3. 千葉正雄 8:32 p.m.

 九段下の駅は武道館から流れ込んだ人で溢れ返っていた。正雄と雄彦が乗り込んだ電車もやはり超満員で、ほとんど身動きも取れない。

「ひでぇな。花火大会みたいだ」

「花火大会はこんなに混まないよ」


 新宿に戻ると、雄彦の「一杯やろう」という提案で居酒屋に行くことになった。入ったのは高層ビルの高層階にある落ち着いた雰囲気の和風の店で、入ってわかったのだが、外観よりもはるかに広かった。

「おい、この店、最大二百四十人で宴会ができるらしいぞ。東京ってのは、本当にすげぇな。うちの町じゃ、こんだけ人が入れるのは小学校の体育館くらいだぞ」

 案内された席でメニューを見ていると、雄彦が驚きの声を上げた。

「残念だけど、親父にはそっちの方が似合ってるよ」


 運ばれてきた酒が胃に流し込まれるにつれ、雄彦は陽気で雄弁になっていった。先程のライヴの感想から始まった話は、様々なほかのものに飛び火し、複雑に回り道をし、やがて四十年前のビートルズのライヴの話になった。

「もう昔のことだからよ、あんまりよく覚えちゃいないけど、すごかったよ。うん、すごかった。何てぇのかな、こう、時代が変わるんだっていうか、こいつらが時代そのものなんだっていうのをひしひしと感じたな。うん。今でもはっきりと覚えてるよ」

「覚えてないのか、覚えてるのか、どっちなんだ」

 正雄自身も、体内をめぐる酒のせいか、それとも二人の間にある穏やかな空気のせいか、感じたことのない温かさと心地よさを感じていた。同時に、自分が雄彦と酒を飲み交わしている状況をふと奇妙に感じ、これが大人になるということなのかもな、と感慨に浸りそうになる。


「お前にはよ、そういうのをたくさん感じてほしいんだ」

「そういうのって?」

「だから、こう、体が芯から震えるようなよ、そういう感覚だよ」

 正雄は、雄彦が何を言い出すのかと身構えながら、先を待つ。雄彦は日本酒を口に運び、頭をぽりぽり掻いてから、再び口を開く。

「訳知り顔で、それは違うとか、これが絶対に正しいとか言うやつは多いけどよ、はっきり言って、『クソくらえ』だよ。そうだろ? そいつらに何がわかる? いいか、大切なことは自分で決めろ。お前は本物を見極められる男だから、誰が何と言おうが、自分が正しいと思うことをすればいい」

 そう言って、雄彦は正雄のお猪口に酒を注いだ。元々一杯だったので、注いだ量の半分はテーブルに零れた。


「どうしたの、急に?」

 正雄が零れた酒を拭き、尋ねる。

「どうもしねぇよ。ただ……」と雄彦はそこで一旦言葉を区切る。「ただ、お前は俺にとっては自慢の息子だからよ、もっともっと自慢の息子になってもらいてぇんだよ」

 正雄は驚いて、思わず持ち上げたお猪口を落としそうになった。そして次の瞬間には、目頭が熱くなるのを感じ、少し困惑した。

「何言ってるんだよ。飲みすぎじゃないの?」

「そんなことねぇよ」と雄彦は鼻を豪快に啜り上げた。「要は、俺みたいにはなるなってことだよ」

「何言ってるんだ。親父は立派な俺の親父だよ」

「立派なお前の親父か……」と雄彦は呟くと、嬉しそうに笑みを零した。「へへ、何か湿っぽくなってきたな。もうやめようぜ。ほら、お前も飲め」

 正雄は一気にお猪口の中身を飲み干す。雄彦の注いだ酒は、やはり半分が零れた。


「話は戻るけどよ、シルバー・レインってのはやっぱいいな。ビートルズを演奏したってことは、やっぱりあいつらもビートルズが好きなんだろうな」

「だろうね」

「もし会えるもんなら、訊いてみてぇな。『ドゥー・ユー・ノウ・ザ・ビートルズ?』ってな」

「『ノウ』じゃなくて、『ライク』ね」

 雄彦はタバコをくわえると、店員からもらったマッチで火を着けようとしたが、なかなかうまくいかない。痺れを切らした雄彦は、個室の扉を開けると首を外に突き出し、「お姉さん、ライターないの、ライター。このマッチ、ダメだよ」と叫んだ。正雄の位置からは外の様子は見えないので、実際にそこに店員がいるのかどうかはわからない。個室の前を通り過ぎていた外国人が、興味深そうに雄彦の顔を見た。

「おい、すげぇぞ」と雄彦は外を覗いたまま言った。

「何が?」

「外国人がいっぱいいる。さすが東京だな。こんなに座れるのか? あ、三百六十人まで入れるから大丈夫か。さすが東京だ」

「二百四十人でしょ? 何でもかんでも、東京、東京って」と正雄は半分呆れながらも、残りの半分は微笑ましく雄彦を見つめる。

「あ、ねぇ、お姉さん、ライターちょうだい」


 雄彦がもう一度そう叫んだ直後、個室の入り口に大きな影が立ち塞がった。その男は早口で何か言ったが、正雄には聞き取れなかった。顔を確認するよりも早く、男が雄彦の顔の前に突き出したジッポーが目に入る。

「お、貸してくれるのか?」

 雄彦が男の顔とジッポーを見比べながら言う。「ライターだけど、サンキュー・ベリ・マッチってか」

 男の顔を見た正雄は、思わず息を呑んだ。もしお猪口を持っていたら、今回は間違いなく落としたはずだ。

「うん?」と雄彦が手にしたジッポーを見ながら首を傾げる。「どっかで見たようなライターだな」

「親父……」

「それに、兄ちゃんの顔もどっかで見た気がするぞ」

「親父」

「うん?」

 正雄の言葉にようやく雄彦が振り返る。

「震えた気がする」

「あぁ? 地震か?」

「体の芯が、だよ」

 雄彦はしばし怪訝そうな顔をしていたが、やがて「あ」と間の抜けた声を出した。目の前の男の顔を呆然と見つめる。半開きになった口から、タバコが落ちた。


「おい、正雄」

「何、親父?」

「やっぱ、東京はすげぇよ」

「そうかもね」と正雄は答え、不思議そうに二人の顔を見比べている長身の男に、思いきって尋ねてみることにした。


「ドゥー・ユー・ライク・ザ・ビートルズ?」

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