28-4 舞と司

 舞の体は後ろ向きに押し流されていく。もはや舞が動いているのか、世界が動いているのかわからない。世界は相変わらず乳白色の靄に包まれていて、上下も前後もあいまいだ。このままどこに行きつくのだろうか。


 ……言えなかった言葉は伝わったのだろうか。また一人で罪を抱え込もうとしているのではないか、玲子さんは。舞は首を振る。そんなこと絶対にさせない。


 と、突如として、舞の体に働いていた何らかの力が弱まり、舞はあるのかもわからない足場の上で尻もちをついて倒れた。「ふぇっ?!」と変な声が出た。とても最後の務めを決意した者とは思えない。背後でそんな舞を笑う明るい声がする。


「何してるんだよ」


 後ろから耳の横に差し出された手。振り向いた舞はそこにかぎりなく懐かしく愛しい人の姿を見出した。


「司……」


 最後に見た姿と同じだった。痛々しい傷跡は幸いにしてなかったけれども。桜花中学校の制服を着た司は舞に手を差し出して、優しく微笑んでいた。彼は誰にでもそんな笑顔を向けたものだ。でも、今思えば、舞に対してはもっと………


 舞は司の手をとって立ち上がったあとも、じっと黙ったまま、ただ司を見つめていた。不思議なほどに無感動な自分自身に驚きながら。舞はもっと感動してよいはずだった。喜びであれ、悲しみであれ、驚きであれ、何かしらの(単一のあるいは複数の)感情にもっと突き動かされてよいはずだった。それなのに、舞は絶対にありえないと信じていた再会を経てもなお、何も感じられないでいる。そんな自分に対する戸惑いだけがある。


 そんな舞をも司は静かに微笑み見守ってくれている。生前の愛をそのままに。やがて舞の手を取っている冷えた指先に力がこもり、司は静かに促した。「こっちだ」と。


 司に手を引かれ歩いていく。音一つない世界に、二人の足音が少しずつ馴染んで響きはじめる。舞はふと司が舞を導こうとしている道筋に対して、何か線のようなものが斜めに交わってくることに気がついた。その線はやがて二人の道筋と合流したかと思うと、今度は平行になって二人の傍らに沿いはじめる。否、二人が線に沿って歩み進めているといったほうが正しいのか。それは地に倒された木の梯子のようでもある。線路のようでもある。ひとつひとつの木枠をのぞきこむと、そこには硝子のような透明な板が貼られていて、その下には靄がかっていない明瞭な世界がひろがっている。


 舞は戦慄した。そこにひろがっているのは桜花神社での漆との戦いの光景であった。苧環神社での戦いであった。九尾の狐を河原に追う自分たちの姿であった。舞は過去の自分の姿をさながら神のごとく俯瞰ふかんして見下ろしていたのだ。


 先に進むごとに過去に遡っていく――梯子の、あるいは線路の下の世界から目を離せなくなりながら、舞はこのまま歩み続けていいものかと狼狽した。しかし、司が立ち止まる気配はない。舞の様子を省みてくれる気配もない。舞にはなんだか司が知らない人のように思われてならなかった。司は一体私をどこに連れていくつもりなのだろうか。


「……舞」


 まっすぐ前を向いたまま司に呼びかけられると、舞の肩はごくかすかに跳ねた。


「な、なあに?」

「俺は自分がここだと思ったところに飛び込んだ。だから舞もそうすればいい。それが未来を変える方法なんだ」


 俺……


「ガラスみたいのが嵌め込んであるところは駄目だ。体のなかにちゃんと魂があるから」


 舞の怪訝な視線を受けてか、ようやく司は足を止めた。そして「見てろ」というと、引っ張っている舞の手を木枠の中に押し当てた。舞にとっては案の定という感じではあったが、確かに舞の指は硝子に突き当たって通らない。舞の手の下には、ルカの家で新年会を開いている少女たちの姿があった。


「今度はこっちだ」


 と言って、司は舞をいくらか先へと導いた。木枠のなかは暗闇だ。何も見えない。舞が怖じるのにもかまわず、司はしゃがみこんで舞の指をそこに触れさせた。舞の指は泥のような温かな暗闇に直に触れた。


「これは……?」

「よくわからないけど、何らかの事情で一時的に舞の魂が体を離れていた時だ。だから、魂が入り込める余地がある」


 立ち上がって二人はしばらく互いの顔を見つめ合っていた。舞は困惑しながらも、めずらしくも明晰に司の言うことをのみこんでいる自分に驚いた。ほとんど同時に舞は目の前の司に対する違和感の正体を悟った。


