力を失っている。

 恐怖のあまり誰かに助けを求めようにも、声がまるで出ない。

 いや、そもそも自分は一体どんな言葉を話していたのだろうか?

 それに、自分は一体何者なのだろうか?

 考えれば考える程、わからないことが増えてくる。頭だけがパニック状態になり、とにかく身体を揺らそうと試みるが、ほんの少し動けば御の字であった。

 そんな少年の耳に誰かが呼びかけられる声が聞こえた。絶望感に苛まれていた彼は少しだけ喜んだが、届いてくる言葉の意味はまるで理解できなかった。

 何でもいいから話せる言葉を思い出そうとする。しかし、脳内でいくらイメージしても、何かフィルターでもかけられたように判然としない。

 必死に声を出そうとする少年を他所に、駆け寄ってきたトレンチコートの男は、

軽く少年の容態を見ると、迷わずその小さな身体を抱き上げた。

「言いたいことは後で聞く。私の馴染みの診療所までそう時間はかからないはずだ。まずは死ぬんじゃない」

 その途端、少年の張り詰めていた気持ちがふと和らいだ。同時に身体のあちこちが自己主張するように激痛を発し始め、少年は意識を再び失った。




 ******




 パッチ・ウィンレッジが目を覚ましたのは、まだ陽も登らぬ深夜のことだった。夢の中では森に転がっていたが、今は住み慣れたアパートの自室でベッドに寝転んでいる。

 反射的にパッチは眼帯を外した右目に手を当てた。火傷で潰れたそれを無意識に触れた時は、自身が不安に苛まれている証拠だった。

 身体を起こして息を整えたパッチは、汗で急速に身体が冷えていくのを感じ、自嘲気味な笑みを浮かべた。

「毎年のこととはいえ、誕生日の度にこれでは困ってしまう」

 出自不明の少年だったパッチが保護され、ある男性の養子となってから、もう一〇年以上経つ。



 ******




 名無しの少年は、拾ってくれた初老の男性の元で保護され、そのまま引き取られることとなった。

 最初のうちは言葉がまるでわからず、保護者となった男は身振り手振りでいろんなことを教えた。

 半年間に及ぶ熱心な治療と指導により、少年はなんとか言葉を話し、理解できるようになった。最初に覚えたのは、自分を拾った恩人である、アルテム・ウィンレッジの名だった。

「君のことについては、本当に謎だらけなんだ。君の火傷の原因もわからなければ、何故あそこで爆発事故が起こったのかもわからない」

 魔術的な要因はまず疑われたが、どれだけ調査してもそれにまつわるものは見つからなかった。むしろ、少年の周りに飛び散っていた破片が鉄道の残骸だということがわかり、謎はより深まってしまった。

 少年の倒れていた地域に、鉄道にまつわる施設はほとんどない。町外れに駅はあるが森からはあまりにも遠かった。

 そもそも鉄道だとして、何故森の中で爆発させたのか、その意図を推測しづらかった。テロとして見るにしても、森に火事を起こすなら何も鉄道を使う意義は薄い。被害者は記憶も失った身元不明の少年一人だけである。

 しかも不思議なのは、破片を調べた結果わかった鉄道の部品は、この世界において一度として製造されたことの型のものだったのだ。

 結局、狂気に満ちた鉄道好きの技術者が、鉄道を自前で建造して試運転に息子を巻き込み、爆発させてしまったのだろうと結論付けられた。

 少年の戸籍が一切見つからなかったことで、警察は何か非人道な行動のために子供の出生を隠していたと推測した。その他の罪に問われることを恐れた家族は、死んだと思った息子を見捨てて逃げ出したのだ。

