終章
終章
「ええ年してようやるなあ。本当に、何にも食う気にならんのか?」
杉三が、そういっても、水穂は咳き込んだままだった。ただ、杉三の言葉に悪気がなさそうなのが、唯一の救いだったかもしれない。
「ほらよ。」
杉三は、答えすら出せない水穂の背をなでてやった。そういうやくざの親分みたいなしゃべり方であっても、何も愚痴を言わないで、背をなんとか、してくれるのは、本当に少数の人間になってしまっていた。
でも、僕しかいないんだからよ、ありがたく思え、とか発言しないのも杉三であった。
「今日は寒いから、乾燥しているからな。それで、変にせき込むんかな。」
ごめんなさいといおうとしたその時に、また咽喉にたまったものを吐いた。
「まあいい。食えなくても今日は仕方ない。こんなに寒いんだからよ。次はもうちっとあったかいもんを食わしてやるからな。それにしても、最近、本当にようやるな。畳屋さん、何回も来てもらって、大儲けだ。」
そこも、笑って片付けてくれるが、そういう人材はもうないということも知っている。
「医者には、言わないでね。」
そこだけは、力なくそう言うことはできたが、今日はもう疲れてしまって、これ以上何もする気にはならなかった。
「言わないでねっていうか、畳を張り替えた時点でバレバレだ。どうせ、すぐばれる。」
杉三は、原因探しも、対策探しもしない。事実だけしか言わない。かえってこういう態度をとってもらったほうが、水穂にはありがたかった。
「まあ畳のことはいいが、それより、六貫脱出はまだ難しいのかなあ。また、うまいもんを考えるわ。」
杉ちゃんは料理の達人だから、そういうことをすぐに言えるんだ。ほかの人にとっては、自動的に高級品ばかり作らなきゃいけないということになるから、大変だよ。それでは、たまらなく負担になって、ぐちぐち漏らすことが増えるだろう。特に女の人は。そう言いたかったが、咳に邪魔されて発言できないのだった。
「もう横になったほうがいいね。そのほうがいい。座ってると止まらないもの。」
杉三にそういわれて、水穂は布団に横になったというより倒れ込んだ。布団はせんべい布団と化していたから、横になると筋肉のない体では、少し痛かった。杉三が、かけ布団をかけてくれたが、それが、本当に柔らかいと感じたのは、やせて弱ってしまった証拠でもある。
暫く横になっていると、せき込む回数も減少して、簡単な会話なら続くようになった。
ちょうどその時。
「ごめんください。」
玄関から、女性の声がする。
「はい、なんでしょう。」
恵子さんがとりあえず応答するが、
「あの、磯野さんいますか?ちょっと、お話したいことがございまして。」
声から判断すると、西郷茉莉花だとわかった。水穂がまた来たか、という顔をする。
「追い出してきてやろうか?」
杉三が、そういうが、判断しようと考えるまに、咳をするほうが先であった。杉三は返答を待ってやるといい、その場に残った。
「私、言いましたよね。あなたのような人は、役に立ちそうで、役に立たないって。今回もそうです。あそこまで彼を追い詰めたなら、私、ここに入れる気はありません。」
恵子さんはそう、きっぱりと言っている。
「でも、最後に一度だけ、、、。」
「いえ、無理です!彼のことを思えば、私はできません。」
恵子さんはそういうが、権威というものは、愛情に勝ってしまうことがあると知っていた。いくら有害であっても、称号や資格というものがあれば、無理な発言でも通ってしまうこともある。
「ええ、あの時は申し訳ないことをしました。私、あの時は本当に、まだ、この仕事についてあまりよくわかっていなかったんだと思います。だから、もう一回、一からやり直そうと思って。それをお伝えしに来たんですけど。それでも、いけませんか?」
恵子さんは疑い深い目をした。茉莉花はもう一度お願いした。
「わかったわ。でも、最近寒いでしょう?だから、容体がよくないの。できるだけ短時間にしてあげて頂戴ね。」
ちょっとため息をついて、恵子さんは彼女を建物の中に通す。茉莉花は、丁寧にお礼を言って、製鉄所の中に入った。
「あーあ、とうとう来ちゃった。」
杉三が、嫌そうな顔をしてそういうが、
「まあ、彼女なりに用があるんでしょうから。」
水穂は、受け入れることにしたようである。杉三はそんな水穂を、心配そうにみた。水穂は、ゆっくりと、というか大変な思いをしながら上体を起こして、布団の上に座った。
