28-5 さようなら

 ここはどこだろう……?


 そのなかに足を踏み入れたはずの暗闇がこの身を取り巻いてどこまでもどこまでも続いている。体がゆっくりと沈んでいくのを感じるけれど、どこに行きつくかはわからない。この暗闇はどこ?いいえ……いつ?


 司とともに時間を遡りつづけているうちに、生まれる前にまで来てしまった。それでもどこに飛び込めばいいのかわからない。お母さんのお腹のなかの暗闇ものぞいてはみたけれど、でも、ここではないと心が告げていた。司と顔を見合わせてただ困り果てるしかなかった。


 その時、不意に思い出した。探し物を見つけようとして、日本舞踊の藤娘の所作を真似してみたときのこと。そして、閉じた瞳のなかに藤の花の色がいちどきにあふれて――それはもう、漆と戦ったときのおぞましい藤の花ではなくて、私と司との思い出のなかに咲く藤の色だった。


 藤の色が示した暗闇。場所。時間。それは私の人生が始まるより少し前にぽつんと置かれていた。お母さんのお腹の暗闇より前、からっぽの木枠を何個か通り過ぎて、たったひとつ。


「これは……」


 その先を司は言えないでいるようだった。けれども、司が言おうとして言えない言葉は私にもよくわかっていた――これは私の記憶じゃない。でも、ここが正解だ。絶対にここだと心が言っていた。



 そう、正解のはずなのに…………



 何も見つけられないでいるのはなぜなの?何にも触れられないでいるのはなぜなの?これも漆の策略なのだとしたら?私はひとりでここに閉じ込められる。どことも、いつとも、誰のものとも知れない記憶のなかに。


 ひとり……私はなぜこんなに孤独ひとりなのだろう?さびしくてさびしくて仕方がない。恋しくてたまらない人がいる。けれども、それが誰なのかわからない。その人とはもう会えない。その人は遠くに行ってしまった。永遠に去ってしまった。手の届かないほど遠くへ。



『嘘つき、嘘つき、大嫌い……っ!』



 ふと、胸を襲い来る憎しみ。ああ、私は一体誰なのだろう?誰を愛し、誰を憎み、こんな暗闇のなかにひとり沈んでいくんだろう。このままでは何もできない。見つけられない。玲子さんと約束したのに。絶対に見つけるって――みんなで絶対に……



『藤尾』



 誰かが私を呼んでいる……私を?私が藤尾さんだと言うの?



『藤尾』



 低くて深くて酔いしれてしまいそうな女性の声が、藤尾さんを呼んでいる。暗闇のなかに差し込む一条の光がある。



『はやくはやく!みんなに見つかったら大変だもの!』



 月修院の春の果樹園を駆けている。これは記憶だ。私はこの記憶を知っている。でも、私の記憶ではない。私がこの記憶と出会ったのは、前世で藤尾さんに手を引かれて、森のなかに連れていかれた時。でも、あの時、私が眺めていたのは他ならない藤尾さんの姿だった。私の手を引っ張っていく藤尾さん。もっと幼くて、笑顔がこぼれる少女時代の藤尾さん。



『八重藤にだけ教えてあげる。ねぇ、絶対内緒にしてね?ほら、急いで!』



 だけど、今そう言ったのは私。だから、やっぱり私が藤尾さん。そして私が手を引いている人は、私にそっくりの、でも、もっと大人っぽくてはかなげで高貴な雰囲気の女性。私よりずっとずっときれいな女性。私はこの人を、八重藤という名のこの人を知っている気がする…………



 舞に全てがわかった。



 何が京姫を取り巻き、ここまで連れてきたのか――八重藤は舞の前世の母であるのだ。先代の京姫、藤枝ふじがえ御方おんかたの少女時代の名であるのだ。藤枝の御方が月修院の出身であることはすでに聞いていたが、八重藤と藤尾は月修院時代の幼馴染であったのだ。


 藤尾が八重藤をどれほど恋い慕うていたか、京姫となった八重藤を奪われどれほど苦しんだか、どれほど京を憎んだか、今の舞ならばわかる。今の舞は藤尾であるから。では、なぜ、舞は藤尾の記憶のなかに潜り込めたのか。それを知るための鍵となるのは、漆の、月修院の最期の言葉であった。あの言葉を、京姫はなにかいとわしい意味でしか理解できなかったけれど、そうではなかった――否、もしかしたら、それ以上にいとわしい言葉であったのかもしれないが――京姫と漆の魂、ひいては藤尾の魂は確かに結びついていたのだ。前世で姫が漆を封印した時、漆と共に桜陵殿の池の底に沈んだ時に。姫の魂が生まれ変わる時、漆もまた蘇るのは必定であったのだ。そうして漆は現世にやってきた。



『姫さま……私たちは結ばれていたのですよ』



 漆の魂は桜花爛漫の技を受けて滅びた。しかし、まだ藤尾の魂がその身に眠っていたのだ。そして、目覚めた藤尾は見出した――あってはならない存在。京姫の娘などという有り得ない存在。それは八重藤の身にどれほどの悲劇が起きたかを物語っている。以前、左大臣が司に語っていた。藤枝帝と藤枝の御方が結ばれたということ自体、果たして二人が望んだことであったのかわからないと。


