壁の間

悠井すみれ

第1話

 君のような若者には信じられないかもしれないが、私の若い頃というのはそう悪い時代でもなかった。あの頃は、写真も映像も白黒のものしか遺っていないからね。空の青も木々の緑も今より一層鮮やかだったと言うのは、なかなか想像しづらいだろう。

 いや、単にビルがなかったとか道路が舗装されていなかったとか、そういうことではなくてね。今のこの国はどこか萎縮しているじゃないか。自分がやったのでもないこと、親でさえあずかり知らないことで、いつまでも肩身の狭い思いをしてるじゃないか。あの頃はそんなことはなくて……私も友人たちも、この国の民であるということを誇りに思っていたんだよ。

 洗脳のように言われるのは好きではないな。君たちは昔の人間はことごとく愚かだったと思っているのではないかね? 国を想う気持ちというのは、心の底から自然に湧いてくるものだ。誰に言われたからでもない――まして、教え込まれたからでもない。ただ、この国の歴史や文化や技術を思えば、そしてそれらを築き上げた先達のことを思えば、自然と敬意を払わねばと思うものだ。最近では胸を張ってそう主張することが難しくなっているようだが……私のような老人は、嘆かわしいと思ってしまうのだよ。


 ふむ、どうも説教臭くなっていけないな。君はこんなことを聞きに来たんじゃない、そうだったね? あの時代の体験談――生きた証言を、今のうちに聞いておきたいということだった。今の学校は色んなことをさせるものだ。

 だが、どうも先生を喜ばせたいとは思わないな。どうせあの時代がいかに苦しかったか、異常だったかを語らせて、平和の尊さを教えるとか戦争を繰り返させないようにするとか、そんな風に纏めたいのだろう。日を追うごとに少なくなっていく食料だとか燃料だとか。空襲、サイレンの音、帰って来なかった隣人。終戦後の混乱や手足の欠けた帰還兵。そんなことが聞きたいのだろう。


 だが、あえて言おう。そんなことは語ってやるものか! そんな言葉なら今までだって散々語られて来たじゃないか。ありきたりな通り一遍のことを聞いたって、君も面白くないだろう?

 むしろ私が教えたいのは、あの頃の私たちも今の君たちの大して変わらないということ。そう、ことあるごとに私たちの世代が化け物のように言われるのが我慢ならないんだ。私たちだって君たちと同じように遊んだし恋もした。勉強は嫌いだったし悪戯をして叱られもした。叱られた――そうだな、あの話なんかは面白いかもしれないな。どうだね、聞きたいかね? 君の課題に相応しくないかもしれないが……そうか、ありがとう。年寄りの昔話に付き合ってくれるのだね。君のような若者がいると知ることができるのは悪くない気分だ。




 あれは終戦の前の年の夏だったと思う。ラジオや大人たちの顔色で、どうも戦況が厳しいらしいということは伝わってきていたはずだが、私たち子供はさほど気にかけていなかったと思う。私たちにとって重要だったのは、晩のおかずとか友人と喧嘩したとか、疎開してきたどの子が可愛いだとか――そう、疎開だ。そういう言葉が出るといかにも戦争体験という感じになるのかな。だが、私たちにしてみれば遊び仲間が増えるというだけのことだった。言葉遣いが違うとか、立ち居振る舞いが垢抜けてるとか、そんなことでやっかみの対象になったり喧嘩になったりということもあったがね。

 別にあの頃の誰もが戦争に熱狂して行進の真似事をしたり軍歌を歌ったりしていた訳ではない。そこは、ちゃんと押さえておいて欲しいものだ。


 あの日も、私たち――気の合う遊び仲間、暇と体力を持て余した十代の少年たち――は親の目を盗んで家業の手伝いから逃れていた。暇なら手伝いをすれば良い? それは愚問というものだ。女の子らしいと言えるかもしれないが。君の同級生の男子たちは、暇な時は大人しくその時間を勉強や親が喜ぶことに費やすのかね? そんなはずはないだろう? そうだ、それと同じことだ。

 あの時代も悪くなかった――とはいえさすがに娯楽は今よりも少なかったし、戦争のせいで雑誌や菓子や酒なんかも手に入りづらかった。だから私たちはただごろごろと草むらに寝転んで喋っていた。何かを話したは覚えていない。ただ適当な相槌を打っていれば話が弾んだ気になる、その類のどうでも良いことだったのだろう。とにかく仲間のひとり、小柄で気弱でバカにされがちな奴、そんな彼が言ったひと言が切っ掛けだった。そいつはね、昼日中だというのに何かに怯えたような表情で、明るい日差しに照らされた草むらを身体を縮めて窺って、私たちに笑われ小突かれて――それから、やっと言ったんだ。


 家に幽霊が住み憑いた気がする、と。


 それはもちろん笑ったさ! みんな幼馴染みだからね、お互いの家には何度も遊びに行ったことがある。そいつの家も。田舎の農村のことだからそれなりに古びたボロ家なことは間違いないが、幽霊だなんて。それも気がする、だなんてつまらない言い方だ。どうせなら窓の外に青白い女の顔が見えたとか壁に血の染みが浮いたとか、そういう分かりやすい怪談ならば良い余興になっただろうに!


 いつもならば、皆に笑われ揶揄からかわれたら、そいつは真っ赤になって黙り込んでいただろう。だが、その日に限って彼は奇妙なほどに熱心だった。自分が感じた恐怖を、誰かに伝えることで軽減させたかったということかもしれない。とにかく、彼は事細かに自宅を見舞う不可思議な現象を挙げはじめた。


 まず最初は、壁の向こうから息遣いのようなものが感じられる、ということから始まったという。夜、ベッドに横になって暗闇の中で目を閉じていると、人の気配がするのだ、と彼は言い張った。夜が怖いなんて子供じゃあるまいし、と笑われると更に詳細な事例を並べ始めた。


 壁の向こうで蠢く何か。こちらが息を潜めて気配を探っているのに気づくと、あちらも黙る。でも、緊張に疲れてうたた寝した頃に、またそれは動き始める。時に壁や床の軋みさえ伴って。しかしもちろん家の中には彼と両親しかいないはず、音が聞こえる場所も両親の寝室とは違う方向からなのだ。


 今なら騒霊ポルターガイスト現象とでも呼ぶのだろうか。当時の私たちはそんな言葉は知らなかったし、気のせいではないかと言う者もいたけれど、でも、言い出した彼の怯えようは、少なくとも嘘や悪戯で言っているのではないように思えた。彼の話ぶりの真剣さに、私たちの誰もが暗い家の中、家人の目を憚るように徘徊する何者かを見た気になった。太陽の輝く下のことだというのにね。


 しかも彼の家の変事は夜の間だけではないらしい。一度気づくと、人の気配は朝でも昼の間でも感じられた。彼が警戒を忘れた頃に、不意にことりと家のどこかで物音がする。両親に訴えても気のせいだと取り合ってもらえず、勉強しろと説教されるばかり。でも、の息遣いが聞こえる家で集中できるはずもなく。私たちとつるんでいるのも、家にいる時間を減らしたいからということだった。


 父さんも母さんも何か知っていると思う。その少年はぽつりと言った。だってふたりとも何も気づかないはずがない。彼の五感はいたって正常なのは、私たちもよく知っている。彼の耳に明らかに聞こえ、肌に明らかに伝わる、抑えた人の呼吸。両親にも感じられるはずなのに、彼らは知らない振りを通しているのだ。


 それに、異常は気配だけに留まらない。騒霊は、壁を越えて彼の家の中をも荒らしまわっているのだという。それは、彼の気のせいではないという何よりの証拠だろう? 確かに揃えていたはずの椅子の並びが乱れている。誰も使っていなかったはずなのに、風呂場には濡れた水の跡が。母親は毎日掃除をしているはずなのに、どこからか土くれが部屋の中に入り込んでいる。極め付けに、彼は見つけてしまったのだ。廊下の隅に落ちていた長い黒髪――母親のものと違って、瑞々しくしなやかな!




 ……友人の話に聞き入るうち、その憔悴した表情を見るうちに、私たちの胸にある感情が湧き起こった。あの時代、私たち青少年は国のため仲間のために力を合わせるという概念を宗教のように叩き込まれていたことを忘れてはならない。今の君らは眉を顰めるのかもしれないが、年若い私たちには戦場での活躍など望むべくもなかったが、今こそ教えられた教義を実行する機会が目の前に現れた、と――その時の私たちは奮い立ったのだ。


 大人は頼りにならない――若者というのはそう考えると興奮してしまうのは分かるだろう? 君のような女の子だったら先生にでも相談するとか言ったのだろうか。だが、生憎その場にいたのは腕白な少年だけだった。十代も半ばになって子供っぽいことだったかもしれないが。だが、自らの力に自負も出てきて、大人は自分たちを過小評価していると不満に思い始めた時期でもあった。


 ここまで言えば、私たちが企んだことはもう分かるのではないか? 思い上がった子供たちが寄り集まって、一体何を考えたか――そう、その幽霊を退治してやろうと思ったのさ。




 発端となった少年の家に泊まり込みたい、という計画はすんなりと受け入れられた。さすがに仲間の全員で、ということは例がなかったが、それぞれの親同士も互いをよく知っていたからね。また例の連中か、という程度の反応で済ませることができたよ。むしろ勉強会を口実にしたから、珍しいこともあるものだと感心というか気味悪がられたことを覚えている。

 いや、完全にすんなりと、ではなかったか。幽霊が出るという家の主、例の少年の親だけは、自宅に押し寄せた悪がきどもに顔を顰めていたものだ。だが、それは無理もないことだろう? 誰も若者たちのバカ騒ぎで安眠を妨げられたいなどとは思うものか。特に母親について言えば、食事やベッドの支度もあっただろうしね。私たち客側の母親から、何かしらの埋め合わせはあったのだろうが……とにかく、面倒には違いなかっただろう。


 彼の家に上がりこむと、前にも遊びに行ったことがある、その時の記憶のままだった。私たち仲間のどの家とも似たようなつくりと似たような家具。芋を詰め込んだ袋が無造作に置かれているのも馴染みのある光景だった。数が朝より減っている、と例の少年はまた呟いていたけれど。


 さて、勉強なんてもちろん誰もする気はなかった。家の主夫婦に叱られない程度に声量を抑えて、でも多分完全に押さえることなんてできなくて、私たちはまたどうでもよいことを語り合った。

 とはいえそれも真夜中近くなるまでのことだ。何しろ幽霊が出るという触れ込みの――少なくとも不可解な現象が起きている――家にいるのだからね。今この瞬間にもが起きるのではないかと、次第に私たちは言葉すくなになっていった。


 そうすると身に染みるのが夜の静けさだった。あれもまた、あの時代ならではのことだったのだろうな。この辺りは空襲など縁遠い田舎ではあったが、それでも戦時下だ。燃料も限られていたし、どこか夜は息を潜めていなければ、という雰囲気も強かった。街の中心部でさえも、今とは違って日没と共に店はみんな閉まってしまって。夜中にたむろする場所なんてなかった訳だから、不良と言っても私たちは可愛いものだったのかもしれないな。

 ……とにかく。そんな夜がどんなものだか、君には想像できるかね? 誰もが家に閉じこもって通りには人ひとりいない。扉一枚では闇から身を守るのには心もとなくて、夜中に目が覚めようものなら、自分の家、自分の寝室であっても何ものかが入ってくるのではないかと恐れるかもしれない。それほどに、あの頃の夜は暗く闇は深かった。――君は、夜に遊びに出ることはあるか? 男友達は? そうか、最近の子はそうなんだな……だが、あの頃の夜の中へは、君は足を踏み出そうとは思わなかっただろうな。


 夜の闇と沈黙は圧力となって私たちにし掛かってきていた。気心の知れた友人と一緒にいるのでなければ、そして臆病風に吹かれていると思われたくないというささやかな意地がなければ、私もシーツを被って震えていたかもしれない。風の音や梟の声にもいちいちびくびくして、引きつった声でお互いに笑い合う――そんなことを夜が更けるまで続けて。

 眠っていないつもりで、いつしか私たちは微睡んでいたのだろう。日が昇る前のもっとも闇が濃い時間に、疲れて気の緩んだ夜警の兵士。映画なら敵の奇襲があるであろう場面だった。奇襲――そう、私たちにはまさに奇襲のように感じられた。


 仲間のひとりがもたれていた壁。その裏側から、何かが動くごそりという音がしたのだ。

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