第3話

 ……驚かせてしまったかな。いや、君の課題のためには思い出話だけするという訳にもいかないかと思ってね。まあ不意打ちで驚く顔を見たかったというのもあるのだが。怪談話だと思わせておいて歴史の話に戻した方が面白い……というか、興味を惹かれるのではないかな? どうだった?


 その一家のことか? 私もその後はよく知らない。私たちが騒ぎ立てたことで隠しきれなくなっただろうとは思うのだが。だから、彼らは君が授業で教わった場所へ送られたのだろう。私たちのあさはかな好奇心のせいで。

 一晩中身動きもできずに恐怖に耐えた後で、夜明けにほっとして息を吐いたのを聞きつけられて。あの狭い壁の間で扉が開かれるのを見つめるしかなかった瞬間の恐怖は、どれほどのものだったか――それは、いまだに悔やみ申し訳なく思うことだ。友人たちも皆そうだ。顔を合わせると時にあの時の話になる。特に発端となった彼は、素行ゆえに親に信用されていなかったと思い知らされた上に、両親のの邪魔をしてしまったようなものだったからな。参り方もひと一倍だった。

 いまだに忘れられない――これも、戦争に関する罪のひとつなのだろう。


 ただ、誤解してほしくないのは、私たちは誰ひとりとしてホロコーストに加担していたつもりなどなかったということだ。まあ、無知の罪や彼らへの感情は置いておくとしても、積極的に死ねば良いとまでは思っていなかったしが行われているとは思ってもみなかった。

 私たちも、今の君たちと変わらずに友人と遊んだり暗闇を怖がったりしたし、大人への反抗心もあった――その上で、歴史の教科書に載っているような迫害やそれへの対抗活動もすぐ傍に潜んでいた。そういう時代だったということだ。


 そう、だから私が言いたいこととしては、自分や自分の周囲は関係ない、などとは思ってはいけない――というあたりかな。戦争なんて遠い世界のことのように思えても、いつ身近に迫るか分からない。ただ普通に暮らしているつもりで、犯罪に加担してしまっているのかもしれない。そういう自覚というか疑いを持つことが、大事なのではないだろうか。




 さて、これで良いレポートが書けると良いのだが。何か、質問はあるかね?


 ……何だ、なぜそんなことを聞く? あの時代だったら、ユダヤ人が匿われていることに私たちは気付いていたのではないか、それくらい思い至っていたのではないか、って? バカバカしい! それは、映画かドラマを見ているのならそういう先読みもできるかもしれないが。あの頃の私たちはただの子供だし、みんな勉強も嫌いだった。そういう類の想像力は働かなかったというだけだ。今と違ってフィクションが溢れている時代でもなかったんだ。それをバカにするのかね。


 大体、私たちがそうと予感していたというなら――私たちが、ユダヤ人を売り渡してやろうと思っていたということになってしまうじゃないか。ナチス時代を経験しているからと、そのような犯罪に好き好んで手を染めたとでもいうのかね。ダッハウやアウシュビッツ――ほのかにではあっても、何が行われているか予感していたというのに! この私を、そんな悪党呼ばわりするのか!? それこそ偏見というものではないか? 戦後、私たちの世代が世界中から後ろ指を指されてきたのを知ってるだろう? ドイツ人にまでそんなことを言われなくてはならないのか!?


 全く無礼だ、いったい何を根拠に――何、幽霊は芋を食べない、だと……。そうか、彼の家の中で見た芋の袋、数が減っていたのはユダヤ人一家に与えていたからか。髪も、あの娘のものだから確かに実体を持っていた。いや、だからといって家の中に他人が潜んでいるなどと飛躍するものか! アムステルダムの少女の日記、あんなのを知ったのも戦後のことだったのに! 繰り返すが、迫害など遠い世界のことだと思っていたのだ! 君は我々の世代を色眼鏡で見ている!


 彼? 彼とは……発端の少年のことか? なぜ彼とその後も会えたか? どういうことだ……何、少なくとも両親は収容所送りになったのではないか、ならば彼も元の家に住み続けることはできなかったのではないか……? ……知らない。私は子供だったと言っただろう! どういう処分が下されるか、どういう例外があったのか、いちいち知らされたりするものか!


 大体、なぜそう細かいことを聞くんだ!? 生まれてもない時代の話、何十年も前のことで! 君もユダヤ人なのか!? あのアマはあんたの祖母さんか!? そんなことはあり得ないだろう!

 あり得ない! ……違う、あり得ないというのは、確率的に、という意味だ。そんな偶然があってたまるか、というだけだ。あの女は死んだ。収容所で死んだんだ。飢えかチフスかガス室かはどうでも良い。そんなことは私の知ったことじゃない。私は知らない!


 ユダヤ人どもの居場所がバレたんだ、密告せチクらずに済む訳はないだろう! 連中は収容所に送られてそれで死んだ! 私たちはたまたま見つけてしまっただけ、いずれ他の誰かにも見つかっていただろうさ! 他にどうすれば良かったというんだ? 引き渡さなきゃこっちの身が危ないってのに!


