俺がペット

樹一和宏

俺がペット


 実に運が良かった。

 大学三年生の後半から始まる就職セミナーなんて何の足しにもならないと高を括って、迎えた四年生の四月。就職活動はどうやら三年の夏休みから始まっていたらしく、急に眼鏡を掛け始めた七三ヘアーの友人達から次々と就職レースから勝ち逃げをしていった。

 四年の四月から就活解禁だからと三月三十一日まであぐらどころか、腹を出して寝ていたのが良くなかった。しかし、某電気会社の営業の面接を受けると、有ろう事か障害物競走のハードルを潜り抜ける容易さで一次二次と合格通知を貰い、大型連休を控えた七月頭に、俺は内定を貰って就職レースから抜け出すことに成功した。

 うわははは。世の中ちょろいぜ、ちょろちょろだぜ。

 などと大口を叩き、大型連休に入った初日、ゴリラと見間違うアメフト部の友人と居酒屋で酒に溺れていた。肩を組んで体を揺らし、小学校の校歌などを高らかに歌った。周りの人間なんてお構いなしにだ。


「今なら彼女程度、余裕で出来るぜー!」と繁華街の道路の真ん中で叫ぶ友人と一緒に「そうだそうだ! 三十五億! 三十五億!」と両腕を振り上げた。


 そのぐらい気が大きくなっていた。


 ※

 

 目を覚まして最初、鈍器に殴られたような鈍い痛みを感じた。視界がふらつき、頭の中で鉛玉が踊っているようだった。

 霞み掛かった視界。立とうとすると天井に頭をぶつけ、膝をつき、目の前のものに手を掛けた。

 冷たく重みのある鉄の棒の感触。おぼろ気だが、等間隔に囲むように並んでいるように思えた。


「……?」


 眼鏡、眼鏡と辺りを探り、頭の上に掛けていることに気が付いた。そうして視界を取り戻すと、眼前の光景に頭の中が真っ白になった。

 檻の中に閉じ込められていたのだ。しかし刑務所のような場所ではなかった。右に台所があり、その横には玄関、シンクの上の磨りガラスから日の光が見え、正面には押し入れらしき扉があり、左手に見える引き戸の隙間からは寝室らしきものが見えていた。生活感の溢れる品々と、部屋の間取りとを考えるに、アパートの一室にいるようだった。

 そう考えると恐らく、この檻も犬用のゲージか何かなのだろう。それを暗示するように首には首輪が付いていた。

 衣服は、首輪以外身につけていなかった。首輪を衣服の一部と数えていいのかは別の話だが。

 ここは誰? 私はどこ?

 痛い痛いと悲鳴を上げる脳に鞭打ち思い出そうとしても、思い出せるのは友人と一緒に「この通りの飲み屋を全部制覇しようぜ」と三軒目に入った所まで。それ以降の記憶は一ミリ足りともなかった。

 ふと頭に過ったのは、拉致と誘拐だった。どちらにしても身ぐるみ剥がされて閉じ込められているのだから、芳しくない状況なのは確かだった。

 恐怖心が水に落とした墨のように胸の中で広がっていく。

 左手の引き戸の奥で何か動く音がした。ごそごそと音がし、聞き覚えのあるテレビの音がした。


「時刻は七時二十五分! 七時二十五分!」


 どうやら目覚まし派のようだ。相容れない。

 犯人と思しき人物の起床に、思わず息を殺し、檻の隅で縮こまった。

 引き戸の隙間から白い煙が漂っているのが見える。しばらくすると、物音の勢いが増し、どかどかと足音を立て、引き戸が開いた。白く細い生足が歩いてき、檻の前で止まると、覗き込むようにしゃがんできた。


「おはよ」


 裸の女性だった。栗色の髪を背中に払い、寝ぼけているのか半分溶けた眼でこちらを見てくる。


「お、おはようございます」


 わけが分からなかった。疑問に浮かぶことが多すぎて、どこから話を聞けばいいか分からなかった。ただ、ハッキリしているのは初めて見る生の女性の裸というのは、とても魅力的で、何だか食欲がそそられるということだった。


「何か食べる?」と女性は立ち上がり、台所へ向かい出す。

「え、あ、はい……」と思わず返事をしてしまう。

「なんでもいいよね」


 ぷりぷり動く女性のお尻に目線がいってしまう。そうしてしばらくしてから出されたのは、犬の餌入れに使われる容器に入ったツナ缶だった。

 人間の食べ物だが、人間が食べるような扱いではなかった。

 それこそ正に、動物に餌をあげたかのように「どう?」と感想を求めてくる。

 どうって訊かれても……

 そこでようやく「あの、これって一体……」と声を絞り出すことに成功した。

 女性は眉間に皺を寄せると「覚えてないの?」と不本意そうに訊いてくる。


「……はい」

「君の方から頼んできたんだよ?」


 自分からこんな状況を? こんなサファリパークより酷い扱いを?

