【短編】俺の四十九日まで

伊藤 終

俺の四十九日まで

 俺は死んでしまった。あっけないものだ。


 俺はまあまあ自慢しても構わない程度の大学を出た。卒業後は不景気だったが何とか外食産業に就職し、何も考えずに必死で日常にしがみついて店長になった。金を貯めて何かするということになっていて、友人には留学したいと言ってあった。今思えばどこまで本気だったのかよくわからないが、俺はある日の帰り道、脳内出血で道にぶっ倒れて即死した。


 俺は死後の世界へ向かいながら、離れていく世界のことを思い出していた。小学校にあがる前の子供の頃。まだ若かった親父と庭で遊んだこと。その庭に朝顔が咲いていたこと。俺には母親がいないから、親父との記憶しかない。

 その庭にいつだったか突然、親父が植物のツタが絡まる網というのを買ってきて、窓の外に斜めに広げて設置した。親父は「ツタが伸びて緑のカーテンが出来る」と誇らしげに胸を張ったが、すぐにその家を引っ越したから確かめられなかった。あのまま住んでいたら、本当にツタが網に絡んでいったんだろうか。

 離れていく世界をぼんやり遠く見下ろしていると、俺の大学時代の友人が病院で俺の死体を見て泣いていた。「金を貯めて留学するって言ってたのに。これからってところだったのに」と、そんな内容で他の友人にもメールで俺の死を伝えていた。働き始めてから一度も会ってもいない友人たち、皆どこで何をしているんだろうか。俺が生きて、金が貯まっていたら、そうしたら本当に留学して、この友人たちに連絡していたんだろうか。今となっては正直わからない。

 同じ病院で、俺の横に立った親父はみっともないくらいに大声を上げて泣いてくれた。男手ひとつで育ててきた俺が、突然あっけなく先に死んでしまって、本当に驚いたんだろう。いつも強い親父だと思っていた。孫の顔を見せてやれなくてごめん。俺はありもしない胸がしめつけられるような、でも温まるような、そんな気持ちがした。


 俺は死後の世界を歩き、なんとなく閻魔堂へとやって来た。何となく着き、何となく他の死人を探したが、ぞろぞろ死人が着いているのかと思いきや、白いもやの中にはどうやら俺しかいないらしい。

 死人が少ないはずがない。だがどうも、俺しかいない状態で閻魔堂に入るらしい。真っ白な四角い建物に、四角く空いた扉も何もない入り口があり、そこに俺は何も考えずに入って行った。入ってすぐのところには少しエントランスのような空間があり、正面にはまっすぐにどこまでの続くような長い長い廊下が伸びていた。

 俺はその廊下を何となく歩いて進んでいった。廊下には何もなく、両側にはところどころに長方形に切り抜いたような穴があり、穴の奥は小部屋だった。どの小部屋にも一人用の真っ白なデスクのようなものがあり、まるで閻魔大王のような、ずんぐりとした黒い衣装のおっさんがデスクの向こう側に一人ずつ座っている。

 どの入り口にもドアはなく、四角く穴が開いて開けっ放しになっている、そしてどの閻魔大王も部屋の中から俺をちらっと一瞥する、どの大王も何も言ってこない。

 このまま進んでも仕方がないのかな、と考え直した俺は、仕方なく廊下を戻って入り口付近に戻った。戻って初めて気が付いたが、エントランスに真っ白な長方形のベンチのようなものがあった。よく見ると俺が外から入ってきた入口の裏側、今正面に見えている壁には、「待合室」というパネルが貼り付けてあった。さっきはまるで気が付かなかった。俺はひとまずベンチに座った。固くも柔らかくも、冷たくも暖かくもない。そして俺は下を向き、ツルツルした素材の床にうっすら映る自分の曖昧な影を見た。


 どこからともなく、しわがれた声が俺の名前を呼んでいるのが聞こえた。

 正面の廊下ではない。右のほうからだ。俺は何か審判がおりるのかなと思いながら、声がしたほうへツルツルの床を歩いて移動した。右にも空間が続いていて、受付のような白い無機質なカウンターがあり、その向こうに老婆が座っていた。俺はカウンターの手前側にあった椅子に手をかけて無言で座り、老婆と向き合った。

 老婆は俺の顔をちらっと見て、事務的に言った。

「まだ決まったってわけじゃないんですけど、まあ、だいたい決まったんでしょう」

「はあ」

 俺は自分の死に際があっけなかったのと同じくらい、こんな感じで審判を告げられるのかと妙に冷静になっていた。そもそも死んでからどれくらいの時間が経ったのかすら、よくわからない。ずいぶん長い時間が経ったような気もするし、ちょっとしか経っていない気もするし。親父たちはまだ俺の葬式をやっているのか、もう何十年も経っているのか、そもそも親父はまだ生きてるのか、感覚的にはよくわからない。

 でもまあ、何でもいい。どうせ死んでるんだ。

 老婆は単調に続けた。

「生前の様子は、まあ、悪人ってわけじゃないけど、特別良くもないですね」

「はあ」

「えーっと、たとえば」老婆は無機質なA4のクリップボードに挟まった灰色の紙をペラっとめくりながら話し続けた。「あなた、ちょっと前に、夜中に歩いていて、苦しんでる子猫を見たでしょ」

「ああ…。覚えてます」

「それだけ?」

「いや、えっと」

 油断していた。おそらく俺の回答は、俺の命運を握っている。俺は説明した。

「猫が…夜中の道端で、すげえ声を上げて、ふぎゃあああって叫んでて、起き上がれないのか、グルグル道の上で猛烈な勢いで暴れてグルグル回転してました。道路には血が付いていて、車に撥ねられたのかなって思いました」

 老婆は黙っていた。クリップボードをカウンターの上に置き、俺のほうに体も目も、全てを向けた。

 俺は続けた。

「ケガでもしてるのかなと思ったんですけど、ちょっとあんまりにもその子猫が、見たことがないくらい激しく暴れてたもんで、元気なのか、よくわからなくなって、ビックリしてそのまま見てました。一回ピタっと止まって全く動かなくなったんで、息を止めて見てたんですが、またしばらくすると、ぎゃああああってすげえ声を上げながら回転し始めました。ものすごい勢いで。それで……」

「それで?」

「動かなくなりました。それでしばらく見てましたけど、全く動かなかったんで、家に帰りました。どういうことか、わからなかったんですけど。あの猫は……死んだんですか?」

 俺は思わず、そう聞いた。

 老婆はもう一度クリップボードを手に取り、無表情で答えた。

「知りません」

 真相を知ることが出来ずにがっかりした俺は、そういえば自分だってもう死んでるんだ、と思い出した。あの猫も、きっとあれが断末魔で、きっとあの時死んだんだろう。


 老婆はふん、と鼻から息を吐き、更にA4のクリップボードに挟まっていた灰色の紙をめくって、ちらっと横目で俺の顔を見ながら言った。

「もうひとつ。電車で、50代くらいの男性の隣に座ったことがあったでしょ」

 猫の話題があったから、ピンときた。

「ありました」

 それで、わかった。

「あの人は、亡くなっていたんですね」

「それは知りませんけど」

 老婆はまた曖昧に答えたが、こうして話題にされるからには亡くなったんだろう。俺はそう思った。

「俺は……ただ、朝の電車で空いてた席に座って…。そしたら隣の親父がすっげえ寝てて……」

 本当に、すげえ、寝てた。

「全身から力が抜けてるっていうか、本当に電車が揺れるたびに、ぐわんぐわん俺にもたれてきて、それで俺はこいつ邪魔だなと思って、時々両手で押し戻しました」

 それから俺は電車を降りた。

 それは電車が折り返す終着駅で、慣れた電車で通勤中の俺もまわりの人間も全員が電車を降りた。それなのに、そのおっさんは寝たままで、そのまま座っていた。

 そこへ駅員がやってきた。

「声は聞こえませんでしたけど、駅員が何か話かけて、おっさんを起こそうとしてました。なかなかおっさんが起きないもんで、駅員が少しかがみこんで、お客さん、お客さん って感じで起こそうとしてました。おっさんの体には全然力が入ってなくて倒れそうだった」

 気が付くと老婆はまた、クリップボードをカウンターに置いて俺をじっと見ていた。老婆は言った。

「それで?」

「向かいのホームにやってきた、乗り換え先の電車に乗りました」


 老婆は無言で灰色の紙をパラパラと、めくったり、戻したりしている。

 もう、ずっとこんな時間が続いている。

 俺はずっと椅子に座り続け、老婆が何かを言い渡すのを待っていた。老婆は口を開いた。

「忘れてることがあるみたいだから教えますけど」

「はい」

「今日あなたが話したこと、その体験の後、あなた電話してますよね」

 電話。

 俺はその頃、いつも電話をしていた。誰かに。誰かにというのは、まあ、だいたいは当時付き合っていて甘えまくっていた彼女にだ。彼女は俺の精神の面倒をよく見てくれたと思うけど、逆に彼女は生活面で色々だらしなく、俺は料理をしたり、車で送り迎えをしたり、あれこれ叱ったりして面倒を見た。するとそのままいつの間にか、どっちが面倒を見ているんだか見られているんだか何がなんだかわからなくなっていった。家族みたいだと思っていた時、俺はフラれた。

 とにかく多分、束縛と言うか、説教したりとか、責めるようなことを言ってばかりで要求しすぎたんだろう。学生時代に付き合って、社会人になってもずっと付き合っていて、何でも話して、いつも甘えて、べったり過ごした相手だった。別れの喪失感は俺にとっては壮絶で、暴れてもがいて土下座をした。

 それでもだめだった。最後は笑って彼女を送ってやろうと心に決めた。俺が降りる駅に先に着いた時、最後に俺が言った冗談に驚いて怒ってぷっくり頬を膨らませていた彼女に、俺は満面の笑みを見せ、さようならに変えたんだった。

 彼女は俺の太陽だった。

 どうしてもどうしても、彼女なしでは生きられないのにと思った。でも変だよな。俺は死んだ。

 俺は言った。

「猫を見た直後も、おっさんを見た日の夜も、俺は彼女に電話しました。それでとにかく俺が見たことを見たふうに、そのまま話して伝えました。俺は死んだ人の隣に座っていたのかなって。でも真実は知りたくないし、びっくりするくらい俺は平常心で取り乱してないんだって、そんな風に話しました」


 老婆は長い間黙っていたが、やっと、少しだけはっきりしたことを言った。

「あなたね、本当にぎりぎり、どうしようかなってところでね」

「はあ」

「ちょっと判断できないから、待合室でもう少し待っててもらってね、そこでまたちょっと、文章を書いてもらいます」

 よくわからないままに、紙とペンを渡された。

 老婆はそれを、彼女がずっと持っていたのと同じクリップボードに挟み、俺に手渡した。


 待合室には相変わらず誰もいない。

 俺は「何か文章」を書けと言われた。

 でも「何か文章」って何だ。良い人間が書きそうなことを書くのか? いやそんなもの、嘘がバレたら悪い結果になりそうだ。ありのままに俺らしく書くしかないだろう。でも、ただ生きてきた状態で「ぎりぎり」って言われた俺が、俺らしく書いて何かのプラスになるのか?


 ずっと、ずっと考えていた。

 本当にずっと考えていたのか、本当は短時間だったのか、やはり時間の感覚は無いが、どうしようもなくなって俺はとうとうペンを紙の左上に近づけた。勇気を出して更に近づけると、白紙に点の染みがついた。そこからペン先を離すことが出来なくなって、でも書き始めることも出来なくて、俺はどうしようもなくなって、ただ両目を閉じた。

 俺は、何を書くのかな……。

 絶叫しながら死んでしまった猫。いつもなら、近所であんな子猫が生きているところを見たなら、俺はきっとカワイイって思っただろうし彼女にも電話で「カワイイ子猫がいた」って報告しただろう。帰り道はいつも彼女と長電話をしながら歩いていた。

 電車であの日、死んでしまった見知らぬおっさん。きっとあの人にも家族がいて、朝は普通に家を出たんだろう。それでも命は電車の中で消えていた。でもあれは、あんまりにも生きてるみたいな、生きてる見知らぬ人みたいな、おっさんのような、そんな物質だった。本当に、おっさん、という感じだった。でも、あれは…。

「死んだ人間だったんだな」

 俺は両目を開いた。

 ペンは紙の左端についたまま、まだ止まっている。

 もし、はっきりわかっていたらな。「亡くなった人でした」と言われていたらな。そしたら俺はもっと取り乱したり、違うことを彼女に話したかもな。俺は確かに死に接触したのかもしれないが、自分でもよくわからないくらい、あの日はすごく普通だった。駅も日常のままで落ち着いていた。よくわからなかった。彼女にもよくわからなかった、と言った気がする。彼女がどんな反応をしたのか覚えていない。だが俺は日常の中で死に接触していた。


