第5話 betting/risk one's life


  「……美鈴ちゃん、ベルト・モリゾの『マンドリンを弾くジュリー』が好きって言ってたけど、覚え違いじゃなかったら、あれは個人蔵なんだよね。どこでみたの?」

  画集かウェブのライブラリー。どちらかだろう、どちらかであってくれ。

  「他言しないでくださいね……」

 それだけで、わかった。

  彼女の家にそれがある。そして、それを新しく所有した人間を、葛飾はよく知っている。

  「ごめん、やっぱりあんたの家庭教師、なるのやめるわ」

  代金として紙幣をテーブルに置いて立ち上がる。柊美鈴は驚きを隠せないようだ。

  「そんな、どうして」

  「………あんたの母親、柊絵里子?あたしはそいつと、そいつが関わるなにもかもが大っ嫌いなんだわ」

  吐き捨てるように突き放す。視線には気づかないふりをして、葛飾は店を出た。

  「待って、待ってください!」

  外に出ても、憎い女の子供は追いかけてくる。

  「うるさいな、あんたに用はないよ」

  「私は、私は松井栄子さんに用があります!」

  下の名前だけでなく、かつての本名をフルネームで言われてしまうと、足を止めてしまうしかない。

  「…………なんで、それを知ってる」

  一度は捨てた名前だ。博士論文を剽窃したとして研究者失格の烙印をおされた、学会の恥さらしと言われた人物。

  「……母と同じ美学研究室でしたよね。アルバムで拝見したことがあります。そして、母が唯一各種パーティーに招いていない研究室メンバーです」

  「だからそれがなんだって」

  「私は、松井さんの修士論文、それと天野栄子名義の論文も、母の論文も読んだことがあります。そして私は一つの仮説をたてています!」

  葛飾が名前を変え、発表した論文を彼女は読んでいるという。権力を利用して破棄された紀要をどこから見つけてきたのやら。

  「私の母は、学生時代に葛飾さんの論文を盗んだのでは?そして、母の階級から葛飾さんの訴えは無視されて汚名をきせられ、学会に居場所がなくなり、表で研究職や資格を活かした職に就くことが」

  「ああそうだよ!おまえの母親には恨みしかないよ!だから早くあたしの目の前から消えろ」

  「嫌です!」

  怒鳴り声に震えながらも、少女はその場に踏みとどまった。

  「私は間違いなく、柊絵里子の子供です。それをなくすことはできません。だから、私は母のしたことの責任をとります。葛飾さんが、生きている間に名誉を回復して、社会も変えたい。だから、お願いです」

 ぼろぼろと涙を流す姿に、やっと年相応の片鱗がみえる。

  「私に、力を貸してください………」

  反則だ。涙を流すのは。

  「……ずるいわ。子供が親の責任をとる必要はないよ。それにあたしは、あんたに恨みがあるわけじゃない」

  「でも……」

  「あんたの母親は間違いなく好きになれない。だから、雇用主はあんたにしといて。あたしはあたしで戦うけど、母親とのやりとりは基本的に任せる」

  「では、家庭教師を……」

  顔を上げた女の子に、ハンカチを貸してやる。

  「20年以内に社会をかえてくれるなら、引き受けてもいいよ。スパルタだけど、覚悟はある?」

  「もちろんです」

  「おっけー。じゃあ、これからよろしく」

  出された手を握ると、高い温度を感じた。

 いつからか諦めた自分を叩き直してくれるなら、昔を思い出させてくれるなら。家庭教師も悪くないだろう。

 この子に賭けてみることも。

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メリトアリスト 香枝ゆき @yukan-yuki

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