彼と私の物語

まいけ

第1話 彼と私の物語

 朝の九時を少し過ぎた頃に、彼女は今日も図書館にやってきた。僕は閲覧室の本棚の前に立ちながら、こっちに向かってくる彼女を眺める。


「おはようエリカ! 今日も良い天気だね!」


「…………」


 無視である。まぁ今に始まったことじゃないし、というかむしろこの夏休みの間ずっとこんな感じだ。別に気にしないけど。


 この図書館は町のはずれに位置しているため利用者がほとんどおらず、閲覧室もたいして大きくない。六人掛けのテーブルが四つだけあり、あとは本棚が並ぶのみ。入口のそばの貸出カウンターを挟んで反対側が談話室や会議室となっているけれど、たったそれだけの施設だ。自治体の財政難が叫ばれる今日、何でこの図書館は廃止されないんだろうかとつくづく疑問に思う。


 図書館の裏はテニスコートになっており、今日もそこからボールのぶつかる音が聞こえてくる。蝉の生き急ぐような鳴き声、プールに向かう子どもたちの楽しそうな会話、風に揺られた洗濯物のはためき。そういった夏の日の朝の音が、生活が、かすかな窓の振動を通じて僕の耳に届く。平和だ。


 彼女は定位置となっている窓際の机の隅に、窓を背にして座った。だから僕も彼女の目の前に座る。もっとも、小学生の頃からそこは僕らの特等席だった。


 彼女は高校指定のバッグからペンと原稿用紙を取り出して、まるで手術前の医者がメスを並べるかのように机の上に広げた。肩甲骨まで伸びた髪をポニーテールに結わい直して、彼女はちらっと僕の方を見る。もっとも、特に何を言うわけでもない。ただの習慣なんだろう。


 この夏休みの間中、彼女はずっと物語を書いていた。ノートパソコンを使わずに、昔ながらの原稿用紙を使って。もっともこの閲覧室では電子機器の使用が禁止されているから、ここで何かを書くとすれば手書きという手段しか無いのだけれど。


 静かな閲覧室の中で、紙とペンがこすれる音だけが響いた。



***


 僕と彼女が初めて会話したのは、僕らがまだ小学生だった頃、アイスさえ一瞬で溶けてしまいそうなほど暑い夏の日のことだった。


 家でやることも無かった僕は、毎日この図書館で本を読みながら自堕落に時間を潰していたんだ。彼女も友達と一緒に毎日のようにこの図書館に来ていたけれど、学校も違うし年も分からないしで、それまで特に話しかけることはしなかった。


 いつも友達と来ていた彼女が、その日は何故か一人っきりで本を読んでいた。けれど本のページは全然進んでいなくて、彼女は本に視線を向けながらもずっと何か考え事をしているみたいだった。そんな彼女の横顔が寂しそうで、僕はつい柄にもなく声をかけてしまったんだ。


「今日は一人なの?」


 彼女はチラッと僕を見ただけで、すぐに視線を本に戻した。


「閲覧室は私語禁止よ」


 その言葉は、小学二年生の僕にとってはずいぶん大人びて聞こえた。まるで親戚のお姉さんにイタズラを注意されたようなバツの悪さ。しかしその後にボソッと彼女が「談話室行こうか」と言ったのが聞こえて、なぜだかすごく安心したのを覚えている。


 正直、学校も違う異性の友達とは、共通の話題なんか何もなかった。だから僕は黙ってひたすら話を聞くことしかできなかったんだ。けど彼女はそんなことお構いなしに、自分の事情を話し続けた。今年の四月に東京から引っ越してきたこと。引っ越してきた当初はあんまり学校になじめなかったけど、ようやく仲良くできる友達ができたこと。両親が共働きで、夏休みはいつもその友達の家か図書館で過ごしていること。そして昨日、その友達とケンカしたこと。


「だから、今日ユキは図書館に来ないし、私もユキの家に行かないの」


「けど、夏休みはまだまだ長いよ? これから夏の間ずっとこうしてケンカしているの?」


「仕方ないじゃん、ユキが悪いんだし」


 髪の毛をいじりながら、彼女は居心地が悪そうに窓の外へ目をそらした。


「だけど、向こうもそう思っているかもよ? 僕はよく分からないけど、とりあえず話だけは聞いてみたら?」


「そんなことする必要ないわよ。私は悪くないんだし、ユキが謝るまで口きかないんだから。何でカズはユキの味方ばっかりするの?」


「そういうわけじゃないけどさ……。けどそれじゃあ、いつまでたっても仲直りできないかもよ?」


 正直、僕には彼女たちがどうしてケンカしているのかよく分からなかった。もちろん理由は聞いたんだけど、どうにも理解できないのだ。まだまだ子どもだった僕にとって、隣町の小学校に通う異性というのは、まるで地球の裏側の住人のようなものだった。


「いいのよ、もうユキと口きけなくても……」


 そうやって強がっていた彼女だけれど、翌日図書館に行ってみるといつも通り、二人で仲良さそうに座りながら本を読んでいた。彼女がこっちを見ながら声に出さずに「ありがとう」と言ってくれたのが嬉しかった。


 それから僕らはよく三人で遊ぶようになった。遊ぶといっても、図書館で一緒に本を読んで、時々談話室で話をして、ほんのごくたまにユキの家でゲームをする程度だ。三人とも家の中で過ごす方が好きだったし、みんな年が同じだったということもあり、自然と一緒にいる時間が増えた。


 夏休みが終わって学校が始まってからも、僕たちはよく図書館に集まっては時間を潰した。図書館は僕の通っていた小学校からは離れているから、学校の知り合いは誰も来ない。三人で一緒に過ごす図書館は、誰も知らない僕らだけの庭のような場所だったんだ。


***



 昼前になって、彼女が席を立った。恐らく昼食を食べに行くのだろう。閲覧室では一切喋らず、飲食は必ず談話室でとるといった彼女のスタンスを見ると、ホントに真面目だなと思う。もっとも、それが彼女の良いところでもあるんだけどね。


 談話室では白髪の男性が一人でお茶を飲みながら新聞を読んでいた。彼女は窓の側の机に座り、弁当箱を広げる。もちろん、彼女の手作りだ。


「おぇエリカさん、今日はそぼろご飯ですか!? おいしそうですね。一つ良いですか?」


「…………」


 またもや無視である。もっとも、無視されてもめげずにひたすら話しかけるのが僕の強みだ。だって、それくらいしかやることが無いから。


「いやー、昔エリカの作った三食丼食べたことがあったよね? おいしかったんだけど、エリカが間違えて激辛の高菜買ってきて、知らずに食べた僕が泣きそうになったこと、覚えてる?」


「…………」


「あの時はびっくりしたな。けどおいしかったよ。またエリカの作ったご飯食べたいな? やっぱり一番はハンバーグかな? けど最近は暑いから、冷やしうどんとかの方が良いか……」


「…………」


 そういえば昔はよくおかずの交換をしたっけ。彼女の手作りの弁当とは反対に、僕のコンビニ弁当の何と味気なかったことか。そんなことを思い出している僕の心に構わず、彼女は弁当を食べ始めた。


 僕はエリカの目の前に座って、彼女が食事をするのを眺める。夏休みはこうやってほぼ毎日、この図書館で過ごしてきた。明日からは学校が始まるから、こうして過ごせる時間も無くなると思うと少し寂しい。


 食事が終わってしばらくすると、彼女は弁当箱を丁寧にしまってから貸出カウンターに向かった。今日もまた司書の小島さんと立ち話でもするのだろう。これも毎日の恒例で、小島さんはエリカと話すこの時間を楽しみにしているようだ。


「エリカちゃん、今日も来てくれたのね。いつもありがとう」


「こちらこそ。そういえば先日頂いたおかず、ありがとうございました」


「いいのよ、こんな寂れた図書館にいつも来てくれるんだから。ちょっとくらいお礼させてよ」


 そう言いながら、二人は話し込む。小島さんとはもう十年のつきあいになるので、僕らにとっては家族のようなものだ。どうせまた今日も一時間くらいじっくりと話し込むのだろう。僕は先に閲覧室に戻ることにした。


 閲覧室は相変わらずがらんどうとしていた。窓が少し空いていたみたいで、彼女の書きかけの原稿用紙が、まるで祭りの後の紙吹雪みたいに机の上や下やそこら中に散らばっていた。


 彼女が小説を書き始めたのは中学生二年生の時だったと思う。最初は女の子らしい恋愛小説とか、異世界転生のファンタジーものだとかを書いていたんだっけ。けどめったに僕に見せてくれることは無かった。僕がこっそり見たら、彼女は怒って三日も口をきいてくれなくなってしまった。


 だから彼女の怒る顔が頭に浮かびつつも、ついつい原稿用紙に目が行ってしまった。これは別に悪くないよね? 窓が開いているのに原稿用紙を放置したエリカが悪いんだし。そうやって自己正当化をしつつ、僕は彼女の物語を読み始めた。


 物語はほぼ書き上げられているようで、原稿用紙は彼女の美しい楷書体で埋め尽くされていた。もっとも、何度も何度も推敲を重ねた跡のせいで、読むのだけで一苦労だ。


 僕は最初と思しき場所から読み始める。



***


 私が初めて彼と会話したのは、小学二年生の夏だった。前日にとても些細なことで親友のユキと喧嘩をして絶交を宣言したため、私は浮かない気持ちで図書館の椅子に座っていた。


***



 最初の二文で、読むのを中断する。これは何だ? 僕らの出会いじゃないか? 彼女が書いていたのは物語でなくて日記だったのか? そもそも始まりが僕との出会いって、どんな私小説だよ、と心の中で突っ込む。言いようのない居心地の悪さを感じながらも、好奇心を抑えられずに別の原稿用紙に目を移す。


 付箋のつけられた「第五章」という部分が目に入った。どうやら今はこの章を推敲しているらしい。



***


 私たちは自転車に二人乗りをして、川沿いをずっと走った。目的なんか無かったし、行くあての見当すらつけていなかった。


「エリカ、寒くない?」


「大丈夫だよ。ありがとう、カズ君」


 実際、彼の背中は暖かかった。ちらほらと粉雪が降り始め、水たまりを通り過ぎるたびに冷たい水滴が足に当たった。太陽の光はもう山の端に落ち、少しずつ風が強くなる。


「着いたよ」


 彼が突然振り向くと、その顔が思ったより近くにあって心臓が強く跳ねた。慌てて目をそらすと、そこはいつも私たちが来ている図書館だった。


「ここくらいしか思い浮かばなくってさ……」


 そう言いながら少し恥ずかしそうに横を向く彼は可愛かった。実際、私もここに来るような気がしていたから、意外ではなかったけれど。


 すでに何年も通っている図書館なので、勝手知ったるものである。彼は裏の倉庫にあるカギの壊れた窓——そこは私達だけが知る秘密の入り口だった——から、体をよじらせて建物に侵入していった。

 数分ほどして、図書館の扉が開く。私は急いで中に入り、鍵をかけた。


「なんか悪いことしているみたいだね」


「いや、実際悪いことだろ。不法侵入だぞ、これ」


 笑いながら彼は懐中電灯をつけた。図書館の中はひんやりしていたけれど、いつもどおりの本の配置や机の汚れが、どことなく私を落ち着かせた。彼は私たちが毎日のように座っている閲覧室の机の横に寝袋をひいて、携帯コンロをセットする。運動が苦手で色白な彼だけど、こういうところを見ると男の子だなと思う。


「今お湯沸かすから。ちょっと待ってて」


 私は荷物を彼の側に置き、本棚に向かった。いつも見る日本文学の棚は、夜の闇の中で怪しくその存在を主張していた。セロテープで止められて黒ずんだ背表紙をずっと見ていると、まるで太宰治の怨霊がこちらに手を伸ばしてきそうな気がする。

 私はその中から夏目漱石の本を一冊だけ抜き取って、彼のもとに戻った。


「家出しても本読むなんて、エリカはぶれないな」


 私が本を持って座ると、彼は笑いながら私の頭をなでてきた。頭を撫でられるのは好きで、ついつい彼にもたれかかってしまう。


「だって、他にやること無いじゃん」


「スマホとかは? 充電器持ってきただろ?」


「持ってきたけど、今は本が読みたい気分なの」


「そうかね。まったくエリカは変わっているよ」


 この家出がごく一時的なものに過ぎないということは、彼も私も分かっていた。中学生のできることなんてすごく限られているし、私たちは家と学校の往復というこの狭い世界から抜け出して一人で生きていくことすら不可能だ。だけど、今だけは誰にも邪魔されない2人だけの場所で、2人だけで好きなことをして過ごしていたかった。


