最終話 桜舞うこの町で

 東向きの窓から差し込む日差しがカーテンを透かして、壁紙からクッションのようなこまごましたものまで薄ピンクに統一してある部屋を明るく照らし出している。窓辺に並べられたサボテン、勉強机に飾られている小学校の遠足の時の集合写真――見慣れた、見飽きるほど親しいものの数々に囲まれて舞は目を覚ました。自宅の寝室のベッドの上で。


「京野……」


 身を起こす。いつかこうして目覚めたときに聞きたかった声が、薄く開いたばかりの瞼をかすかに震わせる。翡翠の瞳をきららかに寄せて、舞は枕元に腰かけている少年を見つめた。宵闇の淡い紫の瞳はやさしげに細まった。胸の奥よりあふれる感情をあらわすには、そんな仕草ひとつしかなかったのだろう。舞もまたそうだった。


「結城君……」


 二人はそっと手を取り合って、互いの手を握りしめたまましばしの間じっと黙っていた。最初、舞の胸にはただ静かな喜びだけがあった。どんな文脈に紛れ込んでいても、結城司という少年と手を取り合っていること、見つめ合っていること、いたわりあっていること、それは舞にとって確かな喜びなのだ。と、ふいに何かを思い出したように目をしばたいた舞の翡翠の瞳から、ひとしずくの涙がこぼれおちて、すっと頬を伝い落ちた。その涙が結んだ手の甲にあたたかく落ちた時、舞は自分がここに横たわっている不思議を知った。


「あれ、私、なんで……」


 私は藤尾さんに殺されたのではなかったのか。地獄の門の前で玲子さんに出会って、魂を押し戻されて、そこで以前の司と出会って、前世で藤尾さんの魂と共に眠ったのではなかったのか。それなのに、なぜこんなにも健やかな姿で、なにひとつ変わらないようにみえる現世の生活のなかに紛れ込んでいるのだろう?いや、それとも、なにひとつ変わらないようにみえるのは、ただの錯覚なのだろうか。あの四月十二日と同じように知らないうちになにかが変わっているのではないだろうか……


 意を決して、舞は司に尋ねた。


「ねぇ……私は京姫だった?」


 なんと遠回しな聞き方だったろう。だが、舞は本能的に近道を避けたのだ。残酷な現実にまっすぐにぶつかって砕けてしまうことが恐ろしくて。司は舞の質問の意図に気づいただろうか。優しい瞳を真摯に舞に向けたままうなずいて、低く「あぁ」と言った。


「九尾の狐と戦って、その後で漆が復活して、桜花神社で漆と戦って……」

「そして漆に勝利した」


 戸惑いながら舞が見つめ返すと、司はふっと笑った。


「覚えてないのか?せっかく柄杓を渡してやったのに」

「覚えてるよ。覚えてるけど……それで柄杓がロッドになって……?」

「最後の技は……」



「桜花爛漫」



 二人の声が重なった。


 舞は掛布団に包まれた膝のあたりを見下ろした。もしかして、何も変わっていない?だとしたら、なぜ私はこんなにぴんぴんしているのだろう。藤尾さんに刺された時、間違いなく私は死んだはずだ。何かが変わらなければ私は生きているはずがない。でも、何も変わっていないように見えるのは、一体………


「ねぇ、四神のみんなは?」


 そう尋ねる時、胸のなかがざらついたような気がした。もし私が命と引き換えに失ったのが四神のみんなだとしたら、どうしよう。


「みんな元気だ」

「翼も、奈々さんも、ルカさんも、玲子さんも?」

「あぁ。ただ……」


 司の言葉の終わりまで聞き取れぬうちに、舞ははっとした。分かった気がした。なぜ、自分が生きているのか。なにひとつ失わずに現世を生きているのか。行かなければいけない。行って、確かめなくてはいけない。舞はベッドを飛び降りると自室のドアにものすごい勢いでタックルをかまし、階段を駆け下りた。司が慌てて呼び止める声も、母親と姉が驚いて和室から顔をのぞかせるのも、危うく轢かれかけたはなちゃんが抗議するのにもかまわなかった。舞は家を飛び出して、明るい春の空の下を駆けた。




 ――石段を駆けのぼり、鳥居をくぐり、舞はついに辿り着いた。思わず声が漏れた。やはり思った通りだった。


 はずんだ呼吸のまま、舞はゆるやかに桜花神社のご神木へと歩み寄った。目を細めたのは枝の間から差し入る陽光が瞼を透かしたためでもあり、咲きこぼれる桜の花の眩さのためでもあった。まっすぐに差しのべた手が花とも光ともつかぬきらめきのなかで、温かい樹皮に触れる。舞は両の掌でご神木に触れ、目を閉じてそっと寄りかかった。


