第6話 怪説・関ヶ原の戦い-軍略

 小早川秀秋の元には、西軍・東軍からの熱き恋文・使者が頻繁に届いていた。西軍・三成は心情穏やかでなく、疑心暗鬼の魔物に飲み込まれていった。

 「このままでは、大坂が制圧される。皆の者、東軍の大坂制圧を許してはならぬ。

城を出て、関ヶ原に出陣じゃ」

 三成は、夜の雨に紛れ大垣城を出て、小早川秀秋のいる松尾山へ移動し始めた。絶対不利な城責めを避けたかった東軍は、ついに三成を城から這い出した。西軍移動の知らせを受け、東軍はすぐさま、後を追った。

 関ヶ原は、四方を山に囲まれ窪んだ地形だった。西軍は山上に布陣し、東軍を見下ろせる有利な条件を得ていた。それに加え、石田三成は、本陣の前に杭瀬川の戦いで

能力を発揮した島左近を、すぐ近くに戦国最強と呼ばれた本多忠勝や井伊直弼など、勇将・猛将を控えさせていた。戦いの火蓋は、夜と共に開けた。東軍方からは、小山評定で名を馳せたこの男が名乗りを上げた。

 「この福島正則に、先鋒を任せてくだされ」

 「頼んだぞ、正則殿」

 西軍からは、最も大軍を率いていた豊臣五大老の一人の男が指名を受けた。その男は、明石全登を勇将とする、宇喜多秀家だった。一方、東軍、福島正則の部隊には、槍の名手・可児才蔵がいた。軍力に優れた福島軍であったが、多勢の前に一進一退の攻防を余儀なくされていた。

 「我らも続こうぞ」

 「積年の思い、今晴らそうぞ」

 「行政方に戦とは、どのようなものか見せつけてやるわ」

 東軍の小山評定の黒田長政、自害し、東軍の気持ちを一つにした細川珠のちのガラシャの夫・細川忠興、槍七人衆の一人で武断派の家康に同調した加藤嘉明などが、石田三成の本隊に攻撃を開始した。この三人は石田三成暗殺未遂事件の実行者であり、三成への積年の恨み抱いていた者たちだった。

 家康は、三成の前面に配置。配置された誰もが、家康の配慮に意気を感じていた。

東軍は、侮っていた。西軍は、実戦に乏しい集団と甘く考えていたのだ。しかし、思いの他、善戦され寧ろ、押され気味の戦況に、家康の苛立ちは高ぶっていた。一方、西軍、三成は善戦に気を良くしていた。

 「今じゃ、畳み掛けるのじゃ。さあ、島津義弘殿、お頼み申す」

 三成は、戦況を有利に進めるために、本陣に控えていた島津義弘の部隊に攻撃を依頼した。しかし、島津義弘は、腰を上げるどころか、全くやる気を示さないでいた。

 島津義弘は、南九州・鹿児島からはるばる援軍に駆けつけてきていた。その兵力の強さは、日本中に轟いていた。義弘は豊臣家に義理立てし、西軍に参加したが、三成の行政重視の政権を嫌っていた。要は、立場上、西軍にいるだけで、三成に従う意志など、毛頭なかったのだ。

 「くそー島津めー、ならばなぜ、そこにおる。ええーい、もう頼まぬは」

 三成が、次に白羽の矢を立てたのは、毛利軍だった。毛利軍は、家康の後方に位置する南宮山に大軍を率いて布陣していた。この軍団は、西の総大将の名目で毛利輝元によって、派遣された無頼だった。