「なぁ、エリカはどうしてそんなに本が好きなんだ?」


 彼が訊いてくる。お湯が沸いたのか、彼はティーパックの入った銀色のカップを持ちながら、コンロの上の薬缶やかんに手を伸ばしていた。


「どうしてって言われても、好きなものは好きなんだよね」


「なんだそりゃ。まぁ言わんとすることは分からんでもないけどさ。何か他にないの? 例えば小説家になりたいとか、ミステリーを読み解くのが好きとか」


「そうだな……あえて言うなら、いろんな人の人生が見えるからかな?」


「なんだそれ? えらく哲学的だな」


「例えば夏目漱石なんて、私が生まれるずっと前、それこそ私のお母さんが生まれるよりずっと前に死んじゃっているんだよ? けど、そんな昔の人でも、その人のメッセージを本越しに聞くことができる。それってすごくない?」


「すごいことなのか、それ?」


「すごいよ! だって、漱石は死んでも、その本が読まれ続ける限り漱石の言葉は生き続けるんだから」


「そういうもんかねぇ……」


 いまいち彼は私の言葉に納得できないようであったが、既に頭は別のことを考えているらしい。カップを私に渡しながら、彼の眼はスマホを追っていた。それでも、私は彼と一緒に居られるこの瞬間が、たまらなく愛おしく思えた。


***



 そういえば中学二年の冬にエリカが家出をすると騒ぎ出して、僕がそれに付き添ったことがあったっけ。もっともその時は、僕が倉庫の窓を開けて図書館の中に入ったら残業をしていた小島さんにばったり鉢合わせちゃったんだよな。怒られるかと思ったんだけど、事情を話したら小島さんは僕とエリカを談話室に座らせ、温かい紅茶を淹れてくれた。エリカが家出をした経緯を黙って聞いてくれて、話し終わった頃には夜の十時を過ぎていたと思う。小島さんが僕らの家に電話してくれて、両親が迎えに来てくれた。

 最初は家族に対して怒り狂っていたエリカも、父親が迎えに来たら少しうれしそうな顔をしていたっけ。何でエリカが怒っていたのかは忘れてしまったけれど、今となっては良い思い出だ。


 僕はこのエリカの個人的体験と妄想が入り混じった私小説が気になって、さらに別の原稿用紙に目を向ける。



***


 窓の外からは幸せそうな隣の家の団欒だんらんの音が聞こえて来るけれど、私の心は冬の海のように曇ったままだった。秋の訪れを知らせるように、風が私の髪を揺らす。


「結局……私とユキどっちのことが好きなの?」


 私は泣きそうになりながら声を絞り出した。


「エリカに決まっているだろう!」


「じゃあユキとは何だったっていうのよ! どうして昨日会社行くなんて嘘ついてユキと会っていたのよ!」


「……それは…………」


「ほら! どうして口籠るのよ! 私たちもう一緒に住んで二年も経つのよ! なのにどうして? ずっと昔から三人で仲良くやってきたじゃない!」


 私はあまりの口惜しさと情けなさと怒りに押しつぶされそうで、その場に座り込んでしまった。二人で暮らし始めるときに買ったお揃いのスリッパが脱げて、私の横でひっくり返っている。


「エリカ……」


「そんな気安く呼ばないでよ! ユキのことが好きなんでしょ!?」


「違うよ!」


「嘘つき!」


 私は泣きながらスリッパを彼に投げつけた。スリッパは彼の胸に当たって羽虫のように床に落ちる。白いワイシャツに灰色の汚れが付いたけれど、彼はそれを払うことも無く立ち尽くしていた。


 彼は思い詰めたような顔をしていたけれど、やがて自分の鞄を手に取り、その中から四角い箱を取り出した。

 私の側まで来ると彼はしゃがみながら包みを差し出してくる。


「ユキに相談していたんだ、エリカにどんな指輪を買えばよいかって。これ、こんな形で渡すことになって申し訳ないけど、僕と結婚してくれないか?」


***



 そこまで読んで僕は原稿用紙から目を離した。何で好き好んで自分のプロポーズ場面(と思われる)小説を読まなきゃならないのか。もともと恋愛小説が好きだったのは知っているけれど、ここまで重症だとは思わなかった。

