28-3 「まだ終わってないもの」

 

 誰かが泣いている……




 薄曇りに閉ざされたような世界を舞は歩いている。舞の意志と関係なく、足は動く。否、本当に歩いているのだろうか、自分は。歩いているというよりも押し流されているといった方が正しい気がしてならない。抗いようのない力によって、舞はどこかへ送り届けられようとしている。


 その場所がどこであるかを、舞は知っていた。かつて一度来たことのある場所だ。その時は通り過ぎただけであったけれど。そして、ここはこれまでも何度か思い描いたことがある場所——手紙にはこう記されていたはずだった。



 私は彼の魂を迎えようとして開く地獄の門を閉ざしました。そして彼の魂は行きつくべきところへ行きつけずに死の世界から生の世界へと押し戻されたのです…………



 薄曇りの世界に黒々とした門が聳え立っている。その冷たい鋼の皮膚に彫刻ひとつすら施されていない無慈悲な扉の前で玲子は両手に顔を埋め、幼子のように泣いていた。押し流そうとする動きに従うままに舞は玲子の正面に立ち、手を伸ばして玲子の腕に触れると、その肘をやさしく開いた。わずかにもたげられた頬の上を流星のようにすばやく涙が伝った。


「泣かないで」


 ずっと伝えたかった言葉をようやく言えた。


「幸せになってって、そう言ったのは玲子さんじゃない」


 玲子の唇がわななき、ぎゅっと閉ざした瞼から再び涙が押し出されるのが見える。舞は玲子の胸に頬を添わせて、震える肩に手を回した。そうして玲子の涙を受けながら立っているこの空間ばしょが次第に内なる記憶を呼び覚まし、悲しみに青ざめた手がしたためた物語を舞の魂は今にしてようやく読みといたのだ。司の魂を生の世界へと押し戻したこと、地獄の門から京姫と紫蘭の魂を連れ出したときのこと――罪深く、苦しくて、哀切なこの記憶は、今抱きしめているこの少女がどれほど舞を想うたかという証であった。


 そして、それは罪であると同時にあがないでもあった。遠い神代、黄櫨大王として桜乙女が稲城乙女の前に立ちふさがったその日、朱雀が姉姫の首を喰い千切りその罪ゆえに地獄の門番を命じられたその日、稲城乙女はすでに朱雀をゆるしていたのかもしれない。遠い未来、生まれ変わった京姫と朱雀とがかくも愛おしみあうその日を信じて。


「舞をまた不幸にしたわ、私……」

「そんなことない。まだ終わってないもの」


 薄曇りの世界が低い呻り声とともに揺れはじめる。地獄の門の鋼の皮膚が俄かに悪意のざわめきを帯びて突如蠢きだす。装飾ひとつない滑らかな門の表面に、体を捻じ曲げて苦悶する罪びとの顔が、罪びとを苛む悪鬼どもの姿が、さながら裏側から押しつけられたごとく浮かび上がりはじめる。残酷なほど精緻に、おぞましいほど克明に。舞と玲子は涙に濡れた顔を見合わせた。なすべきことはわかっている。これは許されざる業なのかもしれない。それでもそのために舞も玲子もここに来た。


「舞、お願い、今度こそ……!」


 舞の肩に手をかける玲子の声は、紡がれるそばから涙にこぼたれかける。


「今度こそ、幸せに――」

「見つけてくるから!」


 玲子の背後で門が軋みはじめる。門の隙間から悪意の密めきが漏れ出して辺り一面にひろがり、足元に地獄の業火の熱が立ち込めんとする。口を開いただけで舌が乾いてしまうような熱気に襲われながら、来訪者を迎え入れようとする音に負けぬように舞は叫んでいた。


「きっと見つけてくるから!だから、みんなで絶対に……!」


 言葉の続きは口にできなかった。玲子が舞の肩を強く押し出してしまったから。舞の体は、舞を扉の前へと押し流した力に抗って玲子から遠のいていく。それでも霧のような薄曇りの向こうに隠れてしまうまで、舞は玲子の瞳を見つめ続けていた。紅の鳥のように、両の腕をひろげて地獄の門を必死に閉ざしている玲子の瞳を。




 ……やがて、来訪者の不在を悟り、門は軋みをやめる。玲子の体は崩れ落ちた。汗にしとどに濡れた額を振って、玲子は胸のうちに呟いた。今度こそ足だけで済むはずがない、と。それかふっと笑う。たとえ、足を失おうと、手を失おうと、地獄の業火に焼かれようともいいと思った。それでも舞を救いたかった。だから、私はここに来たのではなかったか。


 その時、たったひとりの世界に何者かの気配がして玲子はふと顔を上げる。訝しむ玲子は、背中から、何か、触れることもできないほどに儚い存在に優しく抱きしめられたような気がした。


 大丈夫、貴女は赦される――がそうささやいた気がした。



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