後編 よく出来た猫
オレでもガスくらいは知っている。湯を沸かすのに使うアレだ。
“よし、全部閉まってるわね。古い家だから、ちゃんと確かめないと危ないのよ”
婆さんは、毎夜ガス栓の確認をしてから寝ていた。
漏れると危ない――どう危ないかも、これだけ生きていれば見たことがある。噴き上がる炎は、オレのような存在をも、下手したら消し飛ばしてしまう。
この男は家を燃やす気だ。
「ギュアッ!」
オレの姿無き声に、息子は肩を
そんな濁った
家に火を点けて、婆さんを焼き殺すつもりか?
理由は何であれ、それを許すわけがなかろう。
今度はひと掻きでは済まさん。
後ろ脚を目一杯屈めて、男の膝に狙いをつけた。
さあ、覚悟しろ。
最悪だったのは、泥棒もどきの息子でも、そいつが逃げなかったことでもない。
この日、この時刻。
よりによって、この瞬間を選ぶことはなかろうに。
ゴーン。
遠くから、鐘の音が鳴り響く。
駄目だ。
ここで鐘は、駄目だ。
全身の肉が強張り、力がスルスルと抜けていくのを感じた。
ゴーン。
程なくして、二回目の鐘が追い撃ちを掛ける。
年越しの百八回。ソウセイジの鐘だ。
誰でも、いや、どんな物の怪でも鐘が効くわけではない。
重ねた業が深いほど、鐘が払うべき邪気も増える。邪気が多ければ、この瞬間でも余力を持ち得ただろう。
しかしオレは、人を殺めなくなって久しい。
「ギギギギ……」
数回の鐘で縛られる不甲斐無い自分に、噛み合わせた歯が軋む。人の世に合わせた結果がこの醜態とは、なんたる皮肉か。
妙な悪寒に震えながらも、男はまた背を向け、台所へと歩み出した。
ゴーン。
この鐘は、まだまだ続く。
鳴り終わるのを待っていたのでは、全ての事は済んでしまう。
誰か。
誰か、鐘を止めろ。
何度も心で訴えた。
命令はすぐに懇願へと変わり、声にならない叫びを繰り返す。
お願いだから、止めてくれっ。
わずかな幸運を願いつつ、藻掻きもした。奥に消えた男を追って、四つ脚を無様に引きずる。
廊下の中程まで辿り着いた時、空気の抜けるような音が、耳に届いた。
ガスだ。
男の影法師も、再びこちらへ向かって来た。
よしっ、と密かにフサフサした口角を上げる。
もっと近寄れ。前脚が届けば、
先までオレが寝ていた居間から、ビチャビチャと水が撥ねる様子が伝わってくる。何をしているのかは、臭いが教えてくれた。
油を撒いていやがるんだ。
缶を片手に出て来た男は、廊下も油
オレの鼻先を通り過ぎようとする足へ、弱々しくも怒りの篭った一撃を振りかぶった。
「うわっ!」
前脚は、馬鹿息子の
姿勢を崩した男は、たたらを踏んで最後には尻餅をついた。
ゴーン。
また力が失われ、オレはその場でへたり込む。
男の手を、そこに握られた物を忌ま忌ましく
それも知っているぞ、“らいたあ”だろう。
やめてくれ。
この男を止めなくては。
頼む。
早く鐘の音を消してくれ!
立ち上がった息子は、眉をひそめて周囲を見回す。
オレの横を通る二度目の機会は、空振りで終わってしまう。
なんたるザマだ。
宙を切った脚を床に叩きつけ、せめてもと咆哮した。毛を逆立て、グルグルッと喉を盛大に鳴らす。
そいつを使うんじゃない。
やめろ!
