車椅子の音楽家

真波潜

車椅子の音楽家

 僕は画面を真剣に見つめていた目を一度閉じると、慣れた手つきで分厚いヘッドホンを外した。


 少し根を詰め過ぎた。目の下に、瞬きを忘れていた証の涙の筋がいくつか通っていて、指先でそれを拭う。


背凭れに体を預けると、深く息を吐いて目を開けた。


 目の前には3つのモニターと、電子ピアノの鍵盤、メール用のキーボードが机の上を占領していて、他には簡単にメモを取るための付箋とペンが置いてあるだけだ。外したヘッドホンは机の端に取り付けた物かけに適当にぶら下げた。


 エアコンを効かせている為に、膝掛けをする程冷えた三畳程の書斎の空気を温めようと、窓を少しだけ開ける。


 薄く開けた開けた窓から、蝉の合唱に混じって微かに聞こえるピアノの旋律は、6年前、この部屋に越してきた時よりもずっと滑らかな音色を奏でている。


 男の子か女の子かは分からないが、子供の演奏だろう。指運びは滑らかになったが、まだ曲に込められた感情は単調で単純で純粋だ。


その日その日で込められる感情も違う。今日はひどくご機嫌に音が弾んでいる。何か良い事でもあったのだろう。


 その音につられるように少し微笑んで、僕はまた、分厚いヘッドホンを耳にかけようとした。が、家のドアが開く音がしてその手を止め、ヘッドホンをまた物かけに戻した。夏江が帰ってきたのだ。


 椅子ごと振り返ると同時、部屋のドアがノックも無しに開けられる。彼女は遠慮しないのだ、僕が集中している時には何も聞こえないと知っているからだろう。


「はい、ご注文の。今日は暑いねぇ、ここは涼しいけどさ」


「ありがとう、夏江。今日は猛暑だってニュースで言ってたよ」


 彼女は部屋のドアを後ろ手に閉めると、つかつかと近寄ってコンビニの袋を此方へ差し出した。


中に入っているペットボトルのカフェオレは、汗をかいてビニールに張り付いている。


 汗をかいているのはそのビニール袋を持っている彼女もで、Tシャツにも少し汗染みが出来ていた。僕は恭しく両手で袋を受け取り、頭を下げてふざけて見せる。


「暑い中御足労願いまして有難うございます」


「ふふ、いいって事よ。……猛暑ねぇ、だろうねぇ。道路がさ、空焚きしているフライパンみたいにちんちんになってたもの」


 夏江は時々……上品という意味では無く……古風な言葉を使う。ちんちんになっていた、なんて言い回しをするのは、僕の周りでは彼女位だ。


「夏江の丸焼きが出来上がるね」


「やだ、そんな日焼けしてる?」


 あわてて自分の腕を裏返したり伸ばしたりして見るものだから、面白くなって僕は破顔した。


彼女の所作の一つ一つが、面白く、そして可愛らしい。出会った時にはこういう風に彼女を見るようになるとは、夢にも思っていなかった。


「ううん。でもフライパンに乗せたらこんがり焼けるだろうね」


「だからこの家で一番涼しい所に逃げて来たんじゃない」


 狭い部屋の中、座る場所もないから、彼女は僕の脚の上に遠慮なく腰掛けてコンビニの袋を漁った。自分の分の清涼飲料水を取り出して蓋をあけると、一気に三分の一ほどを飲み干す。よほど暑かったのだろう。