「こんにちは。」
茉莉花は、四畳半のふすまを開けた。
「あ、ああ、どうぞ。お茶も何も出してないですけど。」
「いえ、かまいません。ここへ座っていいかしら?」
「あ、どうぞ。」
そういわれると、茉莉花は静かに畳の上に座った。
「本当に最近寒いわね。この辺りでは、雪が降るそうだけど、どうなの?」
「あ、はい。昨日、風花が舞ったよ。こっちの辺りは、たまにだけど、積もることもあるよ。」
杉三が、でかい声で、そう応じた。
「寒いとやっぱりせき込むの?」
「当り前じゃないか。こいつのことだから、何をやってもせきこむさ。もうひどいもんよ。寒いときは、本当にすごい。」
「そう。じゃあ寒いときはどうしてる?」
「そうだねえ。布団で寝ているしかないだろうね。」
本当は、水穂さんに答えを出してもらいたいのだが、代わりに何でも答えてしまう杉三に、ちょっといら立ってしまう。それなら、本人にしか答えられない説明をしようか。
「いつも、食品に当たってそうなるんでしょう?何に当たったらそうなるの?私、今日お見舞い持ってきたんだけど、当たってしまわないか心配だったのよ。」
「あそう。これまでに当たった食品は、もう100個を超えるんだ。肉魚一切ダメ。紙に書いても書ききれないよ。見舞いというが何を持ってきたんだよ?」
杉三に逆に質問されてしまう羽目になり、思わずムキになってしまって、
「生ハム。力をつけてもらいたいと思って、持ってきた。」
と、保冷バッグをどさっとおいた。
「そうか。悪いけど肉と魚は禁物だ。こいつには、肉も魚も焼夷弾と同じようなもの。そんなもの絶対食わせるわけにはいかないよ。まあでもな、お前さんが、思いを込めて持ってきたんだろうし、それをつぶすわけにもいかんしな。ほかのやつらに食わせるから、もらっておくわ。」
まあでもな、以降の言葉から、この人はさほど、自己中心的な人ではないのかと考え直して、茉莉花は、受け取ってもらうことにした。
「理由くらい分かってやってくれ。もう、この寒さでな、こいつ、咳き込んでとまらないんだわ。それで、僕が代わりにお返事してるの。そういうことだと思ってさ。ちょっと我慢してやってくれないか?」
「変わってるのね。杉三さんは。この寒いのに、よくそんな着物一枚で。」
「おう、バカは風邪をひかないから大丈夫。水穂さんは偉いから、体のほうが弱る。」
確かに、今の茉莉花だったら、その発言はその通りだろうなと思えた。エリートでもなんでもない人のほうが、ずっと人生経験が多いことは、あの、園田小夜子さんと話したことで、少しわかってきていた。
「で、今日は何しに来たんだよ。いきなりこいつに会いに来て、何があったんだ?」
「ああ、実はね。私、もう一回ちゃんと、資格とろうと思うの。カウンセリングの。もちろん、今持ってる資格でも開業はできるんだけど、それだけじゃ、もっとむずかしい悩みに触れられないとわかったから。幸い、由紀夫も、自分の道を見つけてくれたようだし、曽良夫も、もう少ししたら、新しい学校に行き始めるかもしれないから、それで、今度こそ自分のために生きてみようかなって思って。」
「贅沢なやっちゃな。昔のお母さんってのは、子供育てるので精いっぱいだったのによ。」
杉三が、そう皮肉を言うと、水穂が、まあ続けさせてあげようよ。と、杉三を制した。
「たぶん、由紀夫たちは心配ないと思うの。由紀夫は、もう富士高校ではなくて、別の学校に行くんだって言って、見学会とか行っているしね。あの子、エリート学校に閉じ込められているのは、嫌なんですって。それよりも、焼き肉屋さんで働かせてもらって、高校を卒業したら、大学へ行って、会社経営を学びたいって。そのあとは、小さな店でもやって、障害のある人たちの受け皿を作りたいんだって、私にはっきり言ったわ。」
「となると、経営学部か、商学部か。そうだな。もともとまじめだし、キチンとしているし、向いていると思うよ。ジョチさんも、由紀夫君はよく働いてくれるって、感心してた。そういう人は、もしかしたら、学校には行かないほうがいいのかもしれないね。きっと、高校よりも大学のようなところのほうがいいのかもしれない。それか、早く社会へ出してしまうか。」
