先生の地図帳
木下青衣
先生の地図帳
高校の、卒業式の日の、朝。一生に一回しかないその時を、私は今迎えている。
進路は決まっているし、制服のシャツにはちゃんとアイロンをかけた。後はこれから、学校に行って、卒業式に出席するだけ。それなのに私の心は、卒業をする準備なんてちっともできてない。
今日は、学校に持っていくものより、持って帰るものの方が多い。これから受け取る卒業証書や卒業アルバム。それに、学校に置きっぱなしにしていた上履きとか、参考書とか。だからカバンの中にはほとんど何も入っていない。それなのに、カバンの持ち手がぐいぐいと体に食い込むような気がして、気分まで重くなる。
理由はわかってる。カバンの中に入っている、一冊の地図帳。先生から借りたもの。今日、返さなければいけないもの。本当は受験が終わったらもう返さなければいけなかったのに、いろんな言い訳を心の中でしながら、今日まできてしまった。だけど、もうこれ以上は引き延ばせない。
この地図帳を先生に返して、それでようやく私は卒業することができる。
地理準備室には幽霊がいる。
きっかけは、高校三年生になった四月に聞いた、そんな怪談だった。
「でね、下校時間を過ぎた地理準備室に近付くと、中からカリカリ、カリカリって引っかくような音が聞こえて」
「猫でも入り込んだんじゃないの?」
「違うよ、だって『出してー、助けてー』って声が聞こえることもあって」
「猫が出してほしがってるんでしょ」
「猫はしゃべらないよ! そうじゃなくて、昔この学校にいた生徒が地理準備室に閉じ込められたまま死んじゃって、幽霊になった今でも出ようとしてるの!」
「猫はしゃべらないし、幽霊だっていないよ」
絵里が目を輝かせて話すその怪談は、今や学校中に広まっているらしい。私が怖がらないのが絵里は不服なようで、「もー、優子は本当にロマンがないんだから!」と頬をふくらませた。
昼休みはきまって絵里と二人で昼食を食べる。食べ終わってしまえば他にすることもなくて、二人でうだうだと話をして時間をつぶす。絵里が地理準備室の幽霊について話し始めたのも、そんなどうってことない昼休みのことだった。
「それで、その怪談がどうかしたの?」
「実はねぇ、絵里、今日の朝、宮原先生とすれちがったんだけど、五時間目の前に地理準備室に資料を取りにいけって頼まれて」
地理の宮原先生。気難しそうな顔で、小難しい授業をする先生だ。
「それで?」
「だから……ね? 優子は怖いの平気でしょ?」
私の手を取り、上目遣いでこちらを見つめてくる絵里。先生に注意されない程度に引かれたアイラインとアイシャドウ。そのキラキラに気圧されて、私は思わず「わかったわかった」と頷いていた。
「代わりに行ってくればいいんでしょ?」
「やったー!優子ちゃん好きー!」
ぶんぶんと手を大きく揺さぶられる。
「地理準備室に入ればわかるって先生言ってたからー。巻物みたいな地図? だって。」
絵里はずるくて潔い。本当は絵里だって怪談なんて信じていなくて、ただただ地理準備室に行くのが面倒で私に押し付けたのだろうし、私はいいように利用されているだけなのかもしれないけれど、そんな絵里が私は嫌いじゃない。私と対極にいる絵里。私は絵里のようには生きられないし、そんなふうになりたいとも思わないけれど、きっとこの世の中は、絵里のような子の方がうまく生きていけるんだと思う。
川の字のように南北に三棟並んだ校舎のうち、三年生の教室があるのは一番東側の第一校舎だ。真ん中の第二校舎には一・二年生の教室、そして西側の第三校舎には、各教科の準備室や文化部の部室が入っている。しかも私や絵里のいる三年一組の教室が第一校舎の北端にあるのに対して、地理準備室は第三校舎の南端。辿りつくには廊下を延々と歩き、階段をのぼらなければいけない。絵里が私に押し付けるのも頷ける距離だ。私自身、地理準備室に行くのは今日が初めてだった。