 ……というのが警察が導き出した最終的な結論であった。しかし、アルテムはまったく納得はしていなかった。

「あの残骸は客車のものだったし、そもそも丸ごと爆発したと見ると、破片の数が少なすぎる。もう少し調査し直してはくれませんか」

 抗弁したものの、他に物証も出なかったことから、ジョン・ドゥの事件は一応の幕引きとなった。

 全てが終わった後、これからどうすべきか悩んでいた少年に、アルテムは養子縁組の話を持ち込んできた。

 家族として面倒を見る傍ら、なんとしても本当の家族を見つけたいと語るアルテムの提案に、少年は頷いた。

「もし本当の家族が見つかった時は、後の人生は自分の意思で選んでくれていい。幸せに生きることができる道を」

 そう言われた少年は、まだ出会って半年も経たないアルテムの元を離れる気は、恐らく起きないだろうなと思いながら、また首を縦に振った。




 *******




 魔術精神科医、パッチ・ウィンレッジは電車を使わない。さりとて免許がないので車にも乗らない。遠出でタクシーを使う以外、乗り物とは縁のない人生を送ってきている。

 いつも自宅から職場まで歩いて通うと聞いて、彼を知る者達は皆揃って疑問を隠さない顔をする。

 車やタクシーならいざ知らず、どうして電車をも避けるのか。健康志向だとしても、少しやりすぎなようにも見えるだろう。

「先生はどうして電車を使わないんです?」

 助手のモアが、通勤途中で出会った際にふと尋ねてきた。彼女はその時、使っている地下鉄が人身事故により止まり、否応なしに歩かざるを得なくなったという。

 しかし、パッチは交通機関をあまり使わない。特に電車だけは例えどんな遠出であっても避ける。

「何を隠そう、僕はトレインアレルギーなんだ」

「へー、聞いたことないですねー。って、適当にごまかしてるでしょー!」

「そんなことはないよ。僕は生まれてこの方、鉄道に乗った経験は指折り数える程度しかない。電車に乗ろうとすると足が震え、無理に乗った時は吐いてしまった。お医様には乗り物酔いではなく、心因性のものだと診断された」