 椅子にされてしまった僕は、苦笑して彼女を見上げる。


「こら、こら。僕はまだ仕事中だよ」


「今はどうせ休憩中でしょ。私のたまの休みにお使いさせたんだから、このくらいはご褒美くれてもいいじゃないの」


 確かにその通りなのだが、僕は苦笑して胸の内をそのまま言葉にする。


「こんなのでご褒美になるのかなぁ……?」


「はー、ひんやりして気持ちいい」


 彼女はそんな僕の所感を気にせず、僕の刈り上げた頭に自分のポニーテール頭を乗せて頬ずりしている。


「僕とパソコンはずっと冷やされているからね」


「風邪引かないようにするのよ。機材は冷えてた方がいいでしょうけど、アナタはそうじゃないんだから」


「はい、先生」


 母親のような注意をされて、神妙な様子で頷く(当然、これもおふざけに過ぎない)と、気をよくした夏江はふんぞり返って不敵に笑った。


「素直でよろしい。……あの子、うまくなったねぇ」


 しみじみと夏江が言う。そう、うまくなった、素人の夏江が聴いても分かる程。


越してきた頃は、まだ練習曲をたどたどしくなぞっていた旋律は、今は好きな曲を好きなように弾いている。


「ね、僕もそう思っていたんだ。すごいね、子供が成長する速さって」


「私たちも作る?」


 僕の言葉に彼女がすかさず返して、小首を傾げて顔を覗き込んでくる。全く、ふざけているのは目の色で分かるが、性質が悪い事この上無い。


「だから、僕、まだ仕事中なんだけど」


「やぁね冗談よ。私にはアナタっていう大きな子供がいるからね~~、よしよし」


「僕が子供かぁ……、きっと大変だろうね」


「母は強しよ。なんて事ないわ」


「……本当に?」


 冗談の応酬から間を開けて、僕は真剣な眼差しを夏江へと向け、そしてその重さに耐えきれず床に目を下ろした。


彼女は気にする様子も無く、僕の刈り上げ頭をポンポンと手で叩く。


「じゃなきゃ結婚なんてしないわよ、馬鹿ね」


 誰よりも僕を理解している夏江は、可笑しそうに笑って軽く告げる。


その言葉がどれだけ僕を救うのか、彼女には自覚が無いのだろうか。夏江は僕の理解者だが、僕は彼女を未だに理解できないでいる。


僕が不安そうに視線を上げると、笑った彼女の視線とぶつかった。その表情にほっとして、僕は腕の中に彼女を閉じ込める。


「アナタはなんでそう、自信がないのかしら。こんなに素敵な人他にいない、って私が思っているのに」


 それはね、夏江。僕が。


僕のこの両脚が動かないからだよ。


きっとこれを言葉にしたら、夏江は烈火の如く怒るだろう。そんな目に見えて危ない橋を渡る暇は無いので、僕は抱き締める腕に力を込め、そして手放した。


「ごめんね。君みたいに素敵な奥さんが居るのに、自信が無いだなんて失礼だった」


「素直でよろしい」


 じゃあ行くわ、と夏江は僕の脚から降りた。


脚の上の温もりが瞬時に霧散する。あっという間に冷えてしまう。少しだけ名残惜しい。


「夕飯は焼きそうめんにしましょ。お昼のがあまっちゃって。……アナタね、仕事に没頭するのはいいけど、夕飯はちゃんと食べてもらいますからね」


 無理矢理にでもヘッドホンをひっぺがすわよ、と意気込んで部屋を出て行った彼女を見送る。


ふと、窓の外から聞こえてくる旋律が変わった。ひどく懐かしい、僕に過去を思い起こさせる曲だ。


マイナーな筈なのに、どうしてこの曲を弾いているのかは分からなかったが、この旋律を耳にして、僕はまた、仕事に戻る気にはなれずにいた。そっと目を閉じ音に体と記憶を委ねる。


 彼女、彼、どちらかは分からないが……、僕の曲を弾いてくれている。


僕の脚が『動いていた頃』に作った曲だ。デビューは目前でも、インディーズとしてしか活動していない。


 興を引かれて車椅子のストッパーを外し、窓に近づき大きく窓を開けた。


演奏はたどたどしいながらも、おおむねのメロディーと音階は合っている。そこにピアノらしく和音を足して、アレンジしてある。所謂耳コピというものをしたのだろう。演奏の上達具合から見て、彼女の父か母が、僕の曲を聴いていた人なのだろう。


