2. 桐野修一 8:23 p.m.

「これこそロックよ」と香夏子は熱気に上気した顔で訴える。「ロックを感じたでしょ?」

「感じた、気がする」と修一は答える。「ロックってうるさいだけだと思ってたけど、今日のはちょっと違った」

「彼らが違うのよ」


 外に出ると、涼しい風が頬に吹きつけた。修一と香夏子はほとんど同時に、ふぅとため息をついた。武道館から流れ出た人々のほとんどが九段下の駅へと詰めかけていたので、ホームや車内での混雑は容易に想像できた。だから、香夏子が「飯田橋の駅まで歩きましょ」と提案したときも、修一はおとなしく同意した。


「しかし、香夏子が結婚するとはね」

 修一は信じられないと言わんばかりに、大げさに言ってみせた。そして修一の予想どおり、その言い方に香夏子が突っかかってくる。

「何よ。私が結婚したらダメなわけ?」

「もちろんダメじゃないよ。ダメじゃないけど、信じられないっていうか……」

「まぁ、そりゃそうよね」と香夏子も頷く。「私だって信じられないもん。まさか、自分が結婚するとはね」

「知らないうちに大人に近づいてるんだね。俺も香夏子も」

「と言うより、二十二や二十五なんて、世間的にはとっくに立派な大人でしょ? ただ、意識が追いつかないのよね、意識が」

 そういう香夏子の横顔は昔と変わらないように、修一には思える。


「それより、修。あんた、姉のことを呼び捨てにするの、いい加減にやめなさい」

「いい加減にって、二十二年間ずっとそうだっただろ? 今更何で」

「そうだけど、何となく体裁が悪いじゃない? カップルみたいだし。せめて、『姉さん』を付けるとか」

「姉さん香夏子」

「どこに付けてるのよ。下よ、下」

「香夏子姉さん」と修一は口にし、すぐに身震いした。「嫌だよ。何だか気持ち悪い」

「気持ち悪いって何よ」と香夏子は目を剥く。

「だって、香夏子は香夏子だろ? 結婚したら『桐野』ではなくなるけど、香夏子は香夏子だ」

「そりゃ……そうだけど」

 香夏子は少し寂しそうに俯いた。それから、感傷的になるのを嫌ったのか、明るい声で「修は結婚しないの?」と唐突に投げかけた。

「俺? するわけないじゃないか」

 修一は笑って答える。

「彼女は? いないの?」

「いないよ」

 ふぅん、と言ったきり、香夏子は黙った。サイレンを鳴らした救急車が二人の横を通り過ぎた。


「ねぇ、飲みに行きましょうよ」

 救急車が後方の交差点を曲がり、サイレンの音が聞こえなくなってから、香夏子が言った。

「修のおごりで」「香夏子のおごりで?」

「結婚祝いにおごりなさいよ」

「姉さんなんだから、偶にはおごってよ」

「こういうときだけ『姉さん』とか言うな」

 香夏子が修一の肩を小突く。

「わかったよ。今日だけだよ?」と修一は諦めたように言う。

「さすが、我が弟」

 そう言って、今度は修一の肩に手を乗せる。「あんた、いい男になるよ」

「香夏子に言われても嬉しくない」

「照れちゃって」

「そんなんじゃないって」

 修一が向きになるのを面白がるように、香夏子は高い声で笑った。

「そうだ。結婚といえば、修の中学の同級生で沢木さんていたじゃない。背が高くて、水泳の上手だった子。あの子、美術の金子先生と結婚したのよ」

「え、嘘。本当に?」


 ビルの狭間で交わされる姉弟の会話は、終わる気配がなかった。

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