 当然思い出せるはずもなく、女性はしょうがないなーと言わんばかりにあぐらをかいた。

 見えてる見えてる。全部見えてる。すっごい。

 目のやり場に困り、とりあえず天井を見るが、この時ばかりは目だけ重力が重く感じた。


「凄い、重力に逆らってるね」

「すみません。説明してもらってもいいですか?」


 ※

 

 女性の説明を聞くに、どうやらこんな感じの会話をしたらしい。


「ねぇそこの君、俺と付き合わない?」

「えぇーどうしよっかなー」

「いいじゃんいいじゃん、そんな御固く考えないでさ」

「えー、じゃあペットとかなら考えるんだけどー」

「なるなる! 超なる超なる! 俺犬のマネとか超得意だし!」

「でもうちのアパートペット禁止だしー」

「大丈夫大丈夫! 誰も人間がペットなんて考えないって!」


 必死か! 聞いているだけで恥ずかしかった。なんて馬鹿なんだ。犬というより猿。いや猿以下だ。


「だから合意の上なんだよ?」


 全裸に首輪に檻の中、これが合意? 記憶がないとはいえ、俺がこんな要求を呑んだとは思えなかった。

 酒の席だったんだし、なかったことにしてもらおう。


「あの」と言いかけた直後、女性が「さーて、朝シャンするかー」と立ち上がった。俺には目もくれず、檻の左横にある扉の中へと入っていく。

「あ……」どうしたものか……


 とりあえず身の危険はなさそうには思えた。100%信じていいか微妙だが、この二十三年間の経験上、あの人は大丈夫な人だという判断がなされている。話せば分かる人ようにも思え、一先ずは女性が風呂から上がるのを待つことにした。

 出入口の南京錠を外せないかと弄っていると、トイレの流れる音がした。次にシャワーの音。壁一枚を挟んで、女性が用を足し、シャワーを浴びている。何故だか落ち着かない。いや落ち着けない。落ち着けるはずがない。

 しばらくすると水栓が締められる音がして、女性が扉から出てきた。完全には乾いていないようで、ポタポタと水滴を垂らしながら部屋の奥へと消えていく。

 意を決し「すいません」と声を上げた。


「なーにー」と髪をタオルで叩きながら女性が姿を現す。


 たわわとしたものがぷるっと揺れる。誘惑に負けては駄目だ。ハッキリとここから出ていくと言うんだ。息を飲み、唾を呑んだ。


「……次からは、まともな食事をお願いします」


 女性は満足そうに目を細めると「分かった」とトーンの上がった声を出した。

 日常を捨てでも男を選んだことに、後悔はなかった。


 ※


「ただいまー」と女性が玄関を開けるや否や、バックを放り投げ、履いていたヒールを脱ぎ散らかした。

「おかえりなさい」

「犬が人間の言葉喋んじゃねぇ!」

「キャウン」と、定番のように空いている缶ビールが飛んできて、檻に弾かれた。


 どうやら今日はご機嫌斜めのようだ。


「ったく、あのセクハラくそ上司がぁ」と近隣の迷惑などお構いなしに女性はズカズカと部屋の奥へ消えていく。


 俺がこの部屋に拉致? 監禁? 居候? とにかく、住み出してから一週間が経った。

 隣の住人のいびきが聞こえるぐらいには薄壁なので、叫べば助けは呼べそうだし、体調不良のフリをして檻から出れば力尽くで脱出できそうだし、元々一人暮らしだから家族の心配も大丈夫だし、大学に行く必要もないので、学生最後の夏休みを少しの間この非日常的な場所で過ごしてみるのも面白いと踏み、俺は自分の意思でこの檻から出ることはしなかった。決して出なくていい言い訳を考えたわけでも、いやらしい目的も微塵もない。