 このシーンは特に推敲の跡が多く、エリカの思い入れが強いことを伺わせる。エリカの若干暴走気味な妄想を目にして、僕はむず痒い。


 気持ちを切り替えて別の原稿用紙を読む。



***


 病院から帰ると、家の中は意外にも整っていた。床にはきちんと掃除機がかけられているし、台所に洗い物も無い。


「お帰り。エリカ」


 ここまで荷物を持ってきてくれた彼が振り返って言う。


「ただいま。ちゃんと暮らせていたみたいね」


「いや、それは……」


 彼が言いよどんだところでリビングに続く扉が勢いよく開き、ユキが現れた。


「お帰りエリカ! 元気そうだね!」


「ユキ! ただいま。もしかして、うちの掃除してくれた?」


「そうだよー! 本当にカズ君ったら一人じゃ何もできないんだから。昨日一日がかりで清掃したよ! まぁせっかくの楓ちゃんの登場の日だもんね。ちゃんと綺麗にしておかなくっちゃね」


 ユキが掃除をしたと知って、私の心をチクリと何かが刺した。ユキに限っては彼と間違いを犯すことなんてないって信じていても、ちょっと心がざわつく。昔、私が彼とユキの浮気を疑ってケンカになったことを思い出した。結局は私の誤解で、しかもサプライズで婚約指輪を買いに行ってプロポーズの準備をしていたなんて、思い出すだけでも恥ずかしい。


「かわいー! さすがエリカの赤ちゃんだね。美人になるよ」


「おいおい、僕の子でもあるんだよ?」


「楓はママ似だよねー」


 彼が困ったように立ち尽くす横で、ユキが幸せそうに楓のことをのぞき込んでいる。楓は気持ちよさそうに眠ったままだ。彼女は二か月前に彼氏と別れたばかりなのに、こうやって私の出産を心から喜んでくれる。本当に良い友達を持ったと思う。


***



 いや、ユキが彼氏と別れるって、そんなこと書いてよいのかよと一人心の中で突っ込む。まぁ今のところユキは彼氏と上手くいっているみたいだし、大丈夫だろうけど。っていうか、子どもの名前は楓なんだな。今まで子どもはおろか結婚のことすら考えたこと無いのに、本当に恥ずかしい。


 別の原稿用紙に目をやると、それはどうやらラストシーンのようだった。



***


 第十九章


 結局私の人生は幸せだったと思う。幼いころに出会えた大切な友人が、いつしか彼氏になり、婚約者になり、夫になり、そして私の子どもたちの父親となった。もしまた別の人生をやり直すことになったとしても、きっと彼ほどの相手と巡り合えることは無いだろう。人並みな幸せなのかもしれないけれど、私にはそれ以外の幸せが思いつかないし、必要もない。


 ベッドの横では彼が心配そうな顔で私のことをのぞき込んでいた。その後ろでは、楓と風斗が心配そうな面持ちで私を見つめている。


「ありがとう。もう大丈夫よ。ちょっとお父さんとお話がしたいから、二人にしてくれる?」


 そう言うと、物分かりの良い私の子どもたちは心配そうな顔をしながらも病室を出て行ってくれた。昔はあんなに小さかった二人も、今やしっかりと自立し孫の顔まで見せてくれた。本当に、親孝行な子どもたちだ。

 子どもたちが出ていくと、彼が私のベッドわきに座って手を握ってくれた。


「エリカ、大丈夫かい?」


 そう言いながら私は彼の瞳を見つめてくる。その目は出会った頃のように真っすぐで、優しさに満ちていた。

 初めて会話した夏の日、二人で家出した冬、喧嘩してからプロポーズされた秋の夜、私たちの子どもが初めてこの世界に生を授かった春。そのすべての想い出の中で、彼は私の隣に立っていてくれた。私の隣で、一緒に世界を広げてくれた。そして今、私を最後まで見守ってくれている。


「カズくん、ありがとう」


 私は幸せに包まれたまま目を閉じた。


***


 自分の死にざま書くって……と突っ込みを入れたかったが、結構感動的なシーンなのでついついウルっと来てしまう。エリカがどんな人生を送りたいのか、エリカにとって僕はどんな存在なのかということが、僕の空っぽな胸をえぐるほどに伝わってくる。彼女はきっと、僕が思っているよりもずっと、僕のことが好きなんだろう。


 エリカが戻ってくるのが遠目に見えて、僕は反射的に閲覧室の本棚の影に隠れた。別に悪いことしていないんだけれど、後ろめたさと恥ずかしさとで体が勝手に動いてしまったんだ。