 彼女について強烈に覚えているのは、本当に別れを切り出されるより1年ほど前に、悲しそうに「絶対に私を射止めて」と言われたことだ。付き合っていた俺は「何それ、当たり前じゃん」と思って大して反応しなかった。彼女は悲しそうな、苦しそうな様子で俺を見ていた。そして最終的に俺はフラれた。

 書かずに俺は、声を出していた。

「彼女が俺を悪く言ってるみたいだったから、俺はひどい喧嘩になっちゃったなと思って、彼女が話しているのに帰り道を歩きながら電話を耳から離した。そのまま全く話を聞かないで、いつも長電話をしていた帰り道を歩いた。家の近所までずっとそうやって歩いて、気が付いたら電話は切れていた。彼女は何かを話してた。俺は聞かなかった」

 俺はベンチの上で初めてしっかりと悲しい気持ちになった。

 この時の俺の態度について、その直後にも彼女には何度も謝った。彼女はかなりのことを話していたらしく、ただ驚いていたけど、いいよ、と許してくれた。

 許してもらえたので俺はすぐに遊びに誘い、ピクニックをしようと言って彼女と大きな公園に行き芝生と森を楽しんだ。ああ、仲直りが出来て良かったと思っていたら、その日にも彼女が別れる別れないの話をし始めた。俺は悔しい気持ちで笑いながら「別れたいって言ったり、将来のこと話したり、どっちなんだよ。わかんねえよ」って強がって言った。

 それで、彼女は決意を固めてしまった。

 俺のためには生きないことにした。そう言って俺に、別れを告げたんだった。


 そこから俺は、生活の全てを崩壊させて取り乱した。

「取り乱したけど、そもそも俺が彼女依存症になって重かったのが別れたい理由だったから、俺は何で会えないんだ、会いたいんだって言いながらも、頑張ってきちんと一人で不安にならずに過ごせるように頑張った。彼女が電話じゃなくて手紙に書いてくれって言うから手紙を書いた。彼女はちゃんと返事をくれた。いつか必ず迎えに行くって誓って俺はもがいた。半年間、俺は自分と戦った。やっと自信がついた時、彼女は急に別の男と結婚するって言いだした。俺は慌てて彼女の家の前まで行って、その時は本当に体がちぎれるくらいの気持ちで会いにいって、それで、どうしても俺と結婚してくれって、初めてはっきりそう言った。何度も言った。何度も何度も言った。土下座して言った。それでもだめだったから、最後に俺が片づけた、君のいない部屋を見に来てくれ、見て欲しくて一生懸命一人で工夫して、会わなくても大丈夫な時間を過ごせる俺になったことを見に来てくれって頼み込んで、最後に家に来てもらった。最後にお願いして抱きしめたら俺たちの間には愛情がしっかりあるのがわかった。お互いのことを大切に思っていることが完全にわかった。だけど俺たちは完全に別れた。こんなにお互いを思ってることが体温から伝わってくるのに、どうして離れ離れにならなきゃならないんだって言ったんだ」

 俺はそれからずっと取り乱し、泣きまくり、友人に会ってわめいた。

 思い出している間、紙とペンは全く動かなかった。俺は喋り終え、あとはただ長い長い間、そのまま停止していた。ああ、そうだ、死んでしまう俺なんかと、彼女は結婚しなくて良かったんだ。


 そういえば俺のばあさんはボケてしまって気の毒だったが、孫が死んでもわからないならボケて良かった。俺は自分が死なないつもりで勝手に気の毒がっていた。親父には悪いけど、ばあさんはボケて良かったんだ。俺は死んだんだから。

 ちょっと前向きになれた。でも、俺はあとは停止していることしか出来ず、何も書かず、ただそのままペンを握っていた。


 ふと、いつ見たのかもわからない朝日のことを思い出した。

 キラキラしていて… どこかに反射して… きれいな日差しで……

 よくわからないが、若かった親父の顔が思い出された。肌が今よりずっときれいで、俺の顔を覗き込んで「何やってるんだ」みたいなことを言って笑っていた。俺は恥ずかしい気持ちで「いいだろ、何だって」と答えていた。いつの記憶だろう。海に行った時か、釣りに行った時、もっと近所で普通に過ごしていた時の記憶か?


