4. 小川 舞 8:20 p.m.
一段と大きく長い歓声があり、しばらくすると人の波がどっと階段を下ってきた。まるでパチンコで大当たりしたみたいだ、とパチンコをしたこともない舞は思う。名和さんと別れてからずっと、自分が再び止まることなく歩き回っていることに、舞はやはり気づいていない。気持ちは落ち着くどころか、高ぶる一方だった。
「遅いなぁ」
それから十分ほどして、舞が十二回目に時計を見たとき、去っていった方向から名和さんは現れた。舞は、待ってましたとばかりに駆け寄る。
「お待たせ」
「サインは? サインはもらえました?」
舞は「待て」ができない犬のように質問を浴びせかける。名和さんが後ろ手にしているのが、舞の期待と興奮を煽る。
「まぁまぁ、そう慌てなさんなって」
そう言いながら、名和さんはCDを差し出した。舞は「おー!」と歓声を上げ、それからCDを食い入るように見つめる。
「順序が逆じゃない?」と名和さんが笑う。
「これ? これですか?」
CDの表面に走り書きされた英字を指差して、舞が尋ねる。
「そうよ。それがメイルのサイン」
「おー!」
「ごめんね。ドタバタしてて、彼一人のしかもらえなかったの」
「十分ですよ。十分どころか、百万分です」と舞は意味不明なことを口走る。
「それはよかった」と言いながら、名和さんは腕時計に目を落とした。「じゃあ、これで」
「もう行っちゃうんですか?」
「えぇ。こう見えても私、忙しいのよ。あ、そうそう、ジッポーだけどね、案の定彼に取られちゃったわ」
「彼って?」
「メイルよ。彼、ジッポーが好きで、コレクトしてるの」
そう言われれば、舞も雑誌でそんな記事を読んだことがあった。
「彼が言うには、あのジッポー、珍しいものらしくて、すごく喜んでたわ」
「あのジッポーをメイルが持ってるんですか?」
「えぇ。サインがもらえれば、それでよかったのよね?」
「はい。ただ、何か、全てが信じられなくて」
「はは」と名和さんは笑い、目を細める。「私も通訳になった初めのころは、有名人に会うたびに思ったわ。『これは夢なんじゃないか』って。おっと、思い出話してる時間はないんだったわ。本当に行かなきゃ」
「本当にありがとうございました。もう感謝感激、雨あられです。このご恩は一生忘れません。お仕事頑張ってください」
舞は少しでも名和さんに恩返しをしようと、感謝と励ましの言葉を思いつく限り並べ立てる。
「このあと、新宿で打ち上げなのよ。そっちも頑張んなきゃ」と名和さんは冗談めかして言い、颯爽と去っていった。名和さんの後姿を見送りながら、彼女は天使だ、と舞は思った。
人込みの中を、CDを抱きしめ、欣喜雀躍しながら出口を目指す。今日のことは一生忘れられないだろうな、と舞は思う。
「一回や二回、オーディションに落ちたからって何よ。絶対プロになって来てやるからな。待ってろ、武道館」
CDを持った両手を高く突き上げると、舞は周囲を気にすることもなく雄叫びを上げた。
6/30 ― A Day to Remember ― Nico @Nicolulu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます