エピローグ 七月十一日

 汚れて、ぼろぼろになったテディベアが舞に与えたのは痛みであった。小さく、硬く、胸の奥に刺さり、癒えることのない痛み。喪失の痛み。舞はそれによって世界と痛みを分かち合ったのかもしれなかった。平穏は桜降るこの町にだけ残されており、この町を取り巻く世界にはいまだに果てのない混乱と嘆きが広がっており、舞たちの日々にも長いこと苦しみと忍耐とをもたらすことになった。


 しかし、わざわいは過ぎ去った。それはもう二度と訪うことのない禍いであった。かつてどんな苦難も人類を立ち止まらせるには足らなかったように、この度の禍いにあたっても人々は挫けなかった。ある場所では急速に、ある場所ではゆるやかにではあったが確かに復興は進んでいった。舞たちの知らない知識と技術がそこに用いられた。舞たちはもはや京姫としての、あるいは四神としての使命がこの世界に対して何ももたらし得ないことを知った。そこに少しのさびしさを感じたあとで、舞たちは日々の営みに立ち戻った。漆が世界に与えた傷を癒すためには、大人にならなければいけない。なすべきことは多かった。例えば、高校受験とか……




「うそっ?!」


 と叫んだのが、自分だけでなく隣に立っていた両親もであったのがやや不満であったが、私立水仙女学院高校の合格者発表は、舞に大きな喜びをもたらした。両親と手を取り合ってぴょんぴょん飛び跳ねながら、舞は純白のセーラー服を着ている自分の姿を想像してみた。そしてその年の四月にはまさしくその姿の舞が、桜花市の桜並木を歩くようになったのである。


 翼は優秀な有名都立高に進学、無事第一志望校に合格した奈々はやや怪しいながらも進級して高校二年生に、ルカは音大の、玲子は水仙女学院大学の二年生となった。それぞれ異なる道を選んでも、そして以前のように集まる必要はなくとも、少女たちは定期的な集まりを続けていた。


 なお、司は市外の私立有名大学の付属校に進学した。舞は放課後になるとわざわざ桜花駅前まで行って司を待ち、一緒に商店街を歩いたり篠川沿いを散歩したりながら帰るのが日課となった。その時に舞は、自分の誕生日祝いにみんなでルカの家のプライベートビーチに行くから一緒に行かないか、と誘ってみたのだった。が、答えはノーだった。あまり期待してもいなかったのだが。


「じゃあ、結城君は別でお祝いしてくれるの?」


 と舞は少し拗ねたようなふりをしながら聞くと、夏服の白いシャツ姿の司は舞の方は頑なに見ないようにしながらも、


「二人きりの方がいい」


 とぶっきらぼうに言い放った。その直後、二人の頬がみるみるうちに真っ赤になったことは言うまでもない。




  ……さて、「二人きり」のお祝いをのぞきこむのは野暮であるから、筆者はある年の七月十一日に行われた、白崎家のプライベートビーチでの誕生日会について語り、ついにこの長い物語の幕を閉じることとしよう。


 その日の朝、ルカの運転で桜花市を発った一行は昼前に現地に到着するなり早速水着に着替えてはしゃぎはじめた。砂浜と海面とはそのきららかさを競いあっており、舞は足裏に踏むやわらかな砂のあたたかさと、澄んだ海水の涼しさと、はたしてどちらが心地よいか判断に迷った。しかし、瞳はやはり海原をさまよった。昼食のバーベキューで心ゆくまで肉の奪い合いをするときも、砂浜を駆けまわるときも、波に揺られているときも、舞は気がつくと遠い水平線までを眺めていた。舞と水平線の間には瑠璃を敷き詰めたような海原がひろがっており、陽光が金の糸を縫い込む上に、指で払えそうなほど小さな白い帆船の影が点在していた。そんな光景が故知らぬ深い感動を舞にもたらすのだ。なぜだろう?これまで海になんか何回も来たことあるというのに。


「あっ舞ちゃん、ごっめーん!」


 奈々の声とともに振り返った舞の頭に、ぽん、とビーチボールがぶつかった。昏倒する舞の睫毛に陽射しが砕けて、金色のかけらが目の前いっぱいに散らばったとき、舞の頭のなかにひとつの言葉がいくつも重なって響いた。