残る油を玄関に撒き尽くすと、男は開けた扉を左手で支え、右手を前に掲げた。
鐘が、焦りが、間に合わないという恐怖が、オレの体中をゾワゾワと駆け巡る。
そして、無音。
ゴンッと、一際大きな響きを最後にして、鐘の音が止む。
オレの声に応えて、冬の静寂が取り戻された。
解き放たれたバネの如く、オレは廊下を駆ける。
野良猫に、こんな真似が出来るものか。
全力を注いだオレは、風よりも速い。
男の手前で床を蹴り、その腹へと体をぶつけると、衝撃で男は二つ折りになって吹っ飛んだ。
手放された缶がけたたましく転がり、オレたちは戸外へ弾き出される。
右に転がし、左に撥ね飛ばし、ヨロヨロと立ち上がる度に容赦無く獲物を狩る。
雪で濡れた地面に叩きつけられて、男の服は泥だらけだ。
「な、なんなんだ!? 誰だっ!」
門柱に
とっとと火種を手放せ。
目標を男の右手に定め、今一度、跳び掛からんと身を屈める。
その刹那、見誤ることなきその拳が闇に失せた。
いや、在るには在る。
肘の先で断ち切られ、用を為さなくなった下腕は、皮一枚でぶらりと垂れ下がっていた。
「ああ……あぁっ……!」
男が唸り、美しいピンク色の切断面に呆然と目を遣る。
痛みも、血の一滴も生じない
切られた息子が状況を把握するのに、一拍は要したようだ。
どうにか
替わって二つの影が、オレの元へ滑り込んで来た。
久方ぶりのその顔に、礼を告げる。
「助かったよ、兄さん」
「間に合ったみたいだな」
長兄は、あらゆるものを切り刻む。
おそらく未だに、どこかで誰かを斬り続けているのだろう。
ずっと三人組だった。
ところがそんな生き方に飽き、離れようとしたオレを、兄は好きにさせてくれた。
別れて生きようが、家族は家族。呼び声を聞き付け、寺の鐘を切り落としたのは兄だ。
その兄の横から、三人で一番小さなオレの弟が顔を突き出した。
「また
「お前のせいか」
弟は、切った傷をたちどころに
兄と一緒に行動しているようだが、ひょこっとオレに会いに来ることもあった。二度ほど入れ替わった時に夕食に
オレの無事を確認した二人は、くるりと背を向けて、夜闇に紛れて去っていった。
もう年も新たになったことだろう。
油で汚された家にうんざりしつつ、ガスを止めるべく、オレは婆さんを起こしに向かった。
すっかり冷え込んだ家で、オレと婆さんは正月を迎える。
ガスを抜くため、真夜中から窓を開け放ったせいだ。
廊下の油も、婆さんだけでは拭き取りづらく、オレも雑巾を
油が染み込んだ膝掛けや座布団は、捨てるしかない。
「アンタがやったのかい? ずいぶん暴れたねえ」なんて言いやがるから、溜め息が出るぜ。
あの物音で起きてこない婆さんの図太さに、感謝すべきなのか、呆れるべきか。
年明けから
電話があったのは、一週間後くらいだ。大怪我をしたので、当分は会いに行けないと言われたらしい。
“ショウノスケ”がいなくなって、急に息子が現れたそうだが、どうにも胡散臭い男だ。
残念そうな婆さんには悪いが、二度と顔を出すなと思う。
片腕がどうなったのであれ、ほとぼりが冷めれば、あの手の男は懲りずに画策してくるものだ。
婆さんを一人にするのは危ない。
こりゃあ、永い付き合いになりそうだな。
座椅子に座る婆さんの膝へ、オレはピョンと跳び乗った。
「アンタがいれば、寂しくはないか」
「ニギャ」
「よく出来た猫だよ」
「…………」
猫じゃねえ、
まあ、目も見えない婆さんじゃ、訂正するのも難しい。
「今日は煮干しがないの。ソーセージでも、いいわよね?」
「ギュッ!」
これだ。そうこなくっちゃ。
食い物分は働いてやる。
長生きしろよ、婆さん。
(了)
※
突然、体の一部が、鎌で切られたように裂ける怪異現象。
古くは妖怪の仕業ともされ、その姿形は伝承によって様々である。
三匹組のイタチに似た妖怪だと伝える地方もあり、一匹目が人を転ばせ、二匹目が切り、三匹目が薬を塗るのだという。
オレは猫じゃねえ! 高羽慧 @takabakei
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