 彼女は机の上の惨状を見て一瞬あっけにとられた後、すぐに駆け寄って原稿用紙を集めだした。丁寧に一枚一枚数えなおして全て揃っていることを確認すると、安心したように溜息を吐いて周囲を見回した。どうやら後ろの窓が少しだけ開いていることに気が付いたようだ。彼女は窓を閉めた後、何事も無かったかのように席に座って、再び髪を結わい直した。





 閉館の音楽が流れてきた。しかしもう閲覧室には彼女しかいない。傾いた太陽が夜の訪れを予感させるけれど、窓から見える道路のアスファルトはまだ熱そうだった。


 テーブルに落ちる彼女の影に近づく影が一人。ユキだった。


「やっぱりここにいたんだね」


「うん。今日中にこの物語を完成させたくって」


「それって例のやつ?」


「そう。けどようやく終わったよ。明日から学校だし、気持ちを切り替えなきゃならないからね」


 そう言いながら、彼女たちは名残惜しそうに閲覧室を見回した。静かな音楽だけが僕たちを取り囲み、すり切れた本の背表紙がオレンジ色の夕日に染まっていく。


「上手く書けたの?」


 ユキが本棚を眺めながら言う。


「分からない。多分大人になってからまた書き直すと思う。けど、これが今の私のベストだし、カズ君に対してできる唯一のことだから」


「まだ一か月半だよ。無理しないで、何かあったら相談してよ」


 僕が死んでから、もうそんなに経ったのか。死後段々と、時間の感覚が薄くなっている気がする。


「最初はあまりに突然のことで、どうしていいか分からなかった。けど物語を書くことによって、少なくとももう彼がいないっていう現実を現実として見ることができるようになった気がする」


「その物語はどうするの? 大事に取っておくの?」


「分からない。まだ気持ちも言葉も不完全で……。けど時間が経ってもっと冷静にカズ君との想い出を振り返ることができるようになったら、ネットのどこかにアップするかも」


「アップしたら教えてね。私もエリカとカズ君の秘密知りたいし」


「えー、ダメだよ。こっそりアップするから、自分で探して」


「ケチだなー」


 そう言いながら二人は笑い合う。こうやって笑い合うことができるということは、僕がいない日常が彼女たちに馴染みつつあるということだろう。それは喜ばしいけれど、少しだけ悲しい。


「じゃあ帰ろっか。夏休みも最後だし、うちの親がエリカ連れて来いってさ。夕飯一緒に食べよう」


「ありがとう。せっかくだし、お邪魔させてもらうね。片づけてから行くから、先に行ってて良いよ」


「分かった。小島さんと話しているよ」


 ユキが去った後、エリカは原稿用紙と筆箱をしまって、鞄を肩にかけた。入口の方に向かうのかと思いきや、彼女は僕の座っている席を見ながら机の前に立ち続けた。


 決して僕のことが見えているわけではないのだろう。彼女は今一人で、閲覧室の机の前に立っているのだ。この小さくとも僕らの思い出が詰まった図書館の一室で、僕の存在の余韻を探すかのようにじっとこちらを見つめている。


 少しずつ彼女の影が縦に伸びる。その目に少しだけ、光るものが見えた。


 結局彼女の傷はまだふさがっていなかったのだ。いや、傷がふさがることなんてきっとないんだろう。それでも物語を書くことによって、彼女は少しずつ前に進もうとしている。

 僕の肉体は灰となった。僕の意識もやがて消えゆくのかもしれない。だけれど僕の存在だけは、彼女と僕の物語として永遠に生き続けることができる。僕という人間が生きた証を文字に書き付けることによって、彼女は僕の欠片を現実の世界に繋ぎ止め、この残酷な世界に対してささやかな抵抗をしているのだ。


「ありがとう……。もう行くね」


 彼女は独り言をつぶやいたつもりなのかもしれないけれど、きちんとその言葉は僕に届いているんだ。そう言いたかったけれど、僕の言葉はエリカには届かない。彼女は涙を腕で拭って、振り返らずに帰って行った。




 誰もいなくなった閲覧室は妙に広く、どこまでも静かだった。消えゆく夕日の最後の叫びが、本棚を真っ赤に染める。色んな人の記憶と思いが詰まった本が、その光に焼かれているのが見える。

 まるで火星に一人で取り残された宇宙飛行士のように、僕はその光景を眺め続けた。

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