ようやく到着した地理準備室は、怪談話が流布するのも納得できるほど、独特の雰囲気が漂っていた。地理準備室だけじゃない。右隣の歴史準備室も、左隣の国語準備室も。ほとんどの先生は普段ずっと第一校舎の教員室を利用していて、第三校舎の準備室は物置代わりになっていると聞いたことがある。ひんやりとした埃っぽい空気に、傷んだドア。電気は寿命が近いのか、チカチカと着いたり消えたりを繰り返している。怪談話は信じないけれど、こう埃っぽいと虫やらネズミやらがいるんじゃないかと、背筋に冷たいものが走る。急いで目当てのものを持って帰ろうと、ドアを叩く。少し待っても返事はなくて、勝手に入ることにした。建てつけが悪くなっているのかギシギシというドアを開けると、紙のにおいがすっと鼻に流れ込んできた。
「失礼しまーす…」
そっと部屋に足を踏み入れる。電気は点いていなくて、カーテンの隙間から漏れる光だけがうっすらと部屋の中を照らしている。教室の半分ほどの、小さい部屋。壁には天井まで届く高い本棚が取りつけられ、ぎっしりと本や雑誌のようなものがつまっている。散らかってはいないけれど、古い紙が大量にあるからか、なんだか少し埃っぽい。
部屋の中央には長机が一つと、長椅子を挟んで向かい合うようにパイプ椅子が二脚。確か絵里は、行けばわかると言っていた。はやく見つけて帰ろう。そう思って長机に近付いたとき、
「ひっ」
思わず声が出た。人が、いる。長机の奥、ちょうど入口からは死角になっていたところに、一人の男性がいた。本棚に背中を預けて床に座り込み、うつむいて本を読んでいる。私の声に気付いたのか、その人は本から顔をあげてこちらを見た。
そしてその瞬間私は、この人誰だろうとか、全然知らない人だけど不審者だったらどうしようとか、そんな恐怖はすべて忘れて、ただただその人に見とれていた。特段顔が整っている、というわけではないと思う。黒い髪に切れ長の目、大きな眼鏡。三十歳くらいだろうか。
部屋に細く漏れ入ってくる光に、部屋の埃が舞っている様子がきらきらと輝いてみえて、その人の周りをふわふわと舞っている様子は、なんだかとても美しいもののように見えた。
一瞬にも永遠のようにも感じられたその時間は、鳴り響いたチャイムの音で終わりを告げた。五時間目まであと五分の予鈴。
「 授業、始まってしまいますけど、大丈夫ですか」
その人が口を開いた。とても穏やかな、ふかふかの毛布みたいな声だった。
「えっと、地図を取りに来るように頼まれて、それで」
「ああ、じゃあそれのことですね」
その人の視線の先をたどると、部屋の隅に立てかけてある細長い巻物のようなものが目に入った。
「あ、ありがとうございます。失礼しました」
私の肩までくらいの長さのあるそれを手に取って、準備室を出る。ドアを閉めようとしたときには、その人はもう足元の本に視線を戻していた。
それが、先生との出会いだった。
校門をくぐると、不意に後ろから声をかけられた。
「優子ちゃん! 卒業おめでとーう!」
「絵里だって卒業するんだからおめでとうは変じゃない?」
「もーう、優子ちゃんは細かいなあ」
絵里はぷーっと頬を膨らませると、ぺたぺたと腕をからませてきた。
鼻の先を掠めた絵里の髪はいつもよりふんわりと巻かれていて、甘い花のような香りが漂ってくる。そういえば絵里は、バレーボール部のキャプテンに今日は絶対に第二ボタンをもらうのだと意気込んていた。
「ねー、優子ちゃん」
「ん?」
「卒業したらもう会わないかもだけど、絵里、優子ちゃんと友達でよかったよ」
「どうしたの、急に」
「んー……なんとなく?」
珍しく真剣な顔で、絵里が私の顔を覗き込む。うっすら引かれたアイライン、キラキラと目元を彩るアイシャドウ。
「たぶんねぇ、優子ちゃんは絵里のことそんな好きじゃないだろうけど」
「そんな」
ことない、と言い終わる前に、
「絵里がわがまま言っても、優子ちゃん絵里のこと見捨てずにいてくれたでしょ?嬉しかったの」
そうして屈託のない笑顔で笑う絵里の顔に、喉が詰まった。
「優子ちゃんもさ、今日はちゃんと気持ち伝えなよー?」
