第2話
今、音がしたぞ! どこから聞こえた!? あっちだ、裏には何があった!?
私たちは分かりきったことを口々に騒ぎ立てた。皆が慌てて跳ね起きたのだから実際音がしたのもその方向も明らかだったし、友人の家の間取りもよく知っているはずなのに。声を出さなければ、夜の闇と――聞こえてきた
音の出所は、友人の寝室の隣の部屋。二階建ての家に住まうのは彼と両親の三人きりで、そこは物置のようになっていたはず。無論、深夜……というか明け方近くに両親が立ち入ることなどありえない。眠気も疲れも吹き飛んで、私たちは廊下に
最初のひとりふたりは音の出所と思しき部屋に入ることができたが、後続にいた私とほか何人かは扉のところで
お前たち、何をしている!
はは、驚いたかい? いきなり大声を出してすまなかったね。だがあの時の私たちの驚きと恐怖はそんなものじゃなかった。幽霊にすっかり気を取られていたところに、背後から雷のような大声が聞こえたのだから。
だが、生憎と言うか、その声は生身の人間のものだった。誰のものだかは――まあ、想像がつくんじゃないのかね? そう、そこにいたのは家の主、友人の父親だった。眠っていたところを騒ぎで起こされて、眠気にはれぼったい目蓋をして。大層不機嫌そうな顔をしていたっけ。もともとその小父さんはさほど愛想が良い人でもなかったのだが……その険悪な顔つきは、私たち悪餓鬼どもを震え上がらせたね。
昨晩から人の家で騒ぎやがって。もう我慢の限界だ。こそこそ嗅ぎ回るのも良い加減にしろ。
私たちは廊下に並べられて、一発ずつ拳骨を食らった。学校で叱られる時みたいにね。その頃には友人の母親も起きていて、旦那と同じように胡乱な目で私たちを睨んでいたっけ。
そんな訳で朝食も出してもらえずに叩き出されて、朝早すぎる時間に帰ったことで自分の親にも何があったと叱られて。――だが、私たちは懲りていなかった。
……友人の父親の台詞、何かおかしくはなかっただろうか? こそこそ嗅ぎ回る、なんて普通は出てこない言い回しじゃないか? 思えば、彼は怒っているというよりも、その振りをして焦りを隠しているようじゃなかったか? 説教を眺めていた友人の母は、そういえばさりげなく例の部屋の扉を塞ぐ位置に立っていなかったか?
幽霊は、いる。それも、彼らは何かを知っている。実の息子にさえ明かしていないことを……!
思い上がった若者の勘が、私たちにそう教えていた。だから、明け方の薄闇の中、近所を憚って口を
そして私たちが次にどのような行動に出たか……そうだ、話を続ける前に何か飲むかね? 何も構いもしなくて悪かったと、ふと気が付いたものだから。いや、遠慮しないでくれ。年寄りの一人暮らしだと気が利かなくていけない。せっかくわざわざ若者が訪ねてきてくれたと言うのに。少し、待っていてくれ。
ほら、どうぞ。冷蔵庫にあったのがビールだけじゃなくて良かった。コーラで良かったかね? 嫌と言われても代わりはないが。それとも君もビールにするか? いや、冗談だ。君のプライベートには口出ししないが、建前としては学生はまだ酒など飲まないものだ。そうだろう?
さて、どこまで話したのだったか……そう、あの時の私たちもまずは休憩を取ったのだ。
自宅の慣れたベッドでほんのわずか仮眠を取ると、私たちはいつもの場所に集まった。前日幽霊の話をしていたのと同じ場所、黒々と深い森の一角に陽が射す快適な場所だ。
例の少年は私たちよりも余計に殴られたのだろう、顔を林檎みたいに腫らしていたが――とにかく、仲間がまた揃った訳だ。私たちは頭を寄せ集めて話し合って、家に人のいない昼間の方が良い機会だろう、という結論に至った。
母親までも家にいないのが不思議かね? あの時代、女性は家庭を守るべきだとされていたと教えられているのだね。女性を産む機械に貶めて権利を認めていなかった悪しき時代だと。だが、それは誤解というものだ。あの頃も今も変わらないよ。父親の稼ぎが十分なら母親は働かずに家事に専念できるし、そうでないなら家を出て働かなくちゃならない。まして敗戦間近となれば、何かと不足が多くなる。そういうことだ。件の少年も、母親は昼間工場に出ていると証言した。
若かった私たちは、わずかな睡眠ですっかり疲れを癒し気力を取り戻していた。昼間の明るい太陽の下では夜の闇も恐怖も遠く、幽霊なんて存在しないだろうという気もし始めていた。そうだな、私たちの興味は幽霊よりも大人の隠し事に移っていたのかもしれない。私たちを殴りつけたクソ親父の鼻を明かしてやる、後ろめたいことがあるなら暴いてやる、そんな風に思っていたのだろうな。
イギリスやフランスの敵兵をやっつける戦争ごっこ、なんてやるほど幼い年頃ではなかったのだが。それでも、少年というのはああいうのが好きだったのだろうな。私たちは戦争というか作戦遂行を模して、斥候や伝令の役をお互いに割り振り合って、はしゃいでいた。野良犬がうろついているのを見かけたら、敵影! なんて叫んだりしてね。今思うと全くバカバカしい限りだが。
そうして、前日の緊張や恐怖や幽霊の気配なんてすっかり忘れた頃に友人の家にたどり着いて――私たちは予期せぬ事態に出くわした。その家の扉が、薄く開いていたのだ。無論、田舎といえど鍵を掛け忘れて外出するなど考えづらい。それは恐らく換気のためで、屋内では母親が掃除か何かをしているということなのだろう。
私たちは、警戒されている……!