「スクール・トリップの時とかはどうしたんですか?」

「休むしかなかった。だから僕は、幼い頃からの友人には乏しくてね」

「そんなものですよー。私だって故郷にお友達なんてほとんどいませんし、いても連絡なんか取ってないですもーん」

「腰に手を当てて誇ることでもないがね」

 自嘲気味に語ったパッチは、もうその話はしたくないとばかりに机に向かって書類を確認し始めた。

 それが会話打ち切りの合図だと知っているモアは、少し顔を膨らませながら腕を組んだ。

「そういえば、そろそろ先生の誕生日ですね。いつもこの辺りになるとお休み取りますけど、どこか行っているんですか?」

「タクシーに乗って実家に帰るんだよ。父への報告もかねて」

「へぇ、というかタクシーなら大丈夫だったりするんですか?」

「正直、好きではないね、電車と比べれば大分マシなだけで。でも僕の実家くらいの遠出ともなると、筋肉痛を覚悟でタクシーに乗せてもらうしかないんだよ」

 腕の筋肉を揉む仕草をしながら、心底うんざりしたようなポーズをとるパッチ。すると、それを見たモアは目を輝かせ始めた。

「そのタクシー、今年は私も乗っていいですか?」

「僕だって、一人を嗜みたい時はある。故郷は落ち着くんだ」

「二人の方が楽しいですよ! もし吐いても、私がすぐフォローしますからー」

 強引にぐいぐいと詰め寄ってきたモアを見て、パッチは眼帯を爪で適当に引っかきながら、鼻から弱々しく息を吐きながら答えた。

「わかった、好きにしなさい。ただし同乗は拒否するし、僕の実家の住所も教える気はない」

「えー、そんなー。私は先生と一緒に旅したいだけなのに!」

 モアは両腕を無作為に振るいまくり、駄々っ子のように頬を膨らませた。苦笑いしながらそれを眺めていたパッチは、心底呆れたようにモアの鼻っ柱を指で押した。

「君ね、ただ好奇心で僕の過去を知りたいだけだろう? それなら、自分なりに頑張って食らいついてみなさい。それに何より」

「何より?」

 鼻を押し潰されて変な声になりながらも聞き返すモアに、パッチは頭を掻きながら答える。

「エチケット袋に顔を突っ込む情けない姿は、君に見せたくないんだ。一応の上司として」




 ******




 パッチ・ウィンレッジとして生きるようになって、五年の歳月が流れた。

 すっかり今の生活と、右目を覆う眼帯への好奇の目に慣れた少年は、義父のアルテムとともに田舎町で静かに暮らしていた。

 パッチという名前の由来はとても単純で、眼帯……すなわちアイパッチから来ている。

 付け加えると、パッチのDNAを鑑定した結果、本和国もとわこくという東洋の島国出身の人間に近い遺伝子をしていることがわかった。実際、顔立ちも彼等に近いのだという。

 本和国には主人に忠節を尽くし、待ち続けた末に果てたハチという偉大な人物の逸話があるのだそうで、それにもあやかって、もし旅行する際はハチと名乗るといいとも言われていた。

 このアイアリカの言語を覚えるのも大変だったのに、そんな島国の言葉など覚えていられないとパッチは苦笑いした。




 ある時、初等過程の修了前に、宿題として「将来の夢」というテーマで作文を出すように指示された。帰ってきたパッチは、すぐ義父であるアルテムの部屋に出向いて相談した。

「将来の夢はパッチ自身が考えなければ意味がないだろう」

「そう言われても、僕は自分に何ができるのか、まだ全然わからない」

 低年齢層向けの職業解説本を開きながら、パッチは文字通り頭を抱えた。

 人の倍は勉強して、パッチは自分が住む国の良識、そして義務教育において必要な教科を必死に学んだ。遊ぶ暇などまったくなく、学校ではガリ勉として、眼帯も含めてよくからかわれた。

 パッチは勉強漬けではあったが、肝心な知識がすっぽ抜けていたり、言葉の選択を間違えたりとまだまだ不安定だった。

「夢を見るのにまず必要なのは、希望だ。可不可は関係しない。興味のある仕事はないのかい?」

「そうだなぁ、お医者さんかな」

「お医者様か、それはどうして?」

 と問いかけるアルテムに、パッチは自分のトレードマークとされた眼帯を撫でながら答える。

「病院で入院している時、お医者さんや看護師さんと話していると落ち着いたんだ。父さん以外に安心できる人達は他にいなかったから、不思議な気持ちでね。そういう仕事を頑張っている人って、すごいなと思うんだ」

「いいじゃないか、仕事の素晴らしさを見つける、それも一つの才能だ」

「だけど、この目じゃきっと無理だよね」

 少し淋しげな様子で眼帯を擦るパッチに、アルテムは声をかけようとしたが、それより先に彼は気を取り直した。

「だけど僕は、魔術の勉強ももっとちゃんとしたいなって思ってるんだ。父さんに教えてもらった魔術が、人の役に立てればなって」

 苦笑いしながら「まだ全然使いこなせてないけどね」とパッチは自嘲した。

 それを見てしばし考え込んでいたアルテムは、何かを思い立ったように本棚へと足を向け、やがて一冊の本を取り出した。

 まだ中等学校にも上がっていない子供には難しそうな本を前にして、パッチはその意図を探るように義父の顔を覗き込んだ。

「この本をしばらくパッチに預けよう。粗末に扱わなければ好きに使ってくれていい。その本から何か己の道を見出してくれることを祈る」

 と言って、アルテムは夕食を作るからと自室を出た。パッチが本に目を落とすと、心の魔術師というタイトルが記されていた。




 ******




「お客さん、着いたよ。おーいお客さん、生きてるか?」

 と、声をかけられてパッチはようやく目を覚ました。車から漂う独特の匂いが、寝ぼけ眼のパッチへ毒のように染みてくる。

 眠っていたのか気絶していたのか、それは定かではないが、目的地に着いたパッチは安定しない足取りで、車から降りた。レモンカラーの車体と案内表記を見て、自分はタクシーを拾って故郷に向かっていたことを思い出す。見渡すとそこは、見覚えのある小さな町並みが広がっている。