行くんでしょ? いつもの所。何もかも見透かしたようにそう言うと、絵里はじゃーねー、と離れていった。
気持ち。私はいったいどんな気持ちを、先生に伝えたいんだろう。こんな私が、一体先生に何を伝えられるっていうんだろう。
放課後、地図を準備室へ戻す役目を背負ったのは、やっぱり私だった。「お願いっ!」と上目遣いで私を見つめてくる絵里には勝てない。
昼休みに訪れたばかりの地理準備室へと向かうと、その人は、まだそこにいた。部屋に入った瞬間に目が合ってしまったから、なんとなく帰りづらくて、パイプ椅子に腰掛ける。
「僕は、先生ではないんですよ」
とその人は言った。
「先生じゃなかったら、なんなんですか?」
「先生見習い、というところでしょうか」
早見、と名乗ったその人は、二学期から正式に地理の教師としてこの高校に赴任する予定で、今はその予習としてこの地理準備室に通わせてもらっているのだと語った。
「秋からは先生なら、やっぱり先生じゃないですか」
「そうともいえますが……やはり先生と呼ばれると気恥ずかしさがありますね」
そう言って先生の口元が柔らかく微笑む。
「ところで、君は?」
小原優子です、と名乗ると、先生はしばらく私の名前を口の中で転がすようにしてから、
「優子さん」
「……はい」
「うん、とてもいい名前ですね」
父親以外の男性に下の名前で呼ばれたことなんて初めてだった。その人の声で聞く私の名前は、今ここにいる私とは誰か別の人間のことのようで、戸惑ってしまう。
「どういう字を書くんですか」
「優しいに、子供の子で」
「なるほど」
先生はよれよれのワイシャツの胸ポケットから手帳と鉛筆を取り出すと、手帳を開いて『優子』と書きつけた。
「……先生、左利きなんですね」
「そうなんですよ、けっきょく直さないまま今まで生きてきてしまいました」
「でも、すごく字がきれいです」
「そうですか? 初めて言われました」
本当に先生の字はきれいだった。線はまっすぐと伸びていて、少し右上がりの字。先生の字の中の私は、まるで汚いところのない、純粋な女の子みたいだった。
「先生は、毎日この部屋にいるんですか」
先生のことがもっと知りたい。このきれいで穏やかな人のことを。唐突に、そう思った。
「ええ、学校がある日は毎日来ていますよ。帰りを待ってくれている人もいないので、ついつい遅くまで残ってしまって。この前なんか、居眠りをしてしまって、閉じ込められてしまいました」
「えっ、それで、大丈夫だったんですか」
「ちょうど宿直の用務員さんが見回りにきてくれたので、内側から声をかけて出してもらったんですよ。」
いやぁお恥ずかしい、と先生は頭をかいた。
「あの、先生。今、この学校で流行ってる怪談、知ってますか」
「怪談、ですか」
「はい、地理準備室には幽霊がいる、っていう話が広まっているらしくて」
そうして私が絵里に聞いた話をそのまま話すと、先生はなるほどと頷いてくすくすと笑いだした。
「僕、いつの間にか幽霊になっていたんですねぇ、これは困りました」
ちっとも困っていなさそうに先生は笑う。先生が笑うたび、先生のまわりの空気が揺れて、きらきらと光が瞬く。
「いやはや、これでは教師としては失格ですね。流行っている怪談を知らないどころか、その原因になっていたとは」
「この部屋に誰かいるなんてみんな知らないですから、怪談になるのもしょうがないですよ」
それから、私と先生はいろんな話をした。どうしてだか、今日初めて会ったとは思えないくらい、先生とは自然に言葉を交わすことができた。先生は大学で地理を研究していたこと。私は地理が苦手なこと。研究をやめて教員になると決めた理由。この学校の面白い先生。好きな地層。どれも他愛もない話だったけれど、先生と話すとどれもが宝箱から取り出したようようにきらきらと輝いてみえた。
「ああ、そうだ」
優子さん、と名前を呼ばれて、また胸がきゅっと締まる。
「もしよければ、またいつでもこの部屋に遊びにきてください。僕はいつでもいますから。この学校のことを、もっと教えてほしいんです」