 「毛利軍の方々、お頼み申す」

 「あい分かった、者共、出陣じゃ」

 「おお」

 それでも部隊は、一行に動かなっかた。

 「どうした、なぜ進軍せぬ」

 「それが…それが…」

 「どうした、はっきり申せ」

 「あ、はい、吉川広家殿が、その…その…」

 「はっきり申せ」

 「あ、はい、弁当を食べているからダメだ、と」

 「なんとふざけた事を」

 のちに、これは、宰相殿の空弁当、と呼ばれた。

 吉川広家は、毛利軍の前を塞いだまま、動こうとはしなかった。毛利軍は味方同士の戦いを避けたいがため、身動き出来ないでいた。

 「毛利軍は、何をしておる」

 「それが、吉川広家殿が、毛利軍の行く手を阻んでいるとか」

 「何があったのじゃ、どいつもこいつも」

 三成の焦りは、最高潮に達していた。毛利軍には、小早川隆景と吉川元春という二大重臣がいた。二人は、考え方の違いにより疎遠になり、内部も二分されていた。毛利軍を西軍に参加させた僧侶・安国寺恵瓊は小早川派だった。

 「家康様、毛利軍が三成の攻撃依頼に応じておりませぬ」

 「そうか、そうか」

 家康と天海は、お互いを見、不敵な笑みを浮かべていた。家康は毛利家の内情を知り、早い段階から吉川元春の子である広家に接近していた。「恵瓊の糞坊主に煮え湯を飲ませぬか」と、吉川派を東軍側に引き込んでいた。広家は東軍が勝った曉には、毛利家の責任は問わないこと、領地も保障すると、家康と密約を交わしていた。

 「やりおったわ、広家の奴。さあ、どうする、島津も毛利も動かぬぞ、さぁ、どうする三成」

 西軍には、毛利家の領地近くの土佐の戦国大名の長宗我部家も参加していた。長宗我部家は、東軍へ参加しようと向う途中、毛利家に関所が封鎖され、東軍に合流できず、仕方なく、西軍に参加していた。そんな状態だったから、最初からやる気など全くない部隊だった。

 「一体、どうなっているんだ、どいつもこいつも」

 「三成様、こうなれば、小早川秀秋様に再度、攻撃要請を致しましょう」

 「仕方がない、恥も外聞もないは、冷遇を謝れと言うなら謝ってやるわ、領地も、地位も、望み通りじゃ。何が何でも、秀秋の首を縦に振らせよ」

 しかし、小早川秀秋は、大の石田三成嫌いだった。家康は、決めかねない秀秋の尻叩きに懸命になっていた。

 「みんなが寝返ったり、東軍指示の立場での静観など無意味。もはや、何ら躊躇せずとも、寝返る状況は出来ている。早く、決断なされよ。このまま決断なさらずや、こちらも考えを変えなければな。そのようにさせるでない。決断なされよ」

 小早川のいた松尾山からは、関ヶ原を一望できた。その戦況を見て、有利な方へつこうと目論んでいたが、一進一退の攻防が続き、優劣をつけられなかった。秀秋も、西軍・東軍からのやんやの要請に、これ以上、決断を遅らせるのも、自分に不利に働くと思い始め、焦りを覚え始めていた。天海が、提言を申し出た。 

 「家康様、秀秋様は勝機を見失っております。ここは背中を押してやりましょう」

 「どうするのだ」

 「ちょっと、脅かしてやりましょう」

 「脅かすとは…うーむ、それは面白い。鉄砲隊よ聞けー。小早川秀秋に向け、鉄砲を放て。しかし、当てるではないぞ。脅かすのじゃ。分かったな」

 鉄砲隊は早速陣を成し、秀秋目掛けて、威嚇射撃を行った。銃弾が秀秋を襲った。

 「わー、鉄砲を撃ってきたぁ。家康様が怒っている。もうだめだ、者共、出陣じゃ、敵は西軍じゃ西軍だ、かかれーかかれー」

 天海と家康の思惑は、見事に功を奏した。

 「天海殿、秀秋の寝返りに自信があったのか」

 「在り申した。秀秋には参謀と呼べる意見をされ、また聞く者が御座いませぬ。悩めば袋小路に陥り、怯えた犬と同じと見た。吠えて叶わぬと見ると、尻尾を腹の方へ丸めて、服従を誓いまする。気概があれば、歯向かって、東軍に怒りをぶつけるでしょうが、萎えている犬は、叱られたら、叱った者の言うことを聞きまするからな」