「確かにそうかもしれませんね。昔であれば、飛び級して大学へ入ることもあったんですけど、今はないですからね。本当に一生懸命で感心します。海外では、高校へ行くよりも、バカロレアで大学に入った人のほうが、より意欲的に勉強するとも聞きますし。応援してあげてください。」
茉莉花がそういうと、杉三も水穂もそれは確かだと認めた。
「でも、残念なことは、そういう意欲的な子こそ、社会に出て幹部クラスになれると思うんですが、エリート学校にいたほうが、有利になってしまうことですね。」
水穂が、少しばかり愚痴っぽく言ったが、それは本当のことだ。それが、エリート学校を捨ててしまう上で、危険なところだった。
「でもさ、大切なのは、自分だからな。いくら万年平社員のおじさんであっても、仕事が楽しいから、出世しないという人は、少ないけどいるよ。」
杉三がそう励ましたが、そういう人は、少ないだろう。誰でも、課長とか、部長になりたがる。それが、仕事ということだ。
「僕、聞いたことあるんだ。万年平のおっさんなんてからかわれても、そのほうが、弱い人の味方になれるから、おごらないで済むってさ。人間、それが一番いけないことだからなって。」
「杉ちゃん、それ誰に聞いたの?」
「名前は忘れたよ。僕が電車の中でしゃべっていた人がそういった。」
確かに、杉三が、たまたまのり合わせた電車で、隣の席にすわった人と、べらべらしゃべるのは、珍しいことではない。中にはそういうことを言ったおじさんがいたのだろう。そして、杉三は文字が書けないから、名前は名乗っても、相手のことは忘れてしまうのである。
「わかったよ、杉ちゃんの哲学は、本当にお母さんそっくりだね。」
水穂は、改めて、杉三の母美千恵を思い出すのだった。
「で、曽良夫くんはどうしている?」
「ええ、あの子は、大きくなったら、料理人になるんだって言って、毎日、何か作ってます。特に料理番組が大好きみたいで、それを見ているからなのか、テレビを見て、倒れるという症状もなくなりました。もちろん、小学校は高校と違って、義務教育になるわけだから、必ず行かせなきゃいけないんですけど、幸い、近くに事情がある子を受け入れてくれる小学校を見つけてもらって、来年からはそっちへ通わせようかと思っています。小学校は、由紀夫が聞いてきてくれたの。あの、焼き肉屋さんで働いている従業員さんから。」
と、茉莉花はそうこたえた。実はこれを由紀夫が聞いてきてくれた時、茉莉花はずいぶん迷ったのだ。曽良夫に、今まで通っていた学校とは、正反対の方向へ通学させることになる。それは、もしかしたら隣近所の子供にからかわれるかもしれない。でも、そういうことなら、兄ちゃんが連れて行ってやる、なんて由紀夫は豪語していた。本当に、由紀夫も、いつの間にか少年という顔ではなくて、男という言葉にふさわしい顔つきになっているのに、茉莉花は初めて気が付いたのである。
「まあ、結局、安全路線のための切符はすべて捨てることになったけど、それはそれでいいことにしたわ。出ないと、由紀夫も曽良夫も、どんどんだめになっちゃうもの。」
「そう、よう気が付いたなあ。ていうか、安全な人生なんてどこにもないのよ。いくらエリート学校に行ったって、災害でもあったらみんな同じだ。そんなときに日ごろから差別意識を植え付けていたら、助け合いなんてできるはずもないじゃないか。だから、人間何々が幸福で何々が不幸なんて、順位はつけちゃいけないのよ。例えばさ、道路工事の人たちを、みんな土方と言ってバカにするが、道路がなかったら、誰も歩いていけないんだからな。」
「すごいですね、杉ちゃんは。それ、どこで覚えたんですか?」
茉莉花は思わず杉三にそう聞いてみたが、
「ああ、みんな馬鹿の一つ覚えなんだよ。僕が覚えていることは、馬鹿の一つ覚えでできている。それで、いいじゃないか。どうせ出典を覚えていたら、その提供者が偉い人だと勘違いされてさ、また奢って、ダメな奴が増えることになる。それでいいじゃない。それで。」
と、のんきにそういうのだった。
「あーあ、出た出た。杉ちゃんの十八番。それが出ると本当に、何も言えなくなるよ。杉ちゃんの答え。」
水穂は、そこまでいって、またせき込んでしまうのであった。彼の背を杉三がまたたたいてやってあげている。茉莉花は、これを見て、もう私の出番はおしまいだなと感じ取った。
「二人とも、落ち着いてからでいいですから、聞いてくださらないでしょうか?」
「ちょっと待ってくれ。水穂さん、落ち着いてもらわないとな。今しばらく待っててな。」