「絶叫マシーンよりはずっと安全な運転だったと、自負してるつもりだがね」

 トランクから荷物を投げ出しながら、運転手は皮肉を投げつけた。

 確か出発しようとした時、これみよがしに身体を強張らせてしまったから、運転手を大層不快な気持ちにさせたのだった。

 これからは事情を知る人間に連れてきてもらう方がいいかと思いつつ、パッチは感謝と詫びを兼ねて少しだけチップを弾みつつ、運賃を渡した。

 タクシーを見送ると、早速義父と自分がかつて住んでいた住居へと旅行カバンを引いていく。それを見た町の人達は、何人かがパッチの存在に気づいて手を振ってくれた。




 ウィンレッジ邸は、パッチが今住んでいるアパートとは違って、大きな屋敷である。アルテムが生涯研究を続けつつ、小さな家族を育んだ拠点となった邸宅は、今でもかつての綺麗な外観を保っていた。

 パッチは、維持費の捻出に悩んでこの屋敷と土地を売り払うことを考えていた。しかし、それに弟子筋の人間の多くが待ったをかけた。

 まず、この屋敷そのものが研究に纏わる資料の保管庫となっており、別の施設に移転するには相応のコストがかかるため、それを抑えたいとのことだった。そしてこの田舎町の奥地に設立した研究施設とは距離も近く、仮宿としても最適な環境であった。思い出深い邸宅を手放すのは忍びないという者も居た。

 各々の理由から、弟子達は所有権を相続したパッチに、保全を持ちかけた。

「維持費を負担してくれて、有事には僕もこの家を使えるよう取り計らって頂ければ」

 とやや図々しい条件をダメ元で突きつけると、相手方はそれくらいで良ければと喜んで応じてくれた。

 パッチは都会に住んでいるため、滅多にこの家には帰れない。よって今やここは他人の家という感覚になりつつある。

 それでも、屋敷を前にすると生前の父との思い出は嫌でも蘇ってくる。思い出と共に郷里の空気を深く吸い込んでいると、隣の家からセーターを着た中年女性が出てきて、パッチに駆け寄ってきた。

「まあまあ、おかえりなさいパッチ! また大きくなって、あらまあ」

「せいぜい半年ぶりだよマリーさん。成長期でもない僕が半年程度で劇的に背が伸びるわけがない。ああ、もしかして横に広がったかな?」

「あなたはね、むしろもう少し恰幅を良くしないとダメよ。風で飛ばされてやしないか、私は心配で仕方ないよ」

 と、肩を豪快に叩かれたパッチはよろめいてしまった。

 再会を喜んでいたマリーだったが、ふと我に返ったように目を見開いた。

「そうだ思い出した。ねえ気をつけなさいな。今朝ね、十数年前の事件の場所について、うちに訪ねてきた人がいたのよ!」

「事件って、もしかして僕の事件のこと?」

 マリーは頷いて肯定すると、目を細めながら耳打ちをしてきた。

「ダッフルコート着た若い女だったんだけどね。眼鏡かけてなんか学者ぶった雰囲気で、喋り方はちょっと子供っぽかったわね。知り合いだからって言うからつい教えちゃったけど、まずかったかしら?」

 バツが悪そうに尋ねてきたマリーに、パッチは頭を抑えて首を横に振った。

「いえいえご心配なく。招かれざる客であることに違いはないけれど、僕の同僚だから。ちょっとその人を見てくるから、時間あったら荷物をうちの奥に置いてくれるとありがたいんですが」

 口の軽い隣人は、罪悪感からか二つ返事で承諾し、合鍵とともにカートを受け取った。パッチは着ていたコートを整えると、森の方へと足を進めた。昨日の今日でどうやって自分より先んじてここに辿り着いたのか、その理由を考察しながら。