 「なるほど、秀秋はそれだけの男と言うことか」

 「若さか、性格か、我らからすれば、頼りなき武将ということです。しかし、秀秋の一万以上の兵力は魅力がありまするからな」

 「食えぬ奴じゃな、そなたは」

 天海と家康は大笑いした。戦場でのほんの息抜きの場面となった。小早川秀秋は、寝返りを宣言し、目前の西軍に襲いかかった。これを見越して手立てを打っていた者がいた。その人物は、石田三成が、急速に親交を深め、盟友とも言わしめる大谷吉継だった。彼は、西軍でありながら揺らいでいる秀秋の姿を見、寝返るに違いないと踏んでいた。その時のための布陣を用意していたのだ。小早川の軍勢は、迎撃され、いきなり押し戻されてしまった。その大谷吉継に、災難が降り注ぐ。

 大谷吉継の軍勢と共に小早川を迎える位置にいた部隊が、やや後退したように吉継は感じた。

 「何だこの違和感。共に戦う軍勢が後退したかのような。いや、敵は前方の小早川軍。気にする程の事ではないか、気のせいだ」

と、気に止めないでいたその時、大谷吉継は、後方で信じがたい号令を聞いた。

 「かかれー」

 「なに」

 突然、共に行動していた部隊が、自分たちに襲いかかってきたのだから、堪らない。大谷吉継とにって青天の霹靂、大誤算だった。寝返った部隊は、開戦前に既に、家康からの使者と合意していたのだった。大谷吉継の軍勢は、たちまち包囲され、集中攻撃を受け、孤軍奮闘するも、壊滅。大谷軍の消滅により小早川軍も立て直した。

 「秀秋殿、敵は西軍・三成であ~る。いざ、共に参ろうぞ」

 寝返った者同士、西軍への進軍を始めた。関ヶ原前線は、一進一退の攻防が続いていた。石田三成は、徳川家康の本陣を襲うと迂回部隊を差し向けるが、そこには、戦国最強と呼ばれた本多忠勝が立ち塞がった。戦術、戦力的にも三成の軍勢は、歯が立たず撃破されてしまう。

 西軍・宇喜多秀家は、実践経験の浅い二代目武将ながら東軍の福島正則に対して、善戦を続けていた。そこへ、大谷吉継を壊滅させた小早川秀秋の軍勢が、側面から参戦してきた。攻防の視野が広がったことで、西軍の戦力は散漫になり崩壊していく。

 「このままでは、持ち堪えることさへ叶いませぬ。包囲される前に、退去を」

 「仕方ない、一旦、引けー」

 結果、勇将・明石全登をしんがりに宇喜多軍は、戦場から退却を余儀なくされた。

豊臣家への義理を果たすために西軍に参加していた島津義弘の部隊もまた、善戦していた。しかし、取り巻く戦況は、芳しくなかった。

 「西軍が、次々と崩壊・退去しております。このままでは、東軍の援軍が押し寄せてきまする、義弘殿、ご決断をー」

 「うぅぅぅぅ。敵に背中を見せろと言うか。島津藩は、そんな腰抜けではないわ。皆の者、前面突破じゃ。島津藩の心意気をみせてやろうぞ」

 窮鼠猫を噛む。その行動に東軍は、呆気に取られていた。奇をてらった敵中突破は、東軍を蹂躙させ、側面にいた福島正則の部隊も防ぐことが出来なかった。追撃した井伊直政は、負傷してしまう。島津軍は無謀とも思える退却方法で、大きな犠牲を払いながら、東軍を突破。そのまま、鹿児島へと帰還した。