そう確信して、私たちはまたひとしきり盛り上がった。外出しているはずの友人の母が在宅していたのは、目を離すことができない何事かがあるからだとしか思えなかった。私たちの直感は誤りではなく、この家には実際
さて、それはそれとして私たちは問題に直面した訳だ。何しろ我々は明け方にこっぴどく叱られたばかり、怖い父親はいないとはいえ、また正面から入ろうとしても叩き出されるだけだろう。
諦めたはずはないのは分かるだろう? それではわざわざ君にこうして語って聞かせる意味もない。私たちに振って湧いたのは、例によって戦争的な考えだったよ。最近の教師なら、眉を顰めるかもしれないが。
そう、陽動作戦だよ。……といっても子供の考えることだから、作戦というのもおこがましい程度のもの、至極単純なものだった。
一味のうちの数人が家の裏手に回る。そして適当な騒ぎを起こす。いかにも窓をよじ登って家に入ろうとしているような、そんな演技をしながら。家の中の母親にもよく聞こえるようにわざとらしいほど物音を立てる、それだけだ。
だが、この家の秘密はよほど人に知られたくはないものだったらしい。家の玄関が見える場所で、私たち本隊が固唾を飲んで様子を見守っていると――すると、すぐに母親が家から飛び出したのだ! 目を吊り上げた恐ろしい形相で、手には箒だか伸し棒だかを振りかざして。私たちにとっては都合が良いことに、玄関に鍵を掛けることさえ忘れて。
目の前にぶら下げられた好機に恐怖も後ろめたさも忘れ去って、私たちは半ば開いたままの扉を押し開けた。昨晩は客人として迎えられた家に、今日はこそ泥のように忍び入るのだ。だが、その状況さえも私たちの興奮をいや増していた。
床板を鳴らさないように最新の注意を払いながら廊下を進み、階段を上り、家の外で
幽霊が潜む部屋だ。そう思うと、改めて張り詰めた緊張が私たちを襲った。昼日中とはいえ誰もいない家の中は、夜と同じに静まり返って沈黙が痛いほどだった。窓から射す光で宙を舞う塵が煌くのさえ、幽霊の蠢く影と見間違えてしまいそうなほど。
私たちはこの期に及んで怖気づいて、お互いにお前が扉を開けろとつつき合った。前日は隣の部屋で一晩を明かした癖に、何かがある部屋だと思うと開けるのが怖いのだ。だが、陽動部隊が捕まったなら、母親はすぐにこの家に戻るだろう。そして
だから、私が代表して――あるいは押し出されて――おそるおそる、扉に手を掛けた。夏の気温で温んだドアノブの感触がこの手に蘇るようだ。
そして怖々と室内に入る――すると、カーテンが閉ざされた薄暗がりの中、拍子抜けするほど当たり前の光景が広がっていた。積み重ねられた何かの箱、埃っぽい乾いた臭い。昨日は闇に閉ざされていて見えなかったそこに、何もおかしいことなどなかった。死体が転がっているとか、怪しげな魔法陣が描かれて首を刎ねられた鶏が捧げられているとか、そんなことは、何も。
ただ、物置にしては小ぎれいに整えられて、空気にも淀んだところがない――人が頻繁に出入りしている気配はあったのが不審といえば不審だったろうか。
私たちは未練がましく異常というか超常のことを求めて室内を探し回った。箱をひっくり返したり床を探ったりして。母親の注意を惹かないように、幽霊の立てる音を聞き逃さないように、できるだけ音はたてないようにしながら。
そしてふと、誰かが呟いた。
壁の厚みが、おかしい。
そのひと言は私たちの間に爆弾を投げ込んだ。敵兵が潜む塹壕に手榴弾を投げ込んだらあんな騒ぎになるのではないかな。その言葉は、言われてみれば確かに真実だったのだ。
昨晩過ごした友人の寝室、私たちが
壁の間に何かある!
私たちはもはや声の大きさを気にしなかったし、そう叫んだのが誰だったかも分からなかった。それは私だったのかもしれないし、全員が異口同音に喚いていたのかもしれない。
顔を近づけてよく見れば、壁紙の継ぎ目の後ろに細い亀裂――隠された扉のようなものがあったことも、私たちの興奮を掻き立てた。
扉だ! こんなのがあったのか。お前は気付かなかったのか!? 俺はなにも……。どうやって開ける? 仕掛けがあるはずだ!
誰が何を言ったか何をしたかはもう分からない。ただ、とにかく私たちは首尾よく隠された取っ手を見つけて扉を開けることに成功した。
壁と壁の間の空間、部屋というにもおこがましい狭い隙間。窓はないから昼もなお暗闇に包まれて、わずかに壁板の隙間から射す光がうっすらと照らし出すところ。――そこに、何がいたと思うかね?
ああ、
そこにいたのは、ただの
三人――多分、両親と娘の家族。娘は私たちと同じ年頃の可愛い子だった。三人して身を寄せ合って憔悴した顔をしていたのは、昨晩から人の――つまり、私たちの――気配を感じて怯えていたのだろう。彼らの怯えの理由も、家の大人たちが私たちを疎んじて追い出そうとした理由も、今となっては明らかだった。壁の間の住人たちは、いずれも黒い髪に黒い目をしていた。鼻は、悪名高いあの形ではなかったけれど。でも、母親が上げた悲鳴も、父親が娘を庇いながら私たちに投げつけた罵倒も、まともなドイツ語ではなくて気持ち悪い
私たちといえば、思わぬ幽霊の
友人の両親が壁の間に匿っていたのは、あの時代のこの国、
ユダヤ人の一家だったのだ。
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