 ******




 パッチがメディカルスクールに通うようになると、彼は住み慣れた屋敷から離れて都会で暮らすようになっていた。

 しかし、父親への思いを捨てきれないパッチは、長期の休みが取れるとすぐに故郷へと戻っていた。

「苦手な車を使って移動するなら、旅行でもすればいいじゃないか」

 安楽椅子で本を読みながら、アルテムが告げた。身体を強張らせて車に乗ってきたせいでパッチは、ソファーでぐったりとしている。

「いいんだよ僕にとっては。父さんとこうして語らっているだけで、気が安らぐんだ」

 と言いながら、パッチは図々しくソファーを占拠して横になる。あまりにも落ち着いた顔をしていたせいか、アルテムは思わず苦笑いした。

「これではまるで巣立ちに失敗した渡り鳥だな」

「僕が渡り鳥だとしたら、遠くへ渡る指名は果たしたよ。今は、帰郷してるだけ」

 里帰りをやめるつもりはないと断じるパッチの様子に、アルテムも諦めたのか何も言わなくなり、

「ところで父さん、それパラレルワールドの本? 懐かしいな、また僕の異界人説を唱えるつもりかい?」

「前にも言ったがパラレルワールドを研究している人間は決して少なくない。だからパッチの謎に包まれた出自に飛びついたのだからね」

 パッチが見つかった出会った時、着ていた服に記してあったブランド名や会社の住所は、この世界に存在しないものであった。よって身元確認の手がかりになりそうな購入店はおろか、生産地までも割り出せない状態に陥ってしまった。実際、その線での身元捜査は早々と打ち切られた。

 パッチがどこからやってきたのかについては、未だに謎だらけである。手がかりが全て役に立たないとなると、パラレルワールドという空想物語に片足を突っ込んだ説を持ち出したくなるのも仕方ない。

「この説を鼻で笑うのは早計だよ。オカルトの領域に踏み込んでいるのは否定しないが、魔術は時として人の認識を越えた作用を引き起こすものだからね」

 そもそも魔術自体、人の基本的な能力だけでは成せない芸当を成すものである。炎を出したり、稲妻を走らせたり、局地的な風を起こしたり、その手段は様々だが、本来なら人智を超えた力と言える。

 それでも魔術は万能ではない。ファンタジー作品のようにワープはできないし、箒どころか人が空を飛ぶ術もまだ研究段階だ。ましてや、存在するかもわからない世界を繋いで人を移動させるなど、三流のエセマジシャンでも使わないネタである。

「なんで急にまたそんな話を」

「私は、親として見れば決して若くない。出自不明のお前には、社会人になった後も支える人間が不可欠だろう。しかし、老い先短い私にそれは務まらないだろう」

「まだ孫を愛でて絵になる年じゃないよ。僕にもまだ春は訪れないし、何を弱気になってるの」

 パッチは冗談を返したが、改めて向き合う父の顔は、どこか晴れないように見えた。

「いいや、特に何かあったわけじゃないんだ。ただ漠然とした不安があるだけでね。だから、まともに意識があるうちに本当の家族と引き合わせたいと思っている。そのためなら異界を飛ぶ冒険者にでもなるさ」

「それこそ父さんには似合わない。そもそも僕はもう、アルテム・ウィンレッジの子だ。何かあれば全て僕の責任だ」

 それはパッチの本当の願いだった。身寄りもなければ生まれも育ちもわからない子供を引き取り、育ててきれくれた父は、例え血が繋がらなかろうが当人にとっては既に本物なのである。

 父親が自分のことで悩んでいるのだとしたら、パッチにとってはこれ以上に不本意なことはない。

「父さんは自分のライフワークにだけリソースを割いて欲しい。必要になったら、自分で調べるから」

「だが、己の過去に興味がないわけではないだろう?」

 父の問いかけに、パッチは軽く頷く。

「ただ、僕の人生の中では、優先順位がとても低いんだ。敬愛する父さんのことと天秤にかけたら、些事だよ。例えば、今日の夕飯のこととかね」

 と、パッチは話をやや強引に切り上げてから立ち上がり、エプロンを結ぶ仕種をしてみせるた。

「では本日は、異界より参じた不肖の息子が、夕飯を用意してみせましょう」

「普段、パッチがどんなものを食べているのか、確認させてもらうよ」

 本を閉じたアルテムは、少しよろけながらも微笑みを浮かべつつ、台所へ向かうパッチの後を追う。

 まだ父が本調子でないことが見て取れたパッチは、言い知れぬ不安に苛まれながらも、朗らかな笑顔で返した。




 翌日、パッチはマリーから何があったのかをさりげなく聞いた。お喋りな彼女は、あまり言い触らすことではないと前置きしつつも、古参の助手との関係があまり上手くいっていないからだということを、教えて食えた。