 南へ、海へ――



「舞、うそでしょッ?!ビーチボールで倒れる?」

「うっそー、あたしの豪速球が効いちゃったかな?」


 砂浜の上に仰向けになった舞を翼と奈々が覗きこみにくる。舞がすぐに起き上がったので、二人の頭は舞の頭とあやうく衝突しそうになった。「ちょっと危ないでしょーッ!」と怒っている翼に謝りながらも、舞はパラソルの下に腰かけているルカと玲子の方へと駆け寄った。サングラスをかけたルカはモデルさながら優雅にデッキチェアに腰かけ、玲子もその隣で読書をしていたが、舞がそばに来ると共に顔を上げた。


「どうしたんだい、舞?」


 ルカがサングラスを外して尋ねる。


「玲子さん、一緒に来てください!」


 舞は息を切らしてそう言うなり、戸惑う玲子を抱き上げて再び駆けだした。パラソルの影の下からいきなり引き出された玲子は抗う間もなく、ただ眩しさに咄嗟に手を掲げる。


「一体どうしたというの、舞?」

「あの、思い出したんです、私……!」


 舞が今答えられるのはそれだけだった。実際を言えば舞にもよくわからない。はたして本能的につかんだこの核心が事実かどうかさえ曖昧だ。でも確かめるすべさえもうないのだから。


 白い波頭が裸足の甲を浸した時、舞は足を止めた。それがちょうど合図であったかのように、波上の群れと鳴き交わす鴎の影が二人の肩を横切った。風になびくその羽の先にも、夏の光が宿った。


「……いつか海に連れていってくれるって」


 言葉を交わすとき、舞も玲子も鴎の白い影を見守っていた。


「約束しましたよね、ずっと前に」


 玲子はこれまで力を込めて掴んでいた何かをふっと手放したような、肩の荷が下りたような、どこかさびしげな表情をしてみせた。古い古い神代の約束。


「そうね。朱雀が稲城乙女にそう言ったわ」


 そんな古い約束をいまさらどうして、玲子は訝しげに舞の横顔を見上げる。今日十六歳になった少女の横顔は気がつけばずっと大人びた。身長もいつの間にか玲子を抜かしてしまったようだ。むき出しになっている華奢な肩に、日に透けていっそう明るく見える毛先がかかってゆれている。しかし、海原を見遣る翡翠の瞳はたじろがない。


「玲子さん、今、私感じているんです。今日、前世から、というか玉藻の国の時代から続いてきた何かが終わったって。今日、きっと私たちの一番古い約束が叶えられたから。こうして一緒に海に来ることで」


 舞は瞳を遠く据えたまま語った。


「……私が連れてきたわけではないわ」

「ううん。でも同じことなんです。だって、私はこうして海に来ることができていて、かぎりなく自由で、かぎりなく幸せだから」


 舞はそこで遠い海原からようやく目を離して玲子に笑いかけた。舞の言わんとすることが玲子にも理解できた気がした――そうだ、前世から託されていたもの、かつてこの魂が幾度も幾度も転生するなかでも果たされなかったものが今日この日果たされたのだ。そして今この瞬間から、海に洗われた二人の魂の新たな歩みが始まるのだと。


 何も書き記されていない世界を前に、足がすくみそうになる。これまで現世を前世の続きとして生きてきた玲子であるから。けれども……けれども、きっと前に進めるはずだと、玲子は思った。そう思いたくて、祈るように舞の首にまわした両手を強く組んだ。大丈夫。たとえ使命を果たし終わっても、記憶は消えない。記憶が私に勇気をくれる。痛みとともに、悲しみとともに、苦しみとともに、記憶がついてくるから。現世での一生が終わるその日まで。


「さっ、戻りましょう、玲子さん。みんなが呼んでる」


 鴎の影が再び睫毛をかすめる。舞の言葉に、玲子は「えぇ」と答えて微笑んだ。みんなが待っている、それこそが何よりも――


 濡れた砂の上に落とされた舞の足跡は夏の陽射しの下に燃え、やがて淡い波にかき消された。それでも足跡は波を逃れ、乾いた砂の上へ、二人を待つ友のもとへと伸びていく。











 ……やがて足跡が辿り着いた先に、少女たちの笑いが花開くのだろう。そのかたわら、デッキチェアの上、ふくらんだ浮き輪のまんなかに、ぼろぼろになったテディベアが座っている。




 七月十一日、水曜日。





【結】

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京姫―ミヤコヒメ― 羽結ことり @kotoripetit

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