その代わりに、僕に教えられることはなんでも教えます。といっても、地理くらいしか教えられるものはないですが。
先生が何を教えてくれなくたって、私はきっとまたここに来る。このひんやりとした部屋で、美しく座っている先生に会うために。
私が先生のことを好きになってしまったことだけは確かだった。それが、例えば恋という気持ちかどうかがわからないけど。地理準備室を出たときにはちょうど太陽が一日の役目を終えようとしていて、生ぬるい風がそっと私のスカートをはためかせていった。
最初は物珍しかった第三校舎のひんやりとした空気も、今ではすっかり慣れてしまった。
地理準備室へ向かうのだって、今日が最後だ。
会いたいと思った。でもそれ以上に、会えなければいいと思った。地図帳は返さなければいけないけれど、先生と何を話せばいいのかわからない。
ぎゅっと唾を飲み込んでから、ギシギシというドアを開ける。
「ああ、優子さん、おはようございます」
「おはようございます、先生。……スーツ、汚れちゃったんじゃないですか」
「あ、つい……この姿勢が落ち着くものですから」
いつものように、先生は本棚に背中を預けて床に座りこんでいた。卒業式の今日はせっかく久しぶりに先生のスーツ姿をみる機会だったのに、中のシャツはやっぱりよれよれだし、座り込んでいたからズボンはすっかりしわしわだ。
「優子さん、ご卒業おめでとうございます」
「……ありがとう、ございます」
「もう一年近く経つんですね」
地理準備室の中は一ヶ月前より少しだけ散らかっていた。先生がパイプ椅子に座り直すのに合わせて、いつもそうしていたように、私は先生の向かいに座る。
「優子さんは、進学されるんでしたっけ」
「はい、東京の短大に」
「では、もうすぐ一人暮らしですか」
「そうなんです、でもなかなかいい部屋が見つからなくて」
「東京は人が多いですからねぇ」
そうですね、と頷いた後、言葉が出てこない。
挨拶を交わして、他愛もない話をして。それから私がこの学校のことを話して、先生が地理を教えてくれて。いつもそんな風に過ごしていたはずだった。それなのに、今日はいったい何を話したらいいのか、ちっとも思い浮かばない。
学校がある日はほとんど毎日地理準備室に来ていたくせに、学校がない日に会いにくるほどの勇気はなくて。
一ヶ月ぶりに見る先生は、少し髪が伸びていた。少し開いた窓から入ってくる風が、乱雑に置かれたプリントと、先生の髪を揺らしている。
先生に初めて出会ったその日から、地理準備室に通うのは私の日課になった。
またいつでも遊びにきてください、だなんて。社交辞令なんかじゃなく、先生は本気でそう言ってくれたようだった。
「ああ、優子さん、こんにちは」
「こんにちは、先生」
私が準備室に入ると、たいてい先生は本棚に背中を預けて床に座り込み、何かを熱心に読んでいる。本だったり、書類だったり、地図だったり、読んでいるものは日によってさまざまだったけれど、幼い子どもを見つめるような愛しさに満ちたその眼差しだけは、ずっと変わらなかった。
けれど、私が片方のパイプ椅子に座ると、先生は立ち上がってお尻のところについた埃を払って、向かい側のパイプ椅子に座ってくれる。先生の大切な時間を私が奪ってしまったようで罪悪感が募る。だけどそれ以上に、先生がその眼差しを私だけに向けてくれることが嬉しい。
「もうすっかり梅雨ですねぇ」
「梅雨といえば、なんですけど」
「はい」
「この学校、古いからしょっちゅう雨漏りするんです。去年なんか私のクラスで、授業中にちょうど教卓の上の天井が雨漏りして」
「おや」
「先生の頭にちょうどポタポターって水が落ちてきて。失礼だけど、笑っちゃいました」
「それは確かに、僕でも笑ってしまいます」
そうして、くすくすと笑う。この学校のことを教えるかわりに、先生に地理を教えてもらう。それが、私と先生のささやかな儀式だった。といっても、私が教えられることなんて、こんなどうしようもない日常の欠片ばかりで。それでも先生が本当に楽しそうにくすくすと笑うから、この儀式を言い訳に私はほぼ毎日、この埃っぽい空間に足を運んでいたのだ。
先生は、出会ったときに言っていた通り、夏休みが明けた九月から正式に先生になった。
蒸し暑い体育館での始業式。およそ一ヶ月半ぶりに見る先生は、珍しくスーツ姿だった。けれど、内側のシャツはやっぱりよれよれで、そんないつもと変わらない姿が少し嬉しい。二学期から地理を教えてくださる早見先生です、と学年主任の先生に紹介されて、先生はステージの上で一歩前に足を踏み出す。ぺこり、と頭を下げて、
「早見です。皆さん、これからよろしくお願いします」
全校生徒を見渡す先生の視線が、ふと私を見つけたような気がした。
気のせいではなかったと思う。だって先生の口が、おはようございます、とでもいうように小さく動いたから。この五百人弱の人間の中で、先生がただ私のことだけを見てくれて、ただ私だけが、この先生の声を、言葉を、眼差しを知っている。そのことに、背筋が甘く痺れた。
「優子ちゃん、あの先生と知り合いなの?」
「え、どうして?」
「だって、優子ちゃん、あの先生のことすごく嬉しそうに見てたから」
「そんなんじゃないよ」
「そーお?」
始業式の後、教室に戻る道すがら、絵里が声をかけてくる。ずるいのは私の方だ。先生のことを独り占めしたくて、こんなどうしようもない嘘をつく。もし私が絵里だったら、そうなの、と頷いて、私先生のこと好きになっちゃったかも、なんて話すんだろうけれど、私はどうしようもなく私でしかなかった。
始業式の後は、ショートホームルームだけで解散になる。部活に向かう絵里と別れて、私の足が向いたのはやっぱり地理準備室だった。うだるような暑さの渡り廊下を越えて第三校舎に足を踏み入れると、ひんやりとした空気が肌の表面を撫でて、汗をさらっていく。でもきっと汗の匂いまでは連れていってくれないから、カバンの中から制汗剤を取り出して、首元に吹き付けた。
「ああ、優子さん、おはようございます」
「おはようございます、先生。今日からは本当に先生ですね」
「ええ、そうなんです。なんだか緊張しますね」
そういって微笑む先生は、もうスーツの上着は脱いで、相変わらずのよれよれのシャツ姿だ。部屋の中が涼しいからか、先生は汗なんてかかない生き物のように見えて、制汗剤をもっと使っておけばよかった、と後悔する
「職員室は、使わないんですか?」
「机は準備して頂いたんですが、やっぱり僕にはこの部屋の方が落ち着くので」
それに、と先生が言葉をつなぐ。
「この部屋にいれば、優子さんが遊びにきてくれますから」
ぎゅっ、と抱きしめられたような言葉だった。たぶん、体温が一気に1度くらいあがって、汗がつーっと背中を伝う。
先生、先生はどうしてそんなに私に優しくしてくれるんですか。どうしようもない私に、どうして。私は先生のことが好きです。先生は私のことをどう思っているんですか。私、まだここに来ていいですか。
口にすればきっと崩れてしまうから、きつく手を握り締めて堪える。何か、何か別のことを。この言葉が口からあふれてしまう前に、別の言葉で塞がなければ。
「先生は、どのクラスを担当するんですか」
「そうですねぇ、基本的には一年生のクラスを教えることになります」
「そう、なんですか」
「優子さんのクラスを教えられないのは少し残念ですね」
先生の授業を受けられない、という落胆と。たとえ冗談でも、そう言ってもらえる嬉しさと。その狭間で私の口からこぼれ落ちたのは、まったく関係ない言葉だった。
「実は私、地図帳を失くしてしまったみたいで」
おやおや、と先生の眉が下がる。
「それなら、僕の地図帳をお貸ししましょうか?」
私が返事をする間もなく、先生は立ち上がるとがさごそと本棚の中を探し始めた。
「ああ、ありました」
嘘ではなかった。地図帳は確かに失くしていたけれど、宮原先生の授業では地図帳は全然使わないし、私が受ける短大の入試では地理は必要ないから、地図帳がなくたってまったく困らない。
「少し古いかもしれませんが、よければ使ってください」
「いいんですか?」
「ええ、僕のお古で申し訳ないですが」
「ありがとう、ございます」
それでも、地図帳を受け取ってしまったのは、先生とのつながりを形にしたい我が儘だったのかもしれない。手の中の地図帳は確かに少し色あせていて、お世辞にもきれいなわけではなかった。だけどそのくすんだ白い表紙は、何よりも大切なもののように感じられた。
その日から、私の日課はもう一つ増えた。
地理準備室に行くこと。そして、先生に借りた地図帳を眺めること。
「これを、返しに来たんです」
抱えていた地図帳を、そっと机の上においた。ずっと持ち歩いていたから、もうページの角は先生のシャツみたいによれよれになってしまっている。
「ずっと借りっぱなしで、すみませんでした」
「いえ、いいんですよ。勉強の役に立ったのなら」
地図帳を受け取ろうと伸ばされた先生の手と、地図帳の上の私の手が一瞬触れ合って、私はそのとき、初めて泣き出しそうな気持ちになってしまった。先生、私は、ずっとずっとあなたに触れてみたかった。一年にも満たないくらいの時間しかあなたのことを知らないけれど、ずっと好きだった。よこしまな気持ちであなたに会いにきていたから、あなたが教えてくれた国の名前も歴史も全然覚えていないけれど。この埃の舞う小さな部屋で、いつも穏やかに座っているあなたが、好きでした。
恋愛小説みたいに、涙を一滴地図帳の上に落としてみたら格好もついたのかもしれないけれど、ただただ泣きだしそうな気持ちが心臓をぎゅうぎゅうとがんじがらめにするだけで、目から涙が出ることも、口から言葉が出ることもない。言いたいことも言わなければいけないこともたくさんあった気がするのに、頭の中は目の前で困ったように微笑んでいる先生の顔でいっぱいで、何も思い出せない。
「もしよければ、地図帳は、このまま優子さんが持っていてもいいんですよ」
遅刻をした生徒をたしなめるように、先生が小さな声で言った。
「いえ、大丈夫です、もう中身は全部頭に入ってますから」
「そうですか、それはすごいですね」
それなら、これはもう必要ないですね。
先生が地図帳を引き寄せて、私の手が机の上に落ちる。
私はずるい。とてもずるい。本当は必要のない地図帳を借りてまで、どうにかしてあなたに近づきたかった。
絵里のことを妬む気持ちも、興味もない地理の話を聞くために地理準備室に通うよこしまな気持ちも、あなたの前なら、気にならなかった。あなたの声で名前を呼ばれて、あなたの字で名前を書かれたら、私はその時だけはきれいな女の子でいられる気がしたから。私のことをそんな風に、穏やかな眼差しと口調で落ち着かせてくれるあなたが、とても好きだった。
ぎゅっと手を握りしめると、聞き慣れたチャイムの音が鳴った。ショートホームルームまであと五分の予鈴。
「優子さん、行かなくていいんですか」
ホームルーム、始まってしまいますよ。
先生は最後まで優しい。見れば、先生は困ったように眉を下げて、私のことを見つめている。少し茶色がかった瞳が、ゆらゆらと揺れている。耐えられなくて、目を逸らした。
「先生、私は」
「はい」
視線を落として、地図帳を持った先生の手をみつめて話す。
「先生とお話できて、よかったです」
「はい」
「今まで、ありがとうございました」
口にできたのはそれだけだった。それでもたぶん先生は、私の気持ちなんてもうずっと気づいていて、それでも何も言わずに私と話してくれて。私は数年後には今日のことなんて忘れているかもしれないけれど、先生との思い出だけで、しばらくは生きていける気がした。
今日は、持って帰るものの方が多い。卒業証書に卒業アルバム。それに、先生への気持ち。心の中に大切にしまって、地理準備室を出た。私は今日、高校を卒業する。
先生の地図帳 木下青衣 @yuukiaoi
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