 俺は突然、前かがみになって、白紙の上にペンを走らせた。


 親父へ


 俺は、死んでしまいました。

 本当にごめんなさい。

 金も時間もかけて育ててもらって、それなりに成長したつもりでしたが、俺自身の不摂生が元で、急に死んでしまって、めんくらったでしょう。葬式も、俺が出してやるのが本当の順番だったと思うんだけど本当にごめん。

 ごめん、しか、書けることがありません。

 今から俺は地獄に行くかもしれませんが、そうなったら地獄でちゃんと働いて、親父に迷惑がかからないようにします。親父は今から結婚とかは難しいかもしれないけど、諦めないで何か探して生きてください。俺は親父が幸せになるのを祈っています。ばあさんの見舞いは、行けるうちは、いっぱい行ってください。でも無理はしないで、悲しかったら好きな釣りに行って


 ここまで書いて、また俺の手は止まった。

 何を偉そうに親父に命令してるんだ、俺は死んでしまった酷い息子なのに。でもまあ俺が悪いと親父は言わないだろうし、俺もぶっちゃけ本当に俺が悪いとは思っていない。いや俺が悪いんだが、もう、いいんじゃないか? 俺は続きに何を書けばいいんだ。


 親父、

 ごめん。ごめん。ごめん。

 俺が酔って帰って、マンションの前で吐いた時、俺が風呂に入ってる間に掃除しに行ってくれてありがとう。本当に感謝しかないです。みっともない息子でごめん。そこまでして育ててくれたのに、ちょっとは良い大学に行って喜ばせてやれたのに、ぬか喜びというかただの一瞬の喜びで、真面目に立派な会社に行こうと努力もしないでテキトーな会社に入って、自分で体調管理も出来ないでへらへら働いて、愚痴ばっか言って、その果てにころっと死んでごめん。

 まさか俺だって死ぬとは思わなかった! これは本当に、今からはごめんとしか言えない。親父、ごめん。ごめん、ごめん。ごめん、ごめんなさい。ごめんなさい。親父に会えたら嬉しい。でも会えないのはわかってる。悲しませてごめん。


 気が付くと、俺は泣いていた。涙が落ちて、ペンを持つ手が濡れた。

 泣けた。


 しわがれた声がまた俺の名前を呼んだ。

 俺はさっきと同じカウンターの手前のイスに座り、汚い文字を書いたクリップボードを老婆に手渡した。老婆は無表情でさっと軽く流し読みをして、黙っていた。

 しかし俺には突然、自信が湧いてきた。どういう結果になっても良い。書きたいことは書いた。それに何となく、悪い結果にはならない気がする。

「あっ」

 急に老婆が声を出した。

「お知らせが来た、あ、葬式だ。あなた、ちょっと別の場所に行きますよ、外に出て歩いて行くことになります、立って立って」

 俺は立ち上がった。

 そういえば俺は彼女と付き合っていたことを家族に伝えていない。彼女に俺の死は伝わらないだろう。携帯から連絡先も消した。いつか知るかもしれないが、どうなんだろう。お幸せに。

 そんなことを思ってからふと自分を見ると、俺は白い旅装束を着て建物の外に立っていた。

 老婆は言った。

「とりあえず、ずっと歩きですから。手甲、脚絆、ちゃんと生前の近しい人たちが用意してくれたみたいで良かったですね」

 声に全く感情が無い。俺はさすがに少しは何かを知りたくて、聞いた。

「俺の審判はどうなったんですか」

「審判?」

「はい。俺は歩いて地獄に行くんですか?」

「さあ。知りません」

 老婆は少しだけ考えるように黙ってから、続けた。

「ここからはずっと歩きです。生前に付き合いのあった人とかがね、お経をあげてくれたりですとか、そういうことを色々してくれると元気で歩けます。そういう供養をされない人もいますけど、そういう時はどういうことになるのか良くわかりません。私もね、実際にあなたみたいに歩いて行くことって無いから。とにかく歩いてください」

「どれくらい歩くんですか」

「さあ……。ひとまず四十九日くらいまでは続くっていうコースのはずですけど」

「四十九日ですか」

「そう。家族が葬式してるんでね。仏教ですね」

「はあ。それであの、歩いていて、他の人に会うってこともありますか?」

「ありませんね。お互いに会うってことは無いので」

「無いんですか」

「無い。歩いて、人に会うなんてことはない」


 ずっと一人?