 そうこうしていると裸になった女性が現れ、冷蔵庫から缶ビールを取り出し、俺の前に座り込んだ。


「聞け!」

「はい」

「おい!」

「ワン」


 女性が言えば俺はニャーでもブーでもコケッコッコーでも何でも鳴いた。そうすることで女性は心なしか笑ったような気がしたからだ。


「何であいつはいっつも書類持ってくる度に手を触ってくるの!? 手だろうが肩だろうが、同じ空気吸ってるだけでセクハラだって気づかないのかよ!」


 女性の愚痴は決まって会社のことだった。詳しくは分からないがOLらしく、セクハラ上司か嫌味同期の話が多かった。俺はうんうんと相槌を打つことだけに徹する。

 ビールを浴びるように飲むと、「ほらお前も飲め!」とそのまま缶を寄越してくる。檻の中に突っ込まれた手から缶を受け取ると、言われた通りに飲んだ。


「やっぱいいね! 良い飲みっぷりだよ!」


 そうして今日も二本、三本と空き缶を積み重ね、六缶パックをなくした所で女性は寝床についた。

 この生活は地味に楽しかった。裸の女性に檻越しに毎日飼育されている男なんて世界広しと言えど俺ぐらいなものだろう。その俺だけという優越感がなんとも素晴らしい。行動の自由やトイレの不便さはあるが。


 ※


 この生活が続いて、そろそろ一ヶ月が経とうとしていた。

 俺は相変わらず檻の中だが、女性が平日の間暇だろうからと動物ロボットのアイボくんをくれた。名前はチクワにした。特に深い意味はない。女性がいない間に少し遊び、一日も経たない内にチクワは檻の隅で永久のお座りの任に就くことになった。

 そんなことよりも、俺には唯一の喋れる人間である女性の方が気がかりだった。

 平日は朝から晩まで会社で、時折飲んで帰って来ることもあった。休日は家から一歩も出ないというのもざらだった。引き戸が開きっぱなしの時に見える奥の部屋も、乱雑していて、俺の存在を抜きにしても、人を呼べるような状態ではなかった。

 趣味があるようには見えず、家にいる間はずっと携帯を弄っていることもしばしば。

 ただ交友関係は幅広いのか、携帯がひっきりなしで鳴っている。駆けまわる犬みたいに喋るか、丸まった猫みたいに喋るかで、電話の相手が女性なのか男性なのかは一目瞭然だった。

 当然そこで気になるのが彼氏の存在なのだが、どうやら今は気になる相手がいるらしかった。

 いつもの晩酌を共にしている時だった。


「最近好きなのか良く分からない相手がいるの」と喜怒哀楽の哀を放ちながら、女性はその男性の話をしたのだ。


 個人的はあまり面白く聞ける内容ではなかったが、悩みを聞き、同情をし、ほんのちょっぴり背中を押すという中高大で養われた恋愛テクニック(童貞)を遺憾なく発揮させた。

 どうやらそこで俺の好感度が上がったらしく、女性が赤裸々に相談してくる頻度は右肩上がりをみした。

 このまま上がり続け、女性がその男に振られれば、ペットから彼氏に格上げもあるのでは……!

 そんな悶々する日々を送っていたある日。ずぶ濡れになった女性が帰ってきた。


「おかえり」と声を掛けようとしたが、様子のおかしい女性に躊躇った。濡れていたこともそうなのだが、明らかに落ち込んでいたのだ。朝、会社に向かう時は普通だったのに。


 雨の音がやけに大きく聞こえた。女性は今にも電池が切れてしまいそうな足取りで檻の前までくると、ゆっくりとしゃがみ、俺に目線を合わせることなく大きな溜息をついた。


「どうしたの?」

「……振られちゃった」


 めっちゃ嬉しかった。マジかよ。こんなことあるんけ!?

 当然そんな裸の紳士として失礼極まりない態度をするはずもなく、「そっか……」と同情を匂わせるニュアンスで言葉を転がす。その言葉が福と転じればいいのだが。

 すると女性は南京錠の鍵を取り出し、鍵を外した。思いもよらぬ展開。まさか落ち込んだショックで俺に出てけと言うつもりか? そんな最悪の事態を想定し、言うべき台詞を模索する。だが、展開は俺の予想斜め上を行き、なんと女性が檻の中へと入ってきた。

 大人二人が入るには些か手狭。女性のスペースを開けるために体育座りをすると、否応なく女性と密着する形になった。

 濡れた服の奥から女性の体温を感じる。俺がドキドキする一方で、女性は震えていた。寒いのか、悲しいのか。次第に女性はひくひくと声を漏らし始めた。

 どうすればいいのか分からなかった。こうやって女性に寄り添われることも、泣いている所に居合わせることも、初めてのことだった。

 モテ男ならどうする? そっとしておく? 抱き締める?