 なんだ、お前は。どうしてそんなことが分かるんだ。二十歳にもならないガキのくせに。あの頃のことを何も知らないくせに。どうして見てきたようにしたり顔で言えるんだ!

 消去法? 女のくせに小難しいことを口にするな!

 あの少年が無事だったのなら、ユダヤ人一家は収容所送りには。一方で私は彼らの死を確信している。ならば、結論はひとつ、ひとつなのか? そんなに簡単なことなのか? どうしてそう簡単に言ってしまうんだ!?


 ああ、そうだ! お前の言う通りだこの魔女め! 彼らはまた壁の間に戻っていったよ。そうしてしばらくの間はそこにいた。密告すれば近所の者も巻き込まれるからな、皆で話し合ってそう決めた。親からそう聞かされた。友人の家の分け前は減ってしまったがね、収容所送りよりはだいぶマシだろう。


 ……馬鹿め、ユダヤどもを匿うのは完全な善意だとでも信じていたのか? おめでたいな! あの頃のドイツ人も全員がナチスではなかったと思いたいなら残念だった! 友人の親も聖人なんかじゃなかったのさ。家の一角を豚小屋に貸し出した理由は全て、金だよ、金! 奴らが溜め込んだ財産を差し出させて、その代償に守ってやったという訳だ! ……まあ、代金は金だけじゃなくなったがね。父親なんか、娘が何をされても目を瞑って耳を塞いでいたっけ。いや、実はこっそりとおっ勃てていたのかもしれないな。はは……。


 だが、それも彼らの選択だ。命よりも誇りを選んだ人の話は幾らでも聞くじゃないか。あんな恨みがましい目をするくらいなら、さっさと死ねば楽になれたのに。首を括る隙くらいはあったはずだぞ。生きるためならなんでもする――奴らは本当に下劣な存在だったよ! そうだ、結局同じことだったじゃないか。強制収容所でも苦しんだ末に死ぬんだろう? 奴らは最後までまともな家と食事に恵まれただけ幸せだった。私たちだって近所ぐるみで危険を冒して匿ってやったんじゃないか、そこは認めてもらっても良いだろう!?


 クソシャイセ、私はなんでこんな余計なことを言っているんだ? 聞こえの良いことだけ話してやれば良いはずなのに。反省しているように見せかけて、それらしい訓示を垂れてやれば学校にも感謝されたはずなのに。どうして本当のことなんて言っちまった? お前か、お前が余計なことを聞くからだな!

 何十年――何十年、あんなことはなかったと自分に言い聞かせてきたと思う? あんな幽霊探しなんて話をガキに聞かせてきたのは、事実そうだったと思いたかったからだ。俺は悪気なんてなかった、たまたま見てしまっただけだ、と。何年もかけて、やっと心の底から信じられそうだったってのに! お前のせいで!


 なんだ、もう帰るのか!? いや、まだ早いだろう。思い出してきたんだ。まだ言いたいことは山ほどある。あの可愛いユダヤの雌犬に何をしてやったか――全部、教えてやろう。いや、話すだけじゃなくて実施で体験させてやる。そうでなきゃ分からないだろうからな。ああ、つやつやした髪と肌だ。日に当たらず運動もせず、栄養が不足するとどんな有様になるか、知らないだろう。そうだ、お前は何も知らない、みんなそれが悪いんだ。


 学校には帰ったと伝えるさ。コーラを出してやって、握手して見送ったってな。帰り道でどこかへ遊びに出かけて、そのまま帰ってこなかった――よくあることじゃないか? 最近の子は遊んでいるんだろう?


 黙れ! 俺を責めるな! 私だって悪かったと思わなかった訳じゃない。何十年間も苦しんだんだ! なんで興味本位でほじくり返した? 名探偵にでもなったつもりか? この上世間の非難にも晒されるなんてまっぴらだ! ナチスへのがどう扱われるかも、お前は知らないんだろうが!

 受けの良い話に仕立てて聞かせてやったじゃないか。どうしてそれで満足しない? どうして本当のことなんか知りたがった? 事実なんて知ってもなんの意味もないだろう!


 お前。どうせ何不自由なく育てられたんだろう? どうにもならない苦しさなんて味わったことがないだろう? 最初の挨拶から気に入らなかったんだ。あんなはきはきと喋って、明るく笑って……あいつのあんなところは見られなかった……俺だって優しくしてやろうと思ったこともあったのに。笑ったところが見たかったのに。だが、仲間に意気地なしと笑われたらそうするしかないじゃないか。


 いや、お前に言っても仕方ない。これは余計なことを言いふらされないためだけだ。知っているか? この辺りの家の造りは大体同じなんだ。壁のどの辺が脆いか、どこに空洞があるか、もうよく分かっている。しばらくは、誰にも気づかれないだろう。

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壁の間 悠井すみれ @Veilchen

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