 どうなるのかわからない状態で。とりあえずで。

 俺は目の前の闇へと進んで行こうとして、やっぱり少しだけ、何かを言われたくて老婆を振り返った。

「ありがとうございました。あの…」

 どさっ。

 老婆は砂になり、落ちるようにそこに崩れて消えた。


 驚きのあまり、茫然とした。

 俺は一人だった。


 どうしようもなくなり、歩こうとした闇のほうへと向き直ってみると、うっすらと明るい真っ白な石畳が見えた。闇と白いもやが深くなってきた。数メートル先までだけは、足元に石畳が見える。俺は砂の山となった老婆に一礼をして、石畳の上に右足をそっと伸ばした。

 石に右足が乗ったので、次は左足を伸ばす。左足が石に乗ったので、次は右足を伸ばす。俺の歩みは一歩、二歩、三歩と進んだ。

 心細い気持ちでもう一度振り返ると、砂の山すら見えなくなっていた。あの老婆は俺の彼女の化身だったんじゃないか。そんなことを急に思ったが、化身ってなんだ。考えたって結局、何もわからない。俺にはこの世界が何が何だかわからない。

 進行方向に身体の向きを修正し、改めて歩き始めた。

 親父が仏教の葬式をあげたから、俺は四十九日まで歩くことになったのかな、この闇の中を。そういうもんなのかな。こんな仕打ちとわかってやったのか、わかったはずないな。親父が悪い気持ちでそうしたわけじゃないはずだ。

 闇に何があるのか、親父はいつまで供養するのか、もう会えないし俺にはわからない。途中で倒れるかもしれない。すると俺はどうなるのかな。わからない。

 心配したって、わからない……。

 ボケてしまった親父の母ちゃん、俺のばあさん、どうなるのかな。わからない。みんなどうするんだろう、わからない。もしも教わったとしても、それが本当なのか俺には確かめるすべがない。そうだ結局、断末魔の子猫も、電車のおっさんも、親父への手紙も、何かが俺の運命を左右したのかしていないのか、全然わからない。

 この先には結局、閻魔様がいるのかどうかも……わからない。


 両足を交互に出しながら、俺は死んだ子猫もこの石畳を進んだのかな、と考えた。猫はどんなコースを行くんだろう。もし俺と同じように歩くとしても、寺に入れられなきゃ四十九日まで供養とかいう感じじゃないだろう。猫はちゃんと歩いて行けるのか? やばいだろうな。これはもう俺が励ますしかない。猫に届け、この気持ち。無言で歩きながら繰り返し心に思う。

 俺は歩いている。きっと親父が俺を供養している。そう信じておこう。理解するより信じるほうがいい。すぐ出来る。猫にも届く。俺の気持ちが。

 右足、左足を出す。

 誰かが俺のことを考えている。だから俺は歩いてる。それを信じる。

 右足、左足を出す。

 ばあさんはボケて幸せだった。それを信じる。

 右足、左足を出す。

 彼女は俺が死んだとは知らず、俺を時々思い出す。そう信じる。

 右足、左足を出す。

 猫は俺が覚えていることで、この道を俺のように歩ける。そう信じる。

 俺はこの先、誰にも会えず、誰にも相談できない。

 でも仕方ない。

 俺はずっとそうだった。勝手に一人で生きていた。


 俺は泣いているのかいないのか、自分でもわからない。ただただ、どれだけ続くのかもわからないまま俺は歩く。生前と変わらないじゃないか。親父、ごめんな。ごめんとは思うけど、なんか、よくわからない。歩くよ。ごめんな。

 親父、元気で俺を供養してくれな、ごめんな。俺が歩いてるってことは、誰かが覚えてるってことだよな、そうだよな。まだ歩いてるからそういうことだよな。

 もう親父とも話せないけど、俺が歩けばそれで俺たちは成立してるよな?

 歩く、歩く。まずは四十九日まで。


 終

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

【短編】俺の四十九日まで 伊藤 終 @saa110

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