 抱き締める選択するにしても、これまで一歩引いた場所で恋愛をしてきた経験しかない俺には、そんな一線を越えるような選択するのはかなり勇気のいること。簡単に出来ることではなかった。

 抱け! 抱くんだ!

 理性という鉄格子の向こう側で、もう一人の俺が叫んでいた。

 うるさい! そんなことをして嫌われたらどうする! ここは慎重にいくべきだ!

 しかし、そんな悠長なことを考えている隙に、女性は涙を流し始めるという次なるステップへと移行し始めた。理性の向こう側で俺が言う。

 考えてみろ。何で檻の中に態々入ってきた? つまりはそういうことだろ!

 ……確かに!

 意を決し、腕を伸ばし、肩を抱いた。緊張の一瞬。女性は抵抗しなかった。それどころか俺の方へと体を預けてくる。受け入れられている。そう感じると、俺と女性の波長が合ったのか、自然と体の向きを変え、女性は俺の胸の中で泣き始めた。

 女性の体が冷えないように、そう、あくまで女性の体調を心配して、更に抱き締める。このままもしかしたら? なんてことは一切考えず、ゆっくりと姿勢を変えていき、最終的には寝転がるような姿勢へと持ち込むことに成功した。

 いつの間にか女性は泣き止んでいた。俺に見られないようにか、ずっと顔を胸に押し付けてきている。

 この流れは…… つまり、所謂、あれ、だよな? ……本当に?

 分からなかった。今すぐ携帯で調べたい。OKGoogle「あれ タイミング」

 あれって、こういうタイミングでこういう流れでするものなの?

 ここで俺は、悲しいほどに童貞を拗らせてしまっていることに気が付いた。

 どうしよう。どうすればいいんだろう。足を延ばすと、何かを蹴飛ばした。なんだろうと疑問に思ったが、後回しにすることにする。

 考えを巡らせ、どれぐらいそうしていたのだろう。そうこうしていると、女性が動き出した。


「……風邪引きたくないから、お風呂入ってくるね」

「うん、それがいいよ」


 女性はのそのそと檻から出ると、南京錠の鍵も掛けず、洗面所へと消えていく。

 渾身の溜息が出た。緊張から解放された安堵とか、情けない自分への当て付けとか、その他色々なものが込められている。

 檻から出ることはしなかった。なんだか、女性を裏切ることのようにも思えたからだ。

 蹴飛ばした物を確認すると、永遠のお座りをしていたチクワだった。

 電池のカバーが外れていたので、直すことにする。手に取ると、カバーの裏には「タスケテ」と傷が彫られていた。

 助けてほしいのはこっちだよーっと俺は特に深いことを考えず、カバーを元に戻した。


 ※

 

 それ以降、女性から棘を感じることはなくなった。鳴けと命じられることも缶を投げつけられることもなくなり、まるで同棲しているカップルのようだった。当然、本物がどんな感じかは分からないが。

 そこで晩酌で女性が酔っている時に「俺って君の何の?」と聞いてみることにした。

 すると女性は不思議そうに「ペットだけど」と小首をかしげた。かわいい。

 同時に俺はやっぱり、ペットなんだなと突きつけられた事実に苦汁を飲んだ。

 九月に入ると、女性が貯金通帳と睨めっこしている日が目に付くようになった。微かに聞こえてくるのは「二人は厳しいかなー」という心の声だった。

 終わりが近いのかもしれない。

 俺がいくら檻の中で心を掴む努力をしても、ペットという壁は越えられない。その上、俺をペットとして飼育していく費用にも限界が見え始めていると来たら、もう、この関係を終わらせてもいいのかもしれない。

 次の週末、女性の休みを狙って、俺は出ていくことを告げることにした。


「俺、出ていくよ」


 女性が暇そうにベッドの上で携帯を弄っていた時、切り出した。ピタリと女性の動きが止まる。何を考えているのだろうか。ネジが止まったおもちゃのような沈黙。巻き戻したのか、動き出し、檻の前でしゃがみ込んだ。


「うん、やっぱり二人はキツいよ……」


 笑っていたが、どこか影があるようだった。

 女性は立ち上がると、ずっと開けられることのなかった目の前の扉に手をかけた。どうしてその扉に? と考えるより先に扉が開けられる。その先にあった光景に、俺は驚かずにはいられなかった。