 パッチもその人物とはよく顔を合わせていたし、時に面倒を見てくれたこともあった。長い付き合いの相手と仲違いすると非常に拗れやすいのだが、何があったのか理由が見当たらない。

 詳しく聞いてみたいところだが、疲労感がありありと見て取れる父を目の当たりにすると、どうしてもできなかった。




 ******




 パッチが発見されたその事件に、名前は付いていない。警察がそこまで大きく報じなかったし、事件を嗅ぎつけたゴシップ誌やオカルト誌が名付けた名も定着しなかった。

 今やオカルト界隈において、真偽不明の都市伝説ということになっている。自分の存在は幻にされてしまったと思うと、苦笑いを禁じえない。

 しかし、現場は未だにぺんぺん草も生えない不毛の大地のままである。エイリアンの発着場などと記事で書かれていたが、今でも木々の葉はその地を覆い隠そうとはしてくれない。

 外野からは好き放題弄ばれているが、パッチにとってこの地は誕生の地である。ここで目覚める前のことは、ほぼ思い出せることがないからだ。

 そんな思い出深い地のど真ん中で、少女がうつ伏せになって倒れていた。ダッフルコートを着たまま、土に汚れることも厭わずに。

 胸が上下しているので死んでいないことはすぐにわかったし、遠目でもパッチにはそれが誰だかわかった。

「日光浴をするには最悪の立地だと思うんだがね」

「あ、先生、遅いですねー。私は今、当時の先生の気持ちになろうと、こうして実体験してみせているのです。ふんっ」

 助手のモアが、寝転びながら腕を組んでしたり顔になった。精神科医でありながら、この娘のことははっきりと読めた試しがない。わかりやすい感情を見せる時もあれば、こうして突拍子のないことをして、パッチを困らせようとする。

「当時の僕はうつ伏せだから、そこからして正確さに欠ける再現方法だね。どの雑誌に影響されたのか、丸わかりだよ、モア」

「なんですと? このゴシップ誌め、適当なことをかいて私のことを弄んだなー!」

 頬を膨らませながら立ち上がったモアは、肩から下げていた鞄から雑誌を取り出すと地面に投げつけた。さらに踏みつけようとするので、すかさずパッチが止めに入る。

「森にゴミを捨てるのは関心しないね」

「あ、はい、ごめんなさい」

 パッチが軽く咎めただけで、モアはすぐに雑誌を鞄に戻して、その場に座り込んでしまった。時折殊勝になる瞬間が彼女にはあるのだが、そのタイミングはやはり計りかねるところだった。

 彼女の謎は解けないが、ひとまず森の自然を汚そうとしたことには反省の意を示しているらしい。それに免じてとパッチは体育座りになったモアの隣に胡座をかいた。

「やはり何度訪れても、僕がここで寝転がっていた理由は思い出せないね。ここは君に倣って、自分で状況再現してみるのも面白いかもしれないな」

 と、パッチは右目の眼帯を外した。顔の右半分は痛々しく焼けただれ、右目のあったところはその痕跡すらあやふやだ。

 本当にうつ伏せになったパッチに、モアはしゃがんで興味津々で見つめてきた。第三者に見られたら、一体どんな風に解釈されるだろうとパッチは心の中で苦笑する。

「やはり、出てこないね。何か頭の中に記憶が眠っているような、そんな感覚がなんとなくあるんだ。でもそれはどんな鍵を試しても開かない」

「うーん、ここはショック療法とかドーンと試してみましょ、それで先生の反応を見てみれば何か湧いてくるかも!」

「僕の大事な場所に対する破壊行為への反応なら、やる前から一目瞭然だろう?」

 眼帯を付け直しながら、パッチはいかにも不服という表情を向けてみせると、渋々といった感じでモアは身を竦めた。止めなければ本当にやっていたかもしれないと思うと、パッチは少しぞっとする思いだった。