 これを機に、急速に関ヶ原の戦いは、終焉を迎えた。


 関ヶ原の敗者の処理も、粛々と進められていた。

 石田三成、毛利家を西軍として参加させた僧侶・安国寺恵瓊は、

計画の首謀者として。真っ先に自首してきた小西行長は、武将たちへの見せしめ的に京都引き回しの上、処刑。しかし、処刑されたのは、この三人だけだった。

 豊臣五奉行の長束正家は、自害の道を選んだ。豊臣五大老の宇喜多秀家は、数年間逃亡し、捕獲された。その頃には、戦いの熱は冷めていたのと、元々、人望が厚かった秀家は、著名な武将からの嘆願書もあり、島流しとして処理された。秀家の妻・豪姫との別れは、戦国の悲恋物語として後世に残ることになる。

 極刑の処罰対象者には、特徴があった。参謀的な人物に特化していた点だ。家康、天海ともに、知略あっての武力という考え方。刃物も使いよう、ということだ。料理の道具にもなれば、殺人の道具にもなる。使い方次第で、味方にも敵にも、善にも悪にもなる、ということだ。

 西軍に参加した武将たちは、領地を大幅に縮小され、地位も降格させられたことは言うまでもない。規模は縮小させるも、武将を存続させることで、敢えて恩義を感じさせ、彼らに自身の領土を管理させた。仇討のような反目を、限りなく抑えることが目的だった。恩義と逆らうことの恐怖を与え、昨日の敵は、今日の味方、の如くに。

忠誠心のある犬のように、飼いならす。反目の意思を削ぎ、反逆の防止に役立てた。

 豊臣五奉行で、西軍の軍事計画を担っていた増田長盛は、戦前から家康と内通し、

東軍に軍事計画を流していた。東軍は、西軍を情報戦で圧倒していたのだ。東軍に協力した他の西軍の者は、領地は保障され、形ばかりの謹慎処分とされた。

 弁当を食べているからと、後に宰相殿の空弁当と呼ばれる理由で、三成の進軍命令に突然反逆した毛利軍の吉川広家は、領地の保障を取り付け、東軍に肩入れしたが、

約束は破棄され、毛利家の領地は大幅に縮小された。

 吉川広重の反逆は、毛利家存続が目的だった。広重は、東軍家康の勝利を予想するも、西軍につく毛利家のことを思っての行動だった。密約は、東軍の黒田長政と井伊直弼との間で取り交わされ、毛利家の重要な人質を送ることで、家康の承諾を得て、成立する予定だった。しかし、人質を差し出す前に戦いは終わって仕舞い、家康との約束とはならなかった。毛利輝元に相談せずに、お家大事で起こした密約行動だったが当然のように輝元の怒りは買う嵌めに。約束は果たせなくとも、毛利家のことを思う忠誠心の行動として、厳重注意でことを収めた。

 東軍に参戦した武将たちは、西軍から取り上げた領地の中から、多くの領地を与えられ、殆どが大名として出世した。彼らは、同時に近隣の西軍・武将たちへの睨みを

効かせる役としても、一躍を成していた。

 敵中突破で退却し、薩摩に戻った島津義弘の島津軍。それを待ち受けていたのは、

元軍配師、黒田如水こと黒田官兵衛だった。この軍勢と一触即発の状態に。しかし、家康から停戦命令が届き、合戦には至らないで済んだ。元々、島津家は、豊臣家への義理で参加しただけで、寧ろ、三成を嫌っていた人物。そこを配慮され、お灸を据えた数年後に家康は、領地を与え、傘下に治める道を選んだ。

 上杉軍と伊達・最上軍との東北地方の合戦は、西軍敗北の報告を受け、上杉軍が撤退。後に上杉家は、徳川家に謝罪し、領地は大幅に失うが大名家としては存続した。

 東軍の伊達家・最上家は、領地の増加を獲得。ただ、伊達政宗は、家康と開戦前、

伊達100万石の領地を約束されていたが、叶わなかった。徳川家の脅威になる領地を持たせることを家康は、避けたからだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

裏アカ歴史奇行・怪僧・天海(明智は三度死ぬ)《承》編 龍玄 @amuro117ryugen

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