 扉の向こうにいたのは、檻の中に入った裸の友人だったのだ。


「お、おまっ! お前何で!?」

「お前こそ!」


 豆鉄砲をくらったみたいに俺と友人は同じような反応をした。

 説明を求めて女性を見たが、「戦って勝った方を解放してあげる」と展開を更に進め、俺達二人の南京錠を外した。

 無音。張り詰めだす空気。

 友人も困惑していた。女性を見てもホラホラと催促するような顔している。

 戦う? ジャンケンでするのか? でもそんな空気ではない。仮に肉弾戦だとしても、友人は高校から七年間アメフトをやっていたゴリラと見間違う筋肉量だ。以前本気でタックルしたことがあったがビクともしなかった。そんな奴に勝てるはずがない。

 まぁ、それはそれで、都合がいいのかもしれない。正直なことを言えば俺はまだまだ女性と一緒に居たいのだ。

 大きのを一発貰って負けたふりでもしよう。

 檻から出ると、友人も檻から出てきた。丁度中間のとこで合いすると、俺は挑発のつもりで軽く一発ビンタをした。


「いったああああああああああああい」

「っ!?」


 まるで相手にファウルを取らせようと大げさにアピールするサッカー選手のように床をのたうちまわり始める。

 瞬間察した。こいつ、負けるつもりか……!

 見ると、女性は笑っていた。友人の視線を見ると、彼女の反応を伺っている。


「てめぇ! そうは問屋が卸させねぇぞ!」


 床で暴れる友人にダイブし、俺も攻撃される演技をする。

 そこからは酷かった。互いに負けろと八百長で命令されている相撲のようだった。歯が当たれば「噛み付いてきた」と悲鳴を上げ、ヌルリと汗で滑れば「精神攻撃はやめろ」と叫んだ。二十過ぎた裸の男が絡み合う姿は、汚物に汚物をぶっかけたような醜さがあっただろう。


「お前がゴリラなら俺はサルだ!」

「お前がサルなら俺はカブトムシだ!」

「お前がカブトムシなら俺はミドリムシだ!」

「お前がミドリムシなら俺はミジンコだ!」


 自分を卑下することに何も躊躇いはなかった。というか、もはや自分でも何を言っているのか分からない。

 俺の人生史上最も下劣で汚い争いは三十分にも及び、女性が腹を抱えて笑い、ヌメリ合いの末、浣腸してでも起きない強固な友人の気を失ったふりをもって、終了を迎えた。

 不本意ながら勝ってしまった。こんなにも嬉しくない勝利が人類史上かつてあっただろうか。

 見届けた女性は洗濯されていた俺の衣服を持ってきて「ありがとう。楽しかったよ」と目尻の涙を拭いた。

 それはどういう意味でなんだ!? これまでの生活のことなの!? それとも今の戦いのことなの!?

 釈然としなかったが、場の空気的に聞けるわけもなく、俺は未練たっぷりに後ろ髪を鷲掴みされつつ、引き止められるのを期待し、されど何も起こらず、ゆっくりとその部屋を後にした。

 久しぶりの外は快晴だった。目の前の細い路地を人通りの多い場所に向かって歩くと、大通りに出た。一ヶ月ほど前、友人と飲み歩いた場所だ。

 たった一ヶ月前なのに、凄く遠いことのように感じる。久しぶりの外の空気を肺いっぱいに吸い込むと、俺はとある所に電話を掛けた。


 「はいもしもし、事件ですか? 事故ですか?」

 「あ、事件でお願いします」


 ただで終わらせる気は、毛頭なかった。


 ※

 

 翌日、男性二人を監禁したとして、会社員女性二十八歳が逮捕された。全国ニュースで流れ、女性は「趣味でやった」と供述し、監禁されていた男性は「好きで監禁されていた」と述べた。

 思い返せばおかしな点があったのだ。ペット禁止のはずなのに、用意周到な檻や動物の餌入れ、電池カバーのタスケテの文字。昔から俺みたいな輩が幾度となく入れ替わりしてきたのだろう。

 もっと早くに気づけばよかった。……だけど、気付かなかったからこそ、俺とあの人の一夏のあやまちは一ヶ月も続いたのだ。あの時抱いた感情は結末から見れば、間違いだったのかもしれないが、当時の俺にとったら久しぶりに恋をした水を得た枯れ葉の気分だったのだ。きっと、忘れることは出来ないだろう。

 何年経っても、夏が来る度に思い出すに違いない。あの日々のことを。

 

 その後、警察の調べで、檻の床の下から複数の男性の死体が見つかった。

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俺がペット 樹一和宏 @hitobasira1129

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