 ……もし自分の行為によってなにひとつ変えられていなかったのだとしたらと、走りながら考えていた。変わってしまうことはあまりに恐ろしい。また何かを失ってしまったのだとしたら耐えがたい。でも、だからといって、なにひとつ変わっていなかったとしたらそれはあまりにも悲しかった。それは、絶望と苦悶のうちに荒ぶるひとりの女性の魂を、鎮め得なかったということであるから。舞の想いが藤尾の心に届いていなかったということだから。


 だが、舞の想いは伝わった。藤尾の刃が京姫の胸に突き立てられた時、怒り狂う朱雀の炎によって焼き尽くされたはずのご神木が今こうして残っている。それが意味することは、たったひとつだ。何も変わらなかった――藤尾の身が月修院に奪われたこと、漆が京を襲ったこと、京が滅び、四神たちは敗れ、京姫もまた人々の手によってりくされたこと。そして、現世に転生したこと。京姫の魂と四神の魂が再び出会ったこと、共に戦ったこと、漆と対峙したこと――そう、何も変わらない。世界は昨夜やはり残酷な一夜を迎えた。その爪痕はいまだ癒えていない。京姫の力を以ってしても癒しきれないだろう。失われた命が戻ることもない。


 いま世界中にあふれている多くの痛みと苦吟を前にすれば、小さな小さな奇蹟だった。焼かれたはずの桜の樹がそびえていることなど。藤尾が舞をゆるしたことなど。


『この私が八重藤を他人と見間違えるわけなかろう。小狡こずるい真似をしおって…………まあ、命までは奪わずともよい。貴様は八重藤の娘なのだから』


 舞い散る桜の花びらが頬に触れた時、そんな声がどこからともなく聞こえた気がした。





「……舞!」





 振り返る。雨に潤び、葉を芽吹かせ、風にそよぎ、陽射しにきらめき、花開いた桜、舞を包みこむ夥しい桜、眩い桜の向こうに、四人が立っている。笑顔の翼、手を振っている奈々、微笑んでいるルカ、眼鏡の奥で涙ぐんでいる玲子——


「みんな……!」


 駆け寄っていく。なびいていく髪、結んだ腕に、取り合う手、濡れる頬に、そして笑いあう唇に、桜の花が降りかかる。ああ、これこそが舞が夢見た幸せ、京姫がかつて夢見た幸せ、多くの人が舞のために祈ってくれた幸せであったにちがいない。それはいまだかつて見たことのない景色ではなかった。前世でも、現世でも、舞はこの景色を知っていた。けれども、戦いの先にこの景色があること、皆と共にいて、これからもずっと一緒に生きられること――それだけは前世で得られなかったものであったから。


「待っててくれたんだね、桜花神社ここで」


 指で涙を拭って舞が言うと、四人の友はそれぞれうなずいた。


「舞がここに来る気がしたの」


 と翼。


「舞ちゃん、元気?いちおう怪我はぜんぶ治しといたよ!」


 と奈々。


「舞、本当によく頑張った」


 とルカ。


「舞、ありがとう。見つけてくれたのね……みんなが幸せになる方法」

 

 と玲子。

 

 舞はとめどなくあふれる涙をどうしようもないままに、にっこりと笑った。


「みんなも、ありがとう。翼も、奈々さんも、ルカさんも、玲子さんも……なんて言ったらいいのかな……みんな、みんな大好きだよ……!」


 再びの抱擁と涙のなかで、少女たちの笑い声は雲雀のごとく高く高く春の空に舞い上がる。それは永遠に続くかとも思われた。桜花神社の桜が散るまでも。散ってからも。いつまでも。


「舞、大切なことを伝えなくてはいけない」


 そう静かな声で切り出したのはルカだった。ぱちぱちと目をしばたきながら舞が見上げる先で、ルカの瞳が揺れた気がした。途端にみなはうつむいて押し黙った。誰もが皆、切なげに息を詰めていた。


 ルカが両手で差し伸べたものを見た舞は、はっと息を呑んだ。それはぼろぼろになったテディベアであった。表面は擦れて汚れ、ところどころ綿が飛び出て、ぼたんの円らな目もつやを失っている。でも、どれだけ変わり果てた姿をしていようとも間違いない。テディだ。舞が幼いころからずっと大切にしてきたテディ、そしてずっと一緒にいてくれた…………


「焼け残った町のなかで見つけたんだ。舞、きっと左大臣はこの子を君に返してほしいと言うんじゃないかと思って。だから……」


 ルカの言葉の先はつかえてしまって聞けなかったけれど、舞にはわかった。翼はすすり泣いていたけれど、舞は声をあげられなかった。奈々はその肩に手を伸ばしていたけれど、舞にはできなかった。玲子は顔を背けていたけれど、舞はテディベアをじっと見つめていた。そして、ただ両の掌の上に受け取って、目を閉じ、頬をすり寄せ、ぎゅっと抱きしめた。幼いころからずっと、ずっとそうしてきたように。




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