十年前、僕はバンドマンだった。小さな箱をいっぱいにして、そこそこ人気もあって、手作りのCDやTシャツを物販して。


メジャーデビューの話が来て、浮かれて呑み明かした日の朝、歩道で信号を変わるのを待っていた僕に、車が突っ込んできた。いや、その日は前後不覚になるまで呑んでいたから、僕がふらりと道路に出たのかもしれない。それはもう、示談も済んでいる。


入院中、動かない体に、自由に弦を弾けない指に、掠れた喉に、どれほど絶望しただろうか。今も大きな声を張り上げる事は出来ないし、長時間ギターを持つ事は出来ない。脚はいい、すぐ諦めがついた。歩けない事は、僕には大した問題では無い。


音が出せない。この苦痛に勝るものは、何もなかったと言ってもいい。


僕が人生を放棄しかけた入院3年目、夏江と出会った。僕の担当のリハビリテーション医として新人の彼女が配属された。おそらく僕が、何事にも従順で扱いやすい患者だったからだろう。すべてを諦めている人間とは、すわそういうものだ。


最初は従順な僕に、夏江は優しく接していたが、次第にこれがただの諦めだと理解すると、夏江は怒った。それはもう、鬼のように。


夏江自身が泣きながら、なんでよ、やりたい事の一つもないの? できるのに。まだ、たくさんの事ができるのに。そう泣き叫んだ。


夕暮れのリハビリ室は空いていて、その日は僕と夏江だけがそこにいた。


できる、という言葉を自分の口でそっと反芻する。できる、と。何度か口にして、それが真実なのだと悟った僕が、今度は泣いてしまった。いい大人の男が、年下の女性の前で泣くなんて恥ずかしいことこの上ないと今は思うのだが、そのできるという言葉を僕にくれたのは彼女だけだった。


『もう、歩けませんね』


『演奏? いや、今の状態では日常生活も……』


 そんな言葉ばかりが僕の中を占めていた。それを、夏江は怒って、泣いて、無理矢理蹴破った。できる、と心底から言ってくれた。


僕は夏江に懇願した。どうしても、どうしても音を出したいと。曲を作りたい、演奏したいと。


夏江はそれを了承して、脚よりも指先や腕の筋肉をつけるリハビリのメニューを組んでくれた。新人ながら、一生懸命に僕に向き合ってくれる姿は、僕に少しずつ生きる気力を取り戻させてくれた。


その時には、もう脚は動かないとはっきりと診断されていたからかもしれないが。


諦めた分、夏江の組んだメニューで少しでも体の自由を取り戻していけた事が、どれだけ嬉しかっただろうか。


僕が夏江に惹かれるのは当然だったし、彼女が僕のようなハンディキャップを抱えた人間に何の偏見も持っていないのは、彼女の職業からして明らかだったので、彼女も僕を好いてくれた。


告白した日の、赤く染まった頬を少しだけ綻ばせた顔が忘れられない。


思い出に浸っているうちに、窓の外のピアノの旋律がいつの間にか変わっていた。


今度はクラシックを奏で始めたようだ。有名な、優しく包み込むような曲を、スキップでもするように弾く。滑らかな指使いが、今日の気分を反映して弾んでいる。


僕は少しだけ口元に笑みを残したまま窓を閉めた。机の前に車椅子を動かすと、仕事の定位置に着く。


重たい、分厚いヘッドホンを着けて、一度目を閉じる。集中するスイッチを入れて、静寂の中で僕の中の音を探る。


 目を開けた時には、もう音楽の事だけを考えていた。頭の中には、音楽だけが充満していて、僕の自在に動く指が、パソコンの画面の中に音を記して行く。


 僕は車椅子に乗っている。今は、子供むけの練習曲や、映画音楽を作っている。


僕は音楽家。車椅子の音楽家。

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車椅子の音楽家 真波潜 @siila

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