今回は、暫く背をさすったり、たたいたりする程度で治まってくれた。
「本当に短い間だったけど、お会いできてよかったわ。ありがとう。」
茉莉花がそういうと、二人は顔を見合わせる。
「ええ一度、病院で働きながら、勉強しなおそうと思うの。幸い、生活費に関しては今までの貯金もあるし、由紀夫も少ないけれど出してくれるから、それでなんとかなるかなって。だから、もうここには来られない。だからもう、、、。」
「おわかれってことですか?」
水穂は、咳き込みながら、静かに言った。
「そうですね。まあ、きっとまたどこかでお会いできるかなと思ってたけど。」
「遠い将来にね、、、。」
そう水穂は言った。そういうしか、できなかった。
「でも変ね。私、それで納得できない気持ちを持っている。どうしてかな。」
思わず、そう言ってしまう茉莉花。それはどうしたらいいか、、、。よくわからない、ぼやぼやした、不思議な感情。
「なんで、、、?」
嫌だ、いやだ、、、それでは、それでは、どうして、、、。
「ふふふ。お前さんは、いつの間にか、水穂さんのことを好きになったんだな。」
と、杉三にからかわれてしまうが、
「顔に書いてあるぞ!」
杉三が、でかい声で言った。そして肩をポンとたたかれた。
「それでは、別れたくないんでしょ。でも、しなきゃいけないから、すごく今君は葛藤している。そうだな?」
暫く間が開いたが、
「ほーら、真っ赤い顔してらあ!」
「杉ちゃん、あんまりこの人をからかうのはやめたほうがよいと思う。」
水穂にそう止められて、さらに彼女は赤面したのであった。
一方そのころ、蘭は。
「な、何!それは本当か!と、いうことはつまり、、、。」
由紀子から、言われた「結果」を聞いて、蘭はテーブルの上に顔を付けた。
「はい。茉莉花さんは、より、カウンセリングの技術を取得するため、勉強を始めるそうです。長男の由紀夫君は、富士高校を退学して、曾我さんのもとで働きながら、別の高校へ通って、大学受験に向けて、勉強するそうです。弟の曽良夫君も、フリースクールに通い始めて、料理人になりたいと言い出したそうですよ。」
由紀子は、とりあえず、結果報告をしたが、蘭はさらに、もったいぶった顔をした。
「そうじゃなくて、目的は、彼女とあいつが、くっつくことだったのに!なんで、それがぶっつぶれで、人助けみたいになっちゃうんだよ!しかも彼女ではなくて、彼女の息子さんたちに手が回るかなあ。」
「もう、蘭さんがやっていることは、倫理的に、よいことではないです。そんな女の人を使って、何とかしようとするなんて。それは、彼にも、相手の女性の方にも、よくはありません。」
由紀子は、そこを一生懸命伝えようとしたが、蘭に伝わっているのかは、不詳だった。蘭は、その発言に対しても、がっかりした顔をしたままでいる。
「蘭さん、もう、こういう作戦はやめにしませんか?こんな作戦、何も役に立てはしませんよ。その相手の女の人も、水穂さん本人に対しても。」
「あー、もう!」
びしゃん!と蘭は、でかい声で言って、またテーブルをたたいた。
蘭さん、あきらめてくれませんか、もう意味がないんだってわかったのではないですか?と、由紀子が言いかけたその瞬間、
「いや、もうしばらくこの作戦は続けるぞ!また、富士市内で桐朋卒の訳ありの美女を探してくるんだ!」
とでかい声で言う蘭。
「なんでです!」
由紀子は、思わず、抵抗勢力のような感じで、そう言い返したが、
「いや、そうでもしなければ、あいつは変わってはくれないさ!」
と、蘭はさらに言い放った。
由紀子は、蘭さんまた、私のいうことを聞いてはくれないのね。それでは、私も、蘭さんには話したくないわね、水穂さんの事。
「で、奴はどうなんだ。現状は?」
と蘭は由紀子に聞いてきたが、
「私、知りません。なかなか、あちらにもいけませんので。それでは失礼します!」
と、由紀子は、でかい声で言い返して、蘭の家を出ていった。
蘭も、気が張っていたが、本当はとにかく、心配でならないという気持ちを隠せなかったのである。
空は青空。
水のような青空。まるで人間の悪事を、すべて否定するような青空。それでいいじゃないかと、言っているように雲が流れていた。
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