 かつて八重藤を奪っていったという天つ乙女の依代。憎き京を守護する巫女。それだけでも藤尾に憎まれるに値するのに。さらには八重藤の娘。愛しい女性に起きたこの上ない惨劇の証。そしてなによりも、愛しい女性の命を奪った張本人——藤尾は姫の胸に刃を突き立てた。



『死ね、八重藤の娘……!』




 …………でも、それはまだ先の話だ。前世いまならまだ救える。私たちを。私たちの現世みらいを。


 暗い水底で、舞は我が身をぎゅっと抱きしめた。そして何度も胸の奥にささやきかける。藤尾、藤尾、藤尾——満月媛の声に負けぬように強く、優しく。


「八重藤?」


 ついに水泡がささやきを返した。


「八重藤なの?」

「……そうよ」


 水面のあたりが明るんで、自分だと思われていたものが二つに別れていく。水底に水漬みづく玉藻のごとくなびきだすのは片や乙女の漆黒の髪、片や乙女の樺色の髪。あやうく離れかけた身を引き留めようとして、乙女たちは咄嗟に手を伸ばした。辛うじて指先が結ばれた。一条の陽射しを浴びて浅葱色あさぎいろにきらめく水の重たさの向こうに、乙女たちは互いの姿を認め合った。


「八重藤……!」

「藤尾……」


 水を掻き分けて寄り来る藤尾の腕をとらえ、舞は白い裸の身に、藤尾の痩せた体を寄せた。


「ここにいたのね、八重藤!ここでずっと待っていてくれたのね。約束通りに」

「そうよ、待っていたの。約束通り」

「なら、もう私のそばを離れないわね?」

「えぇ、絶対離れたりしないわ……」


 その背に腕を回すとき、小さな顎に触れる藤尾の肌から、そこに細やかにまとわりついて弾けてしまう泡のように歓喜がほとばしるのを、舞は感じた――これでいい。これでいいんだ。藤尾さんは大好きだった八重藤に再会できた。藤尾さんを呼んでいた満月媛の声ももう聞こえない。月修院は満月媛の力を利用したくて藤尾さんの体を奪ったのだろうけど、もうそれもできないということになる。漆という男はこの玉藻の国に生まれてこない。


 だから、これでいいんだよね?


 抱きしめているそのひとには、舞の表情は見えない。翡翠の瞳から滲みだした涙は、藤尾の皮膚を離れゆく水泡に交じって、陽射しの差し込む方へ、水面の世界へと高く昇っていく。二人の乙女がもつれあいながら水底に沈んでいくこの時、舞はゆっくりと薄れていく未来を想った。そこでは悲劇も含め舞が愛おしんだ何もかもがなされないまま、欠如は何一つ知覚されず、世界は満たされ、日々は穏やかに過ぎていくのだろう。漆は生まれない。京は滅びない。十四年後の月宮参りの日、京姫は藤尾と出会わない。あの大きな桜の樹にたどり着くこともない。もちろん、紫蘭の君と雨宿りすることも。京姫と四神はめくるめく四季の繰り返しのなかで日々を紡いでいく。その先に、京姫は人より短い人生を閉ざすのだろう。四神や、主上や、乳母や、いとしい人々に見守られながら――


 果たして姫たちは生まれ変わるのだろうか?生まれ変わったとして、あの現世みらいに辿り着くことはできない。もう姫と四神が共に戦うことはないのだから。みんなで過ごしたあの日々には戻れない。左大臣がテディベアの姿で舞の前に現れることも。翼が前世からの友人であると気づくことも。奈々と白のアトリエで出会うことも。ルカのキスを手の甲に受けることも。玲子と桜花神社の祭りで会うことも…………











 …………ああ!











 放課後にみんなでルカさんの家に集まった。お菓子を食べた。くだらないことで笑いあった。だけどその夜には、血だらけになって、傷だらけになって、絶望しながら、必死に戦っていた。前世の悲劇に、自らの罪に、与えられた使命の重圧にくじけそうになって、それでも毎日が楽しくて、みんなと過ごす日々が幸せで、仕方がなかった。


 ねぇ、玲子さん。玲子さんも私も勘違いしていたね。私たち、とっくに幸せだったんだよ。なのに、それに気づいた瞬間には、もう二度とあの日々に戻れなくなってるんだ。


 ごめんなさい、約束したのに。


 絶対に見つけるって言ったのに――みんなで幸せになる方法を。


 この瞬間にも、愛した現世みらいは薄れて、変わっていく。私はただ祈るだけだ。せめてまたみんなで同じ桜花市に生まれ変われますように、と。私と、翼と、奈々さんと、ルカさんと、玲子さんと、司とが、また同じあの町に生まれて、あの町のなかですれ違って、あの町で仲良くなれますように。前世からの仲間だなんて大それた絆でなくてもいいから、もう一度、みんなと友達になりますように。



 みんな、ごめんなさい。大好きだよ。さようなら。





 私は現世みらいを信じてる。私たちはきっと……











 きっと、また会えるから――


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