「俺は迷った末に自分が産まれる前まで行ったんだ」


 司は悲しげに笑って言った。


「そこで、俺は……簡単にいうと生まれる日を早まらせたんだよな。一か月。別にそうしようと思ってそうしたわけじゃない。ただ、がむしゃらに動いたらそうなったんだ。そうしたら俺の運命は変わったよ。俺はな、舞、お前から離れようとしたんだ。俺といると舞が不幸になるんだって、そう思って……前世でもそうだったしな」


 そう言って一瞬顔をうつむけた司のそばにいるのが、舞には苦しかった。泣きたかった。今すぐ司の手を離したかった。


「幼馴染で生まれなければ、離れられると思ったんだ。でも、結局そんな上手くはいかなかった。母さんと父さんの仲はめちゃくちゃになるし、俺自身も幸せになれなかった。せっかく桜花市を離れられたと思ったらまた戻って、また舞と会うことになったし……なんだかな。それでも、舞が不幸になるのはどうにか阻止できたかもしれないけど。舞は京姫として覚醒できたし、目の前で俺を失わずに済んだわけだし」


 ああ、笑わないで、司。何もおかしくないの。何もおかしくないんだから。


「さっきから変だな。俺って言ってるけど俺じゃない。魂は同じだけど、生き方が違ったから。あっちは俺にとっては有り得たかもしれないもう一人の俺で、逆もまた然りってことだ。そして今となっては俺の方が姿なんだ」

「有り得ないなんて、言わないで……」


 ようやく声を絞り出して、舞は倒れ込むように司の胸に縋りついた。


「有り得なくないよ。だって、司はいたじゃない。今だって、私の記憶のなかにはちゃんといるの。私は確かに司を失ったんだよ……」

「ありがとう、舞」


 司の手が舞を引き寄せ、舞の頭をぽんぽんと優しく撫でる。まるで兄が妹にするように。


 なぜ司はこんなにも優しいのだろう。司にもたれかかって、懐かしいにおいに包まれながら、舞は思う――きっとそれは、紫蘭がそうなりたいと望んだからだろう。誰からも愛される優しい少年になりたかったのだ、紫蘭は。平凡でもいい。だから、優しい家族に囲まれて暮らしたかったのだ。気の置けない仲間たちと一緒に過ごしたかったのだ、紫蘭は。そして、今度こそ誰かを愛し、守れる強さが欲しかったのだ。司こそ紫蘭の理想だったのだ。


 舞は一度、紫蘭が夢見たものを愛した。司の制服のブレザーの裾を掴む手が小さく震える。そう、愛しのだ。今とて司を想う気持ちに変わりない。変わりはないけれど……舞は今、紫蘭の、そして結城司の、ありのままの姿に惹かれている。どうしようもなく孤独で、弱くて、さびしがりやな結城君。


 でも、今になってなんの違いがあるだろう。紫蘭の理想がこの上ない自己犠牲で以って――理想そのものをなげうつことで――舞たちを救った。もたらされたものと、それをもたらしたものと、一体何が異なっているというのか……同じなのだ。どちらも同じ結城司だ。怪物から逃れようと舞の手を引いてくれた司。柄杓を手渡してくれた司。舞を守り、信じ、愛している司。舞が守り、信じ、愛している結城司だ。


「……ありがとう、司」


 ブレザーの裾を掴む手の震えは止まっていた。今抱きしめている人は、舞の幼馴染の司、舞が誰よりもよく知っている司だから。




「ここでいいのか?」と司が尋ねた時、舞はこくんとうなずいた。舞と司は共に舞の記憶を辿ってきた。時間という観念のないこの世界で唯一の時の指標となるのはどれだけの時を遡ったかということだけだ。舞と司は長いこと歩み続けた。京姫として目覚める前へ、小学生時代へ、幼少期へ、生まれた日へ、そして……舞は足を止めた。ここしかないと心が告げていた。


「舞、怖くないか?」


 見知らぬ闇の上へ屈みこむ舞に、司が重ねて尋ねた。舞はすかさず首を振って、司に微笑みかけた。


「怖くないよ。だって、司と同じだもん」


 最後に司の体をぎゅっと抱きしめる。温かかった。幸せだった。他になにも望みようがないほどに……だからこそ、舞は行かなくてはならない。司もそうしてくれたのだから。


「……大好きだよ」


 同じ言葉をささやいた唇でそっと触れ合った。

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