「さて、僕はそろそろ父さんのお墓参りに行くよ。君は気が済んだなら帰りなさい」

「水臭いこと言わないでくださいよー。先生のパパさんにご挨拶しなくちゃ」

「君は本当に目的が見えないから、素直に了承しかねるんだよ」

 頭を掻いて難色を示すパッチに、モアは子供のように無邪気な笑顔を返すだけだった。




******




 パッチ・ウィンレッジのこれまでの人生において、タクシーで乗り物恐怖症が顔を出さなかったのは、父が魔力暴発を起こして死んだ日だけである。

 父の緊急事態を知らされたパッチは、全てをかなぐり捨てて故郷へと戻った。研究所に着くと、既にアルテムは魔力リミッターの腕輪をはめ、シェルターに自らを封じたと聞かされた。

 何がトリガーになったかは聞いている。古参の助手と揉めて術の撃ち合いになり、相手を殺めてしまったのが原因だという。前から関係に悩んでいたそうだが、ついに一線を越えてしまったのだ。

「内線があるんですが、私達が呼びかけても何も応答してくれません。だけどパッチなら教授を止められるかもしれない」

 研究所内に設置された受話器に案内されたパッチは、必死に何度も父へと呼びかけた。そして少しの間の後、アルテム教授はついに返事をした。

「パッチ、お前に余計な心配をかけてしまったな……」

「父さん落ち着いて。僕はシェルターの外にいる。顔を見せて、僕が父さんの話を聞く。僕は今年にはもう魔術精神科医としての診療資格を得られる。その時、父さんに晴れ姿を見せられないのは悲しいな」

 頑張って冷静な口調を心掛けるが、パッチの声は所々震えていた。普段は滅多に感情に揺らぎがない青年であることを知っている関係者達は、パッチの様子を見てあからさまに驚いていた。

「仮に私がここから出られても、お前の晴れ姿には立ち会えない。十字架を背負った人間には、ふさわしくない」

「僕には大事な人がたくさんいるけど、家族は父さんしかいないんだ。世間体なんてどうでもいい、僕をまた天涯孤独の身にしないでよ。無責任じゃないか」

 焦る気持ちを抑えられないパッチの耳に、何かが割れる音が聞こえた。それが腕輪に亀裂が入る音だと彼にはわかった。

「私には、お前の家族を名乗る資格など最初からなかったんだ」

「馬鹿野郎! 父さんは僕の心だけでなく、信じてきた関係までも自分で壊すのか! 聞きたくないよ」

「私が決めたその名も、ファミリーネームも、私が消えたら捨ててくれて構わない。愚かな男のせいで台無しにした人生を、それで取り戻せるなら」

「話を聞いてくれ、頼むよ父さん!」

 息子の懇願する声は、もう父の心には届いていないようだった。歯を食い縛って悔しがるパッチに、電話越しのアルテムは乾いた笑い声をあげた。

「お前は自分の未来だけを考えるんだ。我が家名が足枷となるなら迷わず捨てろ。もし私の名でも飛躍に使えるならば、躊躇うことなく利用するんだ。お前の人生に役立てるなら……」

 と語っている途中に、突如通話が切れた。もう一度かけ直そうとした時、シェルターの中から凄まじい轟音と衝撃波が発せられた。




 *****




 パッチが父の墓に訪れると、よく手入れされた墓石と、綺麗な供花が置かれていた。

 未だにアルテムの助手の多くが、父を大切に思っていることがわかって、パッチは少し安堵しながら自分も買ってきた供花を置いた。

「町の中にもっと綺麗なお墓がありましたけど、ここまで結構遠かったですね」

 アルテムの墓は、町外れにある山の近くにあった。周囲を見渡すと、まるで手入れのされていない荒れた墓石がちらほらと見える。それだけであまり地元の人々からは利用されていないことがわかる。

 そんな寂れた墓地において、アルテムの墓はそれ以外と変わらない地味な墓石ながら、人の手がかかっている唯一の墓なせいか、妙に目立っていた。

「事件を起こした人間だからね。表向きには気にしていないと言いつつ、ウィンレッジの関係者と距離を置いた人間は多い。ここを墓地に選んだのは、トラブルを避けるためなんだ」

 と言いながら、パッチは墓石を優しく撫で始めた。

「まあ、殺人事件ですからねぇ、仕方ないわけか」

「実を言うと、父さんが殺したと思い込んでいた人間は、生きていたんだ。あの時、関係者は揃って冷静さを欠いていてね、脈をちゃんと測れていなかった。その罪悪感からかな、父さんの助手はほとんど辞めずに残ったんだ」

「パッチ先生は、お父さんのお仕事を継がなかったんですね」

「そちらの勉強はしてこなかったし、それに父さんの遺言通りに僕は生きたかったんだ」

 パッチは自分の心臓を指差した。その仕種にモアが首を傾げるのを見て少しがっかりしながら、彼は話を続ける。

「父さんの心を、僕は土壇場で救えなかった。墓参りにくる度にそれが悔しくて仕方ない。身内を救えなかった無念を他人で晴らそうなんて身勝手以外の何者でもないけど、これが僕の自由な未来の選択なんだよ」

 それはモアに向かって言っているようで、本当は土の下で眠る父に語りかけているようだった。




 父の遺骸は安全確認がなされた一週間後に回収された。魔力の暴発による威力は図り知れず、骨の一部がかろうじて採取できた程度だったが、パッチはそれを拾い集めて遺骨として埋葬した。

 魔力暴発による父の死を目の当たりにしたことは、パッチはより魔術精神科医としての覚悟を決めさせる出来事となった。

 アルテムの影響は決して小さくはなかった。マスコミによって魔術の危険性として叩かれた時期もあり、魔術師を白い目で見る世間の流れも生まれた。しかし、パッチの同業者である魔術精神科医達が徹底的に抗弁した。

 だが同時にパッチは目の前で見たからこそ思い知った。魔術に纏わる人間が心を壊し、極限を越えれば自分の遺骸すら残らない爆発力を生むことすらある。だからこそ医師達は二度と悲劇が起こらないよう、時には心を鬼にすべきなのだと。

 今ではリミッターの性能も上がり、町そのものに同じ性能のリミッター、あるいは放出装置が開発されるなど、技術的な発展と共にリスクは軽減されるようになった。

 魔術師による暴発事故は、アルテムの事件以降は未然に防がれているが、人の予想を越えた事態が起こる可能性は捨てられない。

 目の当たりにした悲劇を二度と起こさないという責任を胸に刻み、パッチは日々の仕事に向かっている。




「ところで、モアはどこに泊まるんだい? この辺りの安宿で評判が良いところなら教えるけど」

 墓参りを終えたパッチがふと尋ねると、モアは目を細めながら答えた。

「大好きな先生と一つ屋根の下で過ごしてみたいですわん」

「それなら僕が宿に泊まるから、君はうちで休みなさい」

「もう、先生は本当にイジワルですなー!」

 この場所に似つかわしくない言い争いを聞いて、父はどう思うだろうと苦笑いしていると、墓地に入っていく老人とすれ違った。

 ふと思い当たる人物に気づいたパッチは、頭だけ振り返って軽く声をかけた。

「墓地ではお静かにお願いしますよ」

「……今のお前には、言われたくないな」

 墓に手向けるための花を掲げて見せた老人は、それ以上何も言わずに墓地の奥へと向かっていった。

「ほえ? 先生、どうしました?」

 モアの声を聞いていつの間にか拳を握り締めていたことに気づき、それを緩めてから、首を横に振って微笑んだ。

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パッチとモア 灯宮義流 @himiyayoshiru

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