第4話 木堺優という希望①


 照りつける夏の日差しが眩しい。澄み切った青い空を見上げると、どこからか蝉の鳴き声が聞こえてくる。


 しゃわしゃわと羽を震わせているのはクマゼミだろうか。蝉の鳴き声は「みーんみーん」というのがオーソドックスだと思っていたから、新たな発見だ。


 熱気のある外から病院の中へ入ると、クーラーのきいた涼しい空気が肌を撫でる。アイスでも食べたい気分になるな、なんて思いながら、目当ての病棟へ向かう。


 そこは病院の一番奥にある病棟。裏側の駐車場と雑木林が窓からの眺めだ。でもその窓は一切開かれていない。それは事故防止のためだ。先週も、夜に窓から飛び降りようとしたおじいさんがいたらしい。何でも、「死んでやる」と言いながら、止めに入る看護婦に頭突きを食らわせていたとか。この病棟ではそういった話が絶えない。仕方のない事、なのだと思う。何せ、ここは精神科病棟なのだから。ここでは、誰もが自分と闘っている。



 廊下を歩いていると、消毒液の匂いや汗の臭いが混ざったような匂いがしてくる。でも、ここに通っているうちにそんな臭いにも愛着がわくようになってしまった。

 

 ここは、彼がいる場所だから。


 そう思いながら、ずらりと並んだ病室の中でも最も日当たりのいい場所に位置する病室に足を踏み入れた。入ってすぐのベッドにいた妙齢の女性に頭を下げたが、彼女は俯いたままで反応はない。いつものことだ。私は彼女の生気のないオーラに後を引かれながら、病室の一番奥のベッドに向った。


 そこに彼がいる。


 彼は眠っていた。清潔な真っ白いシーツにくるまって。


 私は窓際にまわり、そんな彼の顔を覗き込んだ。


 伏せられた睫毛は、すうすうと寝息を立てるたびに動き、僅かに開いた唇から吐息が漏れている。その寝顔は幼顔のように無防備で、同時に危うさを感じた。



「……優さん」



 そっと声をかけずにはいられなかった。彼が目を瞑っていると、彼がこのまま起きてこないのではないかと不安になる。

 彼が意識不明だったときのことを思い出して、どうしようもなく胸が締め付けられる。 


 私はそんな苦しい思いを持て余しながら、ベッドに設置された折り畳み式テーブルに目をやった。そこには参考書が山になって積んである。


 昨日も頑張りすぎたのかな……。

 真面目な優さんのことだから、消灯時間は守っただろうけど。

 

 彼は頑張りすぎるきらいがある。何かをなすためには、自分の身を削ってでもやり遂げようとする。それは、受験時に身についてしまった癖なのだと、彼は笑っていたけれど、彼の周りの人たちは気が気じゃないだろう。

 彼にそうするように促した私でも、心が痛い。

 今の彼にとっては、私と同じ大学、つまり芸術大学に通うことが目標なのだ。

 私がそう勧めたとき、優さんは目を輝かせながらそこに行きたいと言った。その生き生きとした目が、私にとって希望だった。

 私も優さんと一緒に大学に通いたかったし、彼自身も望んでくれるなら応援したいと思った。だけど、彼の追い込みすぎる様を見て、本当にこれで良かったのかと、たまに分からなくなる。



 優さんが幸せになってくれれば、それでいいのに……。


 「幸せ」がわからない。彼にとって何が「幸せ」なんなのだろう。

 

 私達は、一緒に生きると約束した。一緒に幸せになろうって、独りにしないって誓いあった。

 私は優さんを幸せにしたい。笑顔でいてほしい。苦しい姿は見たくない。もう、優さんは今までずっと苦しんでいたのだから。

 だから、これからは楽しい日々を送ってほしいのだ。


 だけど、一緒に大学に通うことは、そこに繋がるのだろうか。「幸せ」になるのだろうか。



「……凛さん……」



 優さんの声がして、私はぱっと彼の方を向いた。優さんは細んだ瞳の奥でそっと私を見つめていた。


「おはよう、優さん」


 私がそう言うと、彼はなにか言いたげに唇を震わせた。そして、真っ白いシーツの中から右腕を出し、私の方へと手を伸ばした。


 私は躊躇いもなくその手を握った。寝起きの暖かな体温が、私の左手に伝わってくる。



「……おはよう、凛さん」



 彼はやっと表情を動かして笑顔を見せた。


 最近はいつもそうだ。彼は目を覚まして私の姿を認めると手を繋ぎたがる。少し恥ずかしいけれど、優さんが赤ん坊のように強請るので、されるがままになっている。


 私もまんざらではないのだけれど。

 彼の手は薄いけれど、ちゃんとした男の人の手をしていた。私の手よりも一回りも大きく、その手に包まれていると安心する。

 父親以外の男の人の手。優さんの手。

 

 生きてるんだなぁ……。

 優さんの熱を感じながら、鼻がツンとしてきた。生きていてくれさえいればいいんだ。今更、再認識する。優さんが大切だって。


 今は、それだけでいいのかもしれない。多くを望まなくていいのかもしれない。

 強く握り込まれた手の温もりを感じながら、私はそっと思った。






「もうすぐ退院できるんだ」



 優さんはある日そう言った。夏も半ば、キャミソール一枚でも汗をかくほど暑い日だった。



「もう、大丈夫なの?」



 私はひとしきり喜んだあと、そう聞いた。優さんは救命病棟にいる期間も含めれば、一年半も入院生活をしている。それは入院しなければならない理由があるからで、決して侮ってはいけないことだ。それは素人の私でもわかる。


 でも優さんは私の心配そうな表情を汲み取ったのか、安心させるようにふっと微笑んだ。



「大丈夫だって病院の先生が言っているから。母も納得してくれたみたいだし」

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独りになりたい少年少女 Re moe @moe1108

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