Round 5

1. 磯村直樹 8:25 p.m.

 直樹と勘太郎は椅子にもたれかかり、お互いに言葉を交わすこともなく、蟻のように動く群集を見つめていた。頭の中ではまだ、ギターの音がグワァングワァンと反響しているようだ。やがて係員が、「ただいまから館内の清掃を行います。忘れ物をなさらないようにご確認のうえ、お早めにお帰りください」と声を張り上げて急かし始めたところで、ようやくどちらともなく立ち上がった。


「いやぁ、やっぱ迫力が違うな。最高だった」

 歩きながら、勘太郎が興奮冷めやらぬという様子で言った。直樹も強く頷き、同意する。

「お前が薦める理由がわかった気がするよ。シルバー・レインはすごい」

「だろ?」と勘太郎は得意げだ。「ただうるさいだけの、そこらへんのロックバンドとは違うよ」

 出口へ向かう人波とは別に、ガラス戸の向こうにも人が多くいた。どうやら喫煙場所になっているようだ。勘太郎が「一服しよう」と提案し、二人は外に出た。


 木々が黒い影となって眼前を覆い、その上の曇り空は街の光を受けてぼんやりと明るかった。館内を歩く人々の騒めきと車のエンジン音と虫の声が一緒くたとなって耳に届いた。

「俺たちが入ったときに演奏してたのって、ビートルズだろ?」

 直樹がタバコを口にくわえながら、勘太郎に訊いた。

「あぁ、そうだよ。『ノーウェア・マン』だな」

 そう言って、勘太郎は鼻歌でその歌を歌う。「あーぁ、初めから聴きたかったよな」

「ノーウェア・マンってどういう意味なんだろ?」

「さぁな」と勘太郎は特に考えることもなく言う。

「あれ?」と腰のバッグを探っていた手を止め、中を覗き込みながら直樹が声を上げる。

「どうした?」

「ライターがない」

「どっかに忘れたんじゃないのか?」

 直樹は最後にライターを使ったのはいつかを思い返し、すぐに新宿のファーストフード店だと思い当たる。

「あぁ、さっきのおじさんに貸したときだ。返してもらって、自分で使って……そうか、きっとあそこに忘れたんだ」

「ちょっと待て。ライターって、あのジッポーか?」

「うん。そう」

「あれって、貴重なやつなんだろ?」

「親父曰くね。でも、本当だか怪しいもんだ」


 あのジッポーは、直樹の父親がハワイに行ったときに土産として買ってきたものだった。父親が言うには「すごく貴重で価値がある」らしかったが、話を聞けばそれも、「土産屋の主人が言うには」ということで、結局確固たる裏づけもなく、ゆえに直樹もそれほど真に受けてはいなかった。きっとその主人は、親父が立ち去ったあとに違うジッポーを机の引き出しから取り出して、別の客に同じことを言ったに違いない、というのが直樹が至った結論だった。直樹は勘太郎の百円ライターを借りて火を着けると、煙を勢いよく吐き出した。思えば、今日は物を失くしてばかりだな、と直樹は思う。


 武道館を出ると、そのまま人の流れに乗って通りを目指した。ピークを外して少し遅めに出たつもりだったが、二つの門をくぐるあたりは道幅が狭いせいで、まさに押し合い圧し合いといった状況だった。時偶、気持ちが高ぶった若者が狂ったように声を上げた。今も直樹の少し前で、まるで宝くじにでも当たったような女の子の叫び声が聞こえた。前を歩く人に隠れて彼女の姿は見えないが、彼女が高々と突き上げた両の手はよく見えた。

 

 直樹が気になったのは、その彼女の手にしっかりと握られていたものだった。それはシルバー・レインのCDだった。自分が借り、そして今日無くしたのと同じ、彼らのセカンドアルバムだ。でも直樹はCDそのものよりも、むしろそのケースが気になった。それがレンタルショップでCDが入れられている透明のケースだったからだ。俺が失くしたCDは一体どこへ行ったんだろう、と直樹は今日幾度となく思ったことをまた思う。


 靖国通りへ出ると、二人はどちらともなく市ヶ谷方面に向かって歩き出した。しばらくはライヴの感想を言い合い、「あのひったくりの一件がなければ、最初から見れたんだ」という今日何度目かの勘太郎の愚痴をきっかけに、今度はひったくりの話になった。それらの話が一段落すると、二人は申し合わせたように押し黙った。少し先に、救急車が赤色灯を回転させ、停まっている。


「俺たちどうなるのかな?」

 救急車の横を通り過ぎてすぐ、勘太郎が唐突に呟いた。

「え?」

「卒業して、就職して、結婚して、子どもができて。これから、俺たちどうなるのかな?」

「自分で言ってるじゃないか。卒業して、就職して、結婚して、子どもができるよ、きっと。ついでに孫もできる」

「そうじゃなくてよ。そうやって少しずつ状況が変わる中で、俺たち自身はどうなるのかってことだよ」

「どうしたんだ? やけに哲学的じゃないか」と直樹は勘太郎がそんなことを言うのに少し驚きながらも、いつものように茶化す。

「古風で仁義を重んじるうえに、哲学的な男なんだよ、俺は。で、直樹はどう思う?」

「さぁな。なるようになるだろ」

「お前、俺みたいなこと言ってんじゃねぇよ」と勘太郎は直樹の尻を軽く蹴る。

「どういう怒り方だよ」と直樹は尻をさする。「だって、考えたところでそんなのわからないだろ?」

「まぁ、そうだよな」と勘太郎はおとなしく認める。「なるようになるよな」


 勘太郎が「レット・イット・ビー」を歌うのを横で聴きながら、直樹は少しだけ先の未来を思い浮かべた。

「なるようになるよ」

 それが、そのとき